表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
280/320

値札

 フィナからのメッセージは短かった。


「付き合って。旧市街」


 ルシアンは外套を着て、ステッキを内ポケットに収めた。



 旧市街の裏路地は、昼間でも暗い。夜はさらに暗くなる。街灯の間隔が広くて、建物の間が狭い。その分、路地の奥まで人の声が届く。


 今夜は声が多かった。


 角を曲がったところで、ルシアンは足を緩めた。


 いつもより人がいた。通常の三倍近い。路地の両側に人が溜まっていて、その中心で何かが起きている。声の調子が荒れていた。


 フィナがルシアンを見つけて手を上げた。人の端にいた。


「来た」


「どういう状況ですか」


「見ての通り」



 中心では、売人と買い手が向き合っていた。


 売人は四十代くらいの男だった。この場所で何年も商売をしている顔だ。今夜はその顔が困っていた。


「言ってることは分かる。俺だって安く売りたい」


「前の三倍だぞ。冗談じゃない」


「仕入れ値が上がってる。俺の話を聞いてくれ」


「仕入れ値の問題じゃない。そっちの都合を客に押しつけるな」


「客に押しつけたいわけじゃない。でも俺だって仕入れられないんだ。ルートが全部止まってる」


 周囲から声が重なった。


「嘘をつくな」


「別の売人から聞いた。在庫はある」


「ある場所にはある。でも量が違う。入ってくる量が三分の一になってる」


 言い合いは同じところをぐるぐると回っていた。売人が嘘をついているようには見えなかった。声に開き直りがない。本当に困っている人間の声だった。


 ルシアンは少し離れた場所から見ていた。



 フィナが隣に来た。


「あなたは」


「備蓄があるので今夜は急ぎではない」


「そう」フィナは正面を向いた。「私は少し必要で」


 彼女は値札を確認するために、売人の方へ近づいた。一枚の紙が壁に貼ってあった。品目と値段が手書きで書かれている。


 フィナはそれを見て、一瞬止まった。


 表情は変わらなかった。ただ止まった。数秒間、紙を見ていた。



 後ろで若い声がしていた。二十代前半くらいの男が二人、路地の端で話している。


「保衛省が押収してるからだろ。どこの地区も一斉に動いたって聞いた」


「違う。魔法組織が買い占めてる。大規模な術式の準備だって噂がある」


「でも魔法組織なんてそんな規模のことできるか」


「政府が仕組んでるって話もある。値段を上げて俺たちを困らせようとしてる」


「根拠は」


「ない。でもそうじゃなきゃ説明がつかない」


 ルシアンは耳に入りながら、正面を見ていた。


 政府がやるなら、もっと露骨なやり方をする。押収するなら告知して、成果として発表する。こっそり流通を絞るやり方はない。費用対効果が合わない。


 ではどこが動いているのか。


 ルシアンには答えがなかった。



 周囲の若い魔法使いたちは、何人かがその場で立ち尽くしていた。値段を見て引いた顔。財布を開いて閉じる動作。声には出さないが、迷っているのが分かる。


 星露は魔法使いにとって、薬に近い。マナが切れたままにしておくと、体の調子が崩れる。練習もできない。場合によっては日常生活にも影響が出る。ルシアンはそれを知っていた。


 家系の関係で、アルドリッジ家には一定の備蓄がある。先代から受け継いだものと、自分が少しずつ積み上げたもの。当分は困らない。


 しかし周囲の若い者たちは違う。貯蓄も親族のルートもない。月々の生活費を削りながら、必要な分だけ買っている。


 値段が三倍になれば、生活が変わる。



 フィナが戻ってきた。


 手に小さな袋を持っていた。


 普段買う量より、明らかに少ない。


「買えましたか」


「少しだけ」


 フィナは袋を外套のポケットに入れた。丁寧に。底まで確かめるように押し込んでから、ポケットの口を閉じた。



 帰り道は橋を渡った。


 川の上を通る、古い橋だった。欄干の鉄が錆びていて、路面の継ぎ目に雑草が生えている。それでも夜の川は静かで、水面に街の灯りが揺れていた。


 橋の上から、高架道路が見えた。


 遠くを車が走っていた。深夜でも湾岸方面の交通量は少なくない。赤いテールランプが一列に流れていく。


 ルシアンはふと、フィナに聞いた。


「そんなに必要ですか」


 フィナは少し間を置いた。


「収監施設でずっと足りなかったから」


 それだけ言った。


「今でも無くなるのが怖い」


 ルシアンは返す言葉が見つからなかった。


 正しいことを言おうとすると、全部ずれる気がした。だから何も言わなかった。



 そのときだった。


 高架道路を走る車列の中で、一瞬だけ、緑色の光が弾けた。


 排気の炎だった。橙でも白でもない。鮮明な緑色で、ほんの一瞬だけ光って消えた。


 フィナが先に声を出した。


「今の見た?」


「見た」


 二人は高架の方向を見た。


 車はもう見えない。赤いテールランプが続いているだけだった。走り去った方向だけが残っている。


「星露?」


 フィナが聞いた。


「分からない」とルシアンは言った。「でも普通じゃない」


 しばらく二人でその方向を見ていた。


 何も起きなかった。車は流れていく。橋の下で川が揺れている。高架の向こうに、エストルムの夜景が広がっていた。


 フィナがぽつりと言った。


「最近、変ね」


「そうですね」


 星露不足。闇市の荒れた空気。見知らぬ緑の炎。それぞれは繋がっていないかもしれない。しかし何かが動いている感覚は、ルシアンにも確かにあった。


 何が、どこで、なぜ動いているのか。


 まだ見えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
これも読んでクレメンス

埼玉のエセ走り屋に愛をッ!

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ