緑の炎
深夜の都市高速は、別の道路だ。
昼間の渋滞と、排気ガスと、クラクションが消えて、代わりに速度と風と路面の継ぎ目だけが残る。街灯の間隔が長くなる区間では、フロントガラスの向こうが純粋な暗闇になる。そこだけ切り取れば、都市の中にいることを忘れる。
ノア・ヴェルナーはシフトを上げた。
白いスポーツクーペが加速する。助手席に固定したノートPCのグラフが動いた。ダッシュボードに並ぶ追加メーターの針が揺れる。水温。油温。ブースト圧。数字を視野の端に入れながら、ノアはコーナーの入口を見ていた。
ブレーキ。荷重移動。ステアリング。
アクセルを踏み戻したとき、排気管の先で緑色の炎が弾けた。
一瞬だけ。しかし鮮明だった。
通常の改造車のアフターファイアーは橙か白だ。緑は出ない。燃料の組成が変わらない限り、あの色にはならない。ノアはそれを知っていて、だからこそ記録を取り続けている。
次のコーナーへ入る。
グラフが跳ねた。
パーキングエリアに入ったのは日付が変わる少し前だった。
駐車場の隅に、すでに数台が停まっていた。ローダウンした国産セダン。幅広のフェンダーを持つクーペ。ボンネットを開けたまま談義している男たちが三人。こういう時間帯の、こういう場所の、こういう集まりだった。
ノアは白いクーペを端に寄せて停めた。エンジンを切る前に、ノートPCのデータを保存した。
外に出ると夜の風が来た。湾岸特有の、塩と機械油が混じった匂い。
「おう、ヴェルナー。今日どうだった」
ボンネットの横にいた男の一人が声をかけた。二十代後半くらい。作業着の袖をまくっている。
「悪くない。三コーナーの進入でまだ詰められる」
「データは」
「取った」ノアはPCを指した。「また解析する」
男はノアの車の後ろに回って、排気管を覗き込んだ。「今日も緑出た?」
「二回」
「すげえな。やっぱり添加量の問題か」
「それだけじゃないと思う。点火タイミングも関係してる。今のセッティングだと燃焼室の温度が」
「難しい話は分かんない」と男は笑った。「でも緑の炎は格好いい」
ノアは格好いいという話をしているわけではなかった。ただ、そういう反応が来ることには慣れていた。
自販機のコーヒーを持って、輪の中に混じった。
話題は最近の相場だった。
「マジで上がってる。先月の倍近い」
「在庫があるだけまだいい。俺が使ってる業者、もう三週間入荷なし」
「どこも同じだろ。聞いたら東区のルートも止まったって」
ノアはコーヒーを飲みながら聞いていた。
彼らが話しているのは星露のことだった。走り屋のコミュニティでは「ブルーフューエル」と呼ばれている。ノアがそう呼び始めたのが最初だった。今では半ば定着していた。
もともと魔法使いが使う素材だ。それをノアが内燃機関に転用した。添加量と処理法さえ間違えなければ、燃焼効率と出力が明確に上がる。エンジン内部の洗浄効果もある。データとして出ている。走り屋のコミュニティに情報が広まったのは二年ほど前で、今ではそれなりの人間が使っていた。
「ヴェルナーはまだ使えてんの」
「残量はある。でも補充できてないから使い方を絞ってる」
「やっぱ違うよな、使った時と使わない時」
「違う」とノアは言った。「ただ原因が分かってないと怖い部分もある。俺はちゃんとデータ取りながら使ってるけど、適当に入れると詰まりが出ることがある」
「それ聞いた。友達の車がそれでやらかした」
「量と希釈比は守らないといけない」
別の男が言った。「でも買い占めてる奴がいるって話、本当なのかな」
「どこの情報」
「SNSで見た。魔法使い側のコミュニティが大量に抱え込んでるって」
ノアはそれには答えなかった。
根拠のない話は好きではなかった。データがなければ、話にならない。
大学に戻ったのは翌日の昼だった。
研究室は静かだった。指導教員は出張中で、同期の学生も今日は少ない。ノアは資料を広げた。机の半分を古い文献が占めていて、もう半分に現代の論文が積まれていた。
先週から読み進めている資料がある。古代星魔術の写本を翻訳したものだった。原本はおそらく二百年以上前のものだ。内容は星の動きと魔術の関係を記述していた。
読み進めるほど、妙な感覚があった。
記述されている法則の一部が、現代天文学と一致している。
星の位置の計算方法。軌道の予測。光の屈折に関する記述。何百年も前の魔術師たちが、現代の科学者と同じ結論に、別々の方法で辿り着いていた。
ノアはペンを置いた。
魔法と科学を分けて考える意味があるのか、と思った。
魔術師たちは経験と感覚で法則を見つけた。科学者たちは観測と計算で同じ法則を見つけた。結論が同じなら、どちらが正しいという話ではない。道が違うだけだ。
ならば星露も同じではないか。
魔法使いがマナの補充に使う素材。それが内燃機関に明確な効果を出す。これはまだ誰も説明できていない。なぜ効くのか、分子レベルで何が起きているのか、ノア自身にもまだ分からない部分がある。
分からないから、研究する。
危ないから使わない、ではなく、分からないから解明する。
ノアにとっての判断基準は常にそこだった。
論文の一段落に線を引いた。星魔術の記述と現代理論の対応表を、自分のノートに書き写した。
夜、アパートの部屋に戻った。
まず売人に連絡した。いつも使っているルートだ。テキストメッセージで在庫確認を送る。
返事が来なかった。
少し待ってから、別のルートに連絡した。走り屋コミュニティで教えてもらった仲介人だった。こちらも返事がない。
三つ目。
十分待った。
返事が来た。
「今は無理だ。全部止まってる」
ノアはその一文を読んで、少し考えた。
値上がりの連絡ではない。入荷待ちでもない。全部止まっている、という言葉だった。
流通が消えている。
これはパーキングエリアで聞いた話と同じだった。在庫が減っているのではなく、動いていない。売人が持っていないのではなく、売人自体が動けていない。
机の引き出しを開けた。
小さな密閉容器が三つ。星露の残量だった。これで次の実験と、それから先の計測走行に使う予定だった。
計算した。
次の実験で一つ消費する。計測走行で追加が必要だ。このペースだと、二週間で底をつく。
補充できなければ、実験が止まる。データが取れない。論文が書けない。
ノアはしばらく容器を見ていた。
窓の外に都市高速の灯りが見えた。湾岸線の橋が光っている。いつもなら、あの道を走ることを考える時間だった。今夜は少し違うことを考えていた。
「誰が買い占めてるんだ」
独り言だった。
返事は返ってこなかった。
窓の外の道路は、いつも通り光っていた。




