値札
フィナからのメッセージは短かった。
「付き合って。旧市街」
ルシアンは外套を着て、ステッキを内ポケットに収めた。
旧市街の裏路地は、昼間でも暗い。夜はさらに暗くなる。街灯の間隔が広くて、建物の間が狭い。その分、路地の奥まで人の声が届く。
今夜は声が多かった。
角を曲がったところで、ルシアンは足を緩めた。
いつもより人がいた。通常の三倍近い。路地の両側に人が溜まっていて、その中心で何かが起きている。声の調子が荒れていた。
フィナがルシアンを見つけて手を上げた。人の端にいた。
「来た」
「どういう状況ですか」
「見ての通り」
中心では、売人と買い手が向き合っていた。
売人は四十代くらいの男だった。この場所で何年も商売をしている顔だ。今夜はその顔が困っていた。
「言ってることは分かる。俺だって安く売りたい」
「前の三倍だぞ。冗談じゃない」
「仕入れ値が上がってる。俺の話を聞いてくれ」
「仕入れ値の問題じゃない。そっちの都合を客に押しつけるな」
「客に押しつけたいわけじゃない。でも俺だって仕入れられないんだ。ルートが全部止まってる」
周囲から声が重なった。
「嘘をつくな」
「別の売人から聞いた。在庫はある」
「ある場所にはある。でも量が違う。入ってくる量が三分の一になってる」
言い合いは同じところをぐるぐると回っていた。売人が嘘をついているようには見えなかった。声に開き直りがない。本当に困っている人間の声だった。
ルシアンは少し離れた場所から見ていた。
フィナが隣に来た。
「あなたは」
「備蓄があるので今夜は急ぎではない」
「そう」フィナは正面を向いた。「私は少し必要で」
彼女は値札を確認するために、売人の方へ近づいた。一枚の紙が壁に貼ってあった。品目と値段が手書きで書かれている。
フィナはそれを見て、一瞬止まった。
表情は変わらなかった。ただ止まった。数秒間、紙を見ていた。
後ろで若い声がしていた。二十代前半くらいの男が二人、路地の端で話している。
「保衛省が押収してるからだろ。どこの地区も一斉に動いたって聞いた」
「違う。魔法組織が買い占めてる。大規模な術式の準備だって噂がある」
「でも魔法組織なんてそんな規模のことできるか」
「政府が仕組んでるって話もある。値段を上げて俺たちを困らせようとしてる」
「根拠は」
「ない。でもそうじゃなきゃ説明がつかない」
ルシアンは耳に入りながら、正面を見ていた。
政府がやるなら、もっと露骨なやり方をする。押収するなら告知して、成果として発表する。こっそり流通を絞るやり方はない。費用対効果が合わない。
ではどこが動いているのか。
ルシアンには答えがなかった。
周囲の若い魔法使いたちは、何人かがその場で立ち尽くしていた。値段を見て引いた顔。財布を開いて閉じる動作。声には出さないが、迷っているのが分かる。
星露は魔法使いにとって、薬に近い。マナが切れたままにしておくと、体の調子が崩れる。練習もできない。場合によっては日常生活にも影響が出る。ルシアンはそれを知っていた。
家系の関係で、アルドリッジ家には一定の備蓄がある。先代から受け継いだものと、自分が少しずつ積み上げたもの。当分は困らない。
しかし周囲の若い者たちは違う。貯蓄も親族のルートもない。月々の生活費を削りながら、必要な分だけ買っている。
値段が三倍になれば、生活が変わる。
フィナが戻ってきた。
手に小さな袋を持っていた。
普段買う量より、明らかに少ない。
「買えましたか」
「少しだけ」
フィナは袋を外套のポケットに入れた。丁寧に。底まで確かめるように押し込んでから、ポケットの口を閉じた。
帰り道は橋を渡った。
川の上を通る、古い橋だった。欄干の鉄が錆びていて、路面の継ぎ目に雑草が生えている。それでも夜の川は静かで、水面に街の灯りが揺れていた。
橋の上から、高架道路が見えた。
遠くを車が走っていた。深夜でも湾岸方面の交通量は少なくない。赤いテールランプが一列に流れていく。
ルシアンはふと、フィナに聞いた。
「そんなに必要ですか」
フィナは少し間を置いた。
「収監施設でずっと足りなかったから」
それだけ言った。
「今でも無くなるのが怖い」
ルシアンは返す言葉が見つからなかった。
正しいことを言おうとすると、全部ずれる気がした。だから何も言わなかった。
そのときだった。
高架道路を走る車列の中で、一瞬だけ、緑色の光が弾けた。
排気の炎だった。橙でも白でもない。鮮明な緑色で、ほんの一瞬だけ光って消えた。
フィナが先に声を出した。
「今の見た?」
「見た」
二人は高架の方向を見た。
車はもう見えない。赤いテールランプが続いているだけだった。走り去った方向だけが残っている。
「星露?」
フィナが聞いた。
「分からない」とルシアンは言った。「でも普通じゃない」
しばらく二人でその方向を見ていた。
何も起きなかった。車は流れていく。橋の下で川が揺れている。高架の向こうに、エストルムの夜景が広がっていた。
フィナがぽつりと言った。
「最近、変ね」
「そうですね」
星露不足。闇市の荒れた空気。見知らぬ緑の炎。それぞれは繋がっていないかもしれない。しかし何かが動いている感覚は、ルシアンにも確かにあった。
何が、どこで、なぜ動いているのか。
まだ見えなかった。




