異常燃焼
朝の保衛省は静かだった。
廊下を歩く人間はいる。コピー機が動いている。どこかの部屋から電話の声がする。しかし静かだった。忙しい静けさではなく、それぞれが自分の仕事に収まっている静けさだった。
カレン・ヴォークトのデスクの上には、四件分の報告書が並んでいた。
押収星露の消失事件。合計百五十六キログラム。別々の地区、別々の施設、別々の担当。しかし手口の方向性が一致していて、量が段階的に増えていて、間隔が短くなっている。
カレンにはこれが一本の線に見えた。
周囲には、そう見えていなかった。
隣のデスクの同僚が、資料の一枚に目をやってから言った。
「まだやってるの、それ」
「関連性がある」
「四件で別々に処理済みじゃないか。担当も違う。偶然の一致という可能性は考えないのか」
「百五十六キロが偶然で揃うか」
「量の話だけで関連付けるのは無理がある。上はそう見てない」
カレンは答えなかった。上がどう見ているかは知っていた。先週、捜査の拡大について打診したとき、直属の上司は言った。「証拠を出してくれ。状況証拠だけでは動けない」。正論だった。だからこそ、証拠を探している。
「大規模な組織犯罪だと思ってるんだろ」と同僚は続けた。「でも現場は静かだぞ。魔法組織が動いてるような気配がない。摘発情報も上がってこない」
「動いてる気配がないのが変なんだ」
「意味が分からない」
「これだけの量を動かせる組織が動いているなら、何らかの痕跡が出る。人が動く。金が動く。連絡が増える。でも何も出ていない」
「つまり、大きな組織の犯行ではないということじゃないのか」
「あるいは、想定外のやり方で動いている」
同僚は少し考えてから、「好きにやってくれ」と言って、自分のモニターに向き直った。
午前中は聞き込みに使った。
最初は押収品の管理担当者だった。三番目の事件で担当していた人物で、現在は別部署に異動している。オフィスの会議室で話を聞いた。
「改めて伺いたいんですが、消失に気づいたのは誰ですか」
「夜間の点検担当者です。コンテナを開けたら空だったと」
「その担当者に直接話を聞けますか」
「退職しています」
「退職の時期は」
「事件から二ヶ月後ほどです。一身上の都合と聞いています」
カレンはメモを取った。退職自体は珍しくない。しかしタイミングは記録しておく価値があった。
次は輸送業者だった。二番目の事件で輸送中に消失した案件の担当業者だ。倉庫街にある小さな事務所で、社長が対応した。
「あの件は本当に参りましたよ。過失扱いにされたが、うちは手順通りやってる」
「手順通りというのは」
「封印確認、施錠確認、ルート記録、全部やった。しかし届いたときには中身が減ってた。どこで消えたか分からない」
「ルート上で不審な点は」
「だから調べてもらいたかった。でも過失で終わりにされた。うちは今も納得していない」
カレンはメモを取りながら、この業者は白だと判断した。不満の種類が、隠蔽しようとする人間のものではなかった。
午後になった。
最後の聞き込み相手は、以前摘発された売人だった。現在は執行猶予中で、定期的に保衛省への報告義務がある。その報告に合わせて話を聞いた。
男は四十代で、痩せていた。表情に疲れがある。
「最近の市場の様子を教えてほしい」
「壊滅的ですよ。在庫がない。あっても値段が馬鹿みたいに高い」
「需要側はどうですか。買い手の層に変化は」
男はそこで少し間を置いた。
「変化、ありますね」
「どういう変化ですか」
「最近は魔法使いより車乗りの方が怖い」
カレンは手を止めた。
「もう少し詳しく」
「走り屋ですよ。改造車乗りの連中。最近そっちからの需要が増えてる。しかもかなり」
「星露を」
「はい」
「車に使うために」
「そうです」
カレンはしばらく男の顔を見た。冗談を言っている顔ではない。しかし話の内容が理解できなかった。
「星露は魔法使い向けの素材ですよ。車に使う理由がない」
「俺もそう思ってた。最初は半信半疑で売った。でも連中、本当に使ってるんですよ。しかも燃料に混ぜてる。出力が上がるとか言って」
「実際に確認しましたか」
「一度、話を聞いてから現場を見た。高速で試してたみたいで。排気が変な色になってた」
「変な色というのは」
「緑」と男は言った。「普通の車じゃそんな色出ない。絶対に」
夜、カレンは資料室にいた。
聞き込みの結果をまとめていたが、走り屋の話が頭から離れなかった。
星露を車の燃料に転用する。
理屈としては理解できない。星露はマナエネルギーの媒体だ。内燃機関とは全く異なる原理で動く素材のはずだった。それが燃料添加剤として機能するというのは、化学的にも魔法理論的にも説明がつかない。
しかし売人が「見た」と言った。
排気が緑色だったと言った。
カレンは交通管理局との共有フォルダを開いた。高速道路の監視映像がアーカイブされている。違法改造車の取締に使う素材として、保衛省も閲覧権限を持っていた。
検索した。湾岸エリア。過去六ヶ月。違法改造が疑われる車両の映像に絞り込む。
数十件がヒットした。
順番に再生していった。
改造音響。過度なローダウン。車検非対応のホイール。どれも通常の案件だった。
四十分ほど経ったところで、一本の映像が目に留まった。
湾岸線。深夜。走行速度が周囲と明らかに違う一台。白いスポーツクーペだった。
再生した。
車が加速する。コーナーに入る。そしてコーナーの出口で。
排気口から、一瞬だけ、緑色の光が弾けた。
カレンは停止した。
巻き戻した。
再生した。
もう一度、緑色が出た。
間違いではなかった。
資料室に戻って、デスクの上を整理した。
四件の消失報告書。輸送業者の証言。売人の証言。監視映像のキャプチャ。
並べた。
まだ繋がらない。それぞれが別々の場所にある点だった。しかし何かが引っかかっていた。
メモ帳を開いた。
ペンを持った。
書いた。
【走行車両への星露転用の可能性】
文字を書き終えてから、自分でも馬鹿げていると思った。
星露を車に使う。燃料に混ぜる。それで緑色の炎が出る。魔法素材が内燃機関に影響を与える。そんなことが実際に起きているとしたら、意味が分からない。
しかし百五十六キログラムが消えた事実の方が、もっと意味が分からない。
どちらかが嘘をついているわけではない。どちらも記録として存在している。
カレンは椅子の背にもたれた。資料室の蛍光灯が白かった。窓があった。都市高速が見えた。
遠くを車が走っていた。テールランプが続いている。湾岸方面の深夜の灯りだった。
どの車が普通で、どの車が普通でないのか。走っている時点では分からない。
「もし本当なら……」
独り言だった。
続きは声にならなかった。
窓の外の車は、変わらず流れていた。




