没話1
「……いいか、高田さん。俺は、三菱の技術力を疑っているわけじゃない。むしろ、4B11エンジンの堅牢さとS-AWCの制御能力には、畏敬の念すら抱いているんだ」
埼玉中央総合大学、E Tower(E塔)裏の特設カオスエリア。
加賀練斗は、目の前に鎮座する青いセダン——高田海斗の愛車、ランサーエボリューションⅩを、まるで「解けない数学の難問」でも見るような、眉間に深いシワを刻んだ表情で見つめていた。
「だがな……この色はダメだ。この『ライトニングブルーマイカ』は、あまりにも完成度が高すぎる。夕暮れの光を反射して深みを増すこの蒼……そしてそこに組み合わされたアドバンレーシングのゴールドホイール(RCⅢ)。……これはもはや、三菱がスバルに対して仕掛けた、高度な情報戦にしか見えないんだよ!!」
加賀の絶叫に、高田海斗はエボⅩのボンネットに背中を預けたまま、悟りを開いた僧侶のような乾いた笑いを漏らした。
「加賀、お前の言い分はよくわかる。……だがな、これは三菱純正の『ライトニングブルーマイカ』だ。俺がスバルに憧れて全塗装したわけじゃない。工場から出てきた時からの、誇り高き三菱の蒼なんだよ。……それを、どいつもこいつも『あ、インプレッサだ! ラリー頑張ってね!』とか『やっぱり青いセダンはスバルに限るよね!』とか……。……俺の10年間の自尊心は、すでにボロボロのガスケットみたいにボロボロなんだよ」
「高田先輩、その『ボロボロのガスケット』って表現、走り屋以外には1ミリも伝わらない絶妙なダサさですね!! 記録しておきます!!」
鈴木準がスマホを構え、ライトニングブルーマイカの塗装面をマクロレンズで撮影し始める。
「でも見てくださいよ、この青。ケモノの瞳の奥にある神秘的な深淵と同じ色をしてます。……高田さん、この車、モフってもいいですか?」
「……死にたいのか? お前、俺の大事な外装に脂をつけたら、その瞬間、AYCで強制的にスピンさせて、そのまま地獄の果てまでドリフトで連れて行くぞ」
「初代、怖ぇぇぇぇぇぇ!!! 性格の捻じれ方がデフの効きすぎたLSDみたいになってる!!!」
雅紀がRX-8の陰から悲鳴を上げる。
マイケル・タナーは、高田の足元に跪き、まるで聖遺物を拝むようにホイールを眺めていた。
「OH... ADVAN Racing Gold... THIS IS THE TRADITION!! タカダ・サンのエボⅩ、アメリカのJDMフェスに持っていったら、10秒でスバリストに囲まれて暴動が起きるYO!! “インポスター(偽物)!”って叫ばれるYO!!」
「マイケル、黙れ!! “偽物”はNGワードだと言っただろ!! 先輩の逆鱗にブーストかけるな!!」
細田がフィットの陰から制止するが、高田はすでに慣れきった様子で、再び深い溜息をついた。
「……まぁいいさ。俺がここに来たのは、お前らと色の議論をするためじゃない。……呉さんに頼まれたんだよ。『現役のバカ共が、最近自分の限界と車の限界を混同し始めてる。一度、本物の“理不尽”を見せてやってくれ』ってな」
高田がポケットからエボⅩのキーを取り出し、指先で回した。
「……加賀。お前、セリカを磨くだけで満足してるわけじゃないんだろ。……その赤い車、最後に本気で泣かせたのはいつだ?」
加賀の目が、一瞬で走り屋のそれに変わる。
「……毎日ですよ。俺の2ZZ-GEは、常にレブリミットの向こう側を見据えてる。……先輩が、俺たちに何を教えようっていうんですか」
「教える? そんなおこがましいことはしないさ。……ただ、初代S・H・Bが、この大学の地脈にどんな『傷跡』を残していったのか……それを少しだけ、思い出させてやるだけだ」
高田はエボⅩの運転席に滑り込んだ。
シートベルトを締めるカチリという音が、E塔裏の喧騒を一瞬で静寂に変える。
「……全員、車に乗れ。……目的地は、第3セクターの『死のヘアピン』……。……俺たちが、かつてガソリンと涙で川越街道を水没させた、あの場所だ」
「「「「「川越街道を水没させるなよ!!!! 何リットル漏らしたんだよ!!!!」」」」」
全員が自分の車へと駆け込む。
加賀のセリカ。雅紀のRX-8。準のノートNISMO。細田のフィット。マイケルのレガシィ。
5台のエンジンが、高田のエボⅩが放つ「初代の重圧」に呼応するように、次々と目覚めていく。
「行くぞ。……ちぎれるなよ、後輩共」
ライトニングブルーマイカのボディが、夕闇に溶け込むように動き出した。
川越街道のバイパスを抜けて、一行は郊外の工業地帯へと向かう。
そこは、夜になると街灯もまばらになり、アスファルトの黒さだけが強調される、埼玉の走り屋たちの聖域——あるいは墓場である。
先頭を行く高田のエボⅩは、まるでレールの上を走っているかのように滑らかだった。
だが、その速度は異常だった。
「……なっ!? あの先輩、コーナーの手前で一度もブレーキランプが点いてねぇぞ!?」
セリカを駆る加賀が、ステアリングを握る手に力を込める。
「4WDのトラクションを信じ切ってやがる……。……いや、違う。車体の向きを変える一瞬の動作だけで、旋回を終わらせてやがるんだ……。……これが、初代の、高田海斗の走り……!!」
無線機から準の悲鳴が聞こえてくる。
「加賀ぁ!! ダメだ、俺のノートじゃ、あの青い残像にピントが合わない!! 狐の神速を超えてやがる!! あの人、人間じゃないよ!! タービンと脳が直結してるサイボーグだよ!!」
「準、落ち着け!! マイケル、お前のEJ20ターボなら、直線で追いつけるだろ!!」
「NO!! カガ!! ムリデスYO!! あのエボⅩ、加速のたびに『三菱の怒り』が地面を叩いてるYO!! オレのレガシィがビビって、ブーストが1.0以上上がらないYO!! 精神的ノッキングデスYO!!」
工業地帯の最深部。通称『死のヘアピン』と呼ばれる、R(半径)が極端にキツい右カーブが迫る。
高田のエボⅩは、そこへ吸い込まれるような速度で突っ込んでいった。
加賀が「死ぬ!!」と直感したその瞬間。
エボⅩのリアが、物理法則を無視した角度で外側に流れた。
ドリフトではない。それは、S-AWC(車両運動統合制御システム)を極限まで使いこなし、全輪に均等な駆動力を配分した結果生まれる、神速の方向転換。
「——ドゴォォォ……ッ!!!」
強烈なスキール音と共に、エボⅩはヘアピンを一瞬で立ち上がり、そのまま闇の向こうへと消えていった。
10秒後。
ヘアピンの手前で全員がフルブレーキングをかまし、よろよろと停車する。
「……化け物だ」
雅紀が、窓から顔を出して戦慄する。
「今の、絶対AYCが泣いてたぞ。……あんなの、機械へのパワハラだろ」
「……いや。……車が、喜んでた」
加賀が、エンジンの熱気を逃がすために窓を全開にして呟いた。
「……セリカのハンドルから伝わってきた。……先を行くあの車、悲鳴を上げてるんじゃない。……『もっと回せ、もっと踏め』って、高田さんと会話してたんだ」
そこへ、闇の中からゆっくりとエボⅩが戻ってきた。
ハザードランプを点滅させ、静かに停車する。
高田が車から降りると、ライトニングブルーマイカのボディから陽炎が立ち上がっていた。
「……どうした、お前ら。……俺の『偽インプレッサ』に、置いていかれた気分は?」
「……完敗ですよ、高田さん」
加賀が、悔しさを隠さずに言った。
「……でも、一つだけ言わせてください。……あのライトニングブルーマイカ、さっきの走りを見たら……もう、スバルには見えませんでしたよ」
高田は、意外そうに目を見開いた後、ふっと鼻で笑った。
「……そうか。……なら、今日のガソリン代は、無駄じゃなかったな」
「……まぁ、タイヤの溝は無駄になりましたけどね」
全員が笑う。
旧作から続く「バカの熱量」が、初代OBという触媒を得て、新章の熱源へと変わった瞬間だった。
しかし、高田海斗は空を見上げ、少しだけ真面目な顔で付け加えた。
「……だが、加賀。浮かれるのはまだ早いぞ。……俺が戻ってきたってことは、あいつらも黙ってないはずだ」
「あいつら……?」
「……俺たちの代を、さらに地獄に変えた、大学の『真の支配者』たちだよ。……特に、日本史学部のあの准教授。……あいつにだけは、絶対に車を近づけるな。……ホワイトボードのペン一本で、お前のセリカが廃車になるぞ」
加賀の背筋に、冬の埼玉の風よりも冷たいものが走った。
朱音が、メモ帳に今日一番の重要事項を書き込む。
『記録:第92話。高田OBによる“三菱パワハラ走法”の洗礼。……特記事項:高田さんからの警告。日本史学部の准教授に注意とのこと。……ホワイトボードのペン? 廃車? 意味がわからない。……でも、この大学ならあり得そうで怖い——記録完了』
夜の工業地帯に、冷えていく6台のエンジンの音が、ピキピキと響く。
新章の歯車が、高田のアクセルと共に、確実に回り始めた。




