消えた星露
コーヒーが冷めていた。
カップを持ち上げて一口飲んで、カレン・ヴォークトは資料に視線を戻した。徹夜明けの会議室は、誰かが持ち込んだ弁当の匂いと、インクの匂いと、睡眠不足の人間が密集したときの匂いが混ざっていた。窓の外がようやく明るくなっている。エストルム中心部の朝は早い。
テーブルの上に資料が広がっている。写真。地図。入退室記録。監視映像のキャプチャ。押収品リスト。
中央に置かれた一枚の用紙に、数字が並んでいた。
保管施設から消えた星露の総量だった。
会議が始まったのは午前七時だった。
出席者は七人。カレンを含む現場捜査官が五人と、管理部門から二人。全員が徹夜か、それに近い状態だった。
説明をしたのは管理部門の担当者だった。
「施設の概要から確認します。当該保管施設はエストルム北区の物流倉庫を改装したものです。外壁、出入り口ともにセキュリティ基準を満たしており、監視カメラは内外合計で二十三台。入退室は全て記録されています。警備員は常時二名が常駐しています」
誰も何も言わなかった。
「消失が確認されたのは一昨日の夜間点検時です。押収星露の保管コンテナを開けたところ、内容物がほぼ空になっていました。消失量は」
担当者が用紙を一枚めくった。
「約九十キログラム」
室内に沈黙が落ちた。
カレンは数字をメモした。九十キログラム。末端の売人が一度に扱う量の、数百倍だった。
現場を想像するのは難しくなかった。
星露は比較的軽い素材だが、それでも九十キログラムは嵩があった。コンテナから運び出すには時間がかかる。なのに監視映像には何も映っていない。入退室記録にも異常はない。警備員の報告にも異常はない。
同僚の一人が言った。「内部犯行じゃないのか。じゃなきゃ説明がつかない」
別の同僚が続いた。「でも記録をいじるには相当なアクセス権が要る。そこまでできる人間が倉庫の中身に手を出すか?」
「魔法を使ったんじゃないか、という意見もある」と管理部門の担当者が言った。「転送系の術式なら、物理的な搬出なしに移動させられる可能性がある」
カレンは顔を上げた。「転送術の使用痕跡は?」
「現在調査中です」
「つまりまだ確認されていない」
「そうです」
カレンはメモに何か書いた。それから資料の一枚を取り上げた。押収品の全リストだった。星露の欄に赤い印がついている。他の欄は黒いままだった。
「他の押収品には手が入っていない」
「そうです。コンテナ内の他の品目、現金換算で星露より価値の高いものも複数含まれていますが、いずれも残されていました」
「星露だけを選んで、九十キログラム持っていった」
「そうなります」
カレンはリストをテーブルに置いた。
星露だけ。それだけの量。
何かがおかしかった。
午後、現場へ行った。
保管施設は北区の郊外にある。工業地帯の端に近く、周囲は倉庫と駐車場ばかりだった。昼間でも人通りは少ない。
カレンは施設の外周を一周した。それから内部へ入り、問題のコンテナを確認した。大型の金属製コンテナ。施錠機構は二重になっている。こじ開けた痕跡はなかった。
監視室に入って、映像を確認した。
問題の夜間の映像だった。
見た。
また見た。
三回見た。
映像に映っている全ての人間の動きを追った。警備員の巡回ルートと時間を確認した。コンテナへのアクセスがあったと思われる時間帯を洗い出した。
何も見つからなかった。
それが、おかしかった。
映像が消えているわけでも、途切れているわけでもない。普通の夜間映像が、普通に続いている。しかし翌朝、コンテナは空だった。
差し込まれた映像ならば、継ぎ目が出る。消された区間があれば、タイムスタンプが飛ぶ。どちらもない。
カレンは映像を止めて、施設の担当者に聞いた。「録画システムの管理は誰がやっていますか」
「本省の管理部門です。現場では操作できません」
「バックアップは」
「自動で別サーバーに保存されます」
「そのサーバーの場所は」
「本省内です」
カレンはメモを閉じた。
施設を出た。駐車場で空を見上げた。雲の多い午後だった。
九十キログラム。星露だけ。痕跡なし。
組み合わせとして、おかしい。
夜になった。
カレンは本省に戻って、デスクで資料を広げていた。周囲の席は半分が空いていた。残っている同僚たちも、それぞれ別の案件を抱えていて、会話はほとんどなかった。
ルーティンの仕事を一件片付けてから、今回の案件のファイルを開いた。
最初から読み直した。
施設の概要。消失量。監視映像の分析結果。入退室記録。関係者リスト。
一通り読んで、ファイルを閉じた。
それから、データベースを開いた。
類似案件の検索をかけた。キーワードは「押収品」「消失」「星露」。期間は過去三年。
結果が返ってきた。
ヒット数を見て、カレンは少し止まった。
一件ではなかった。
「エストルム東区、一年八ヶ月前。押収星露の一部が保管中に消失。量は十二キログラム。施設の老朽化による管理ミスと処理済み」
カレンはその報告書を印刷した。
「レヴィン南部地区、一年三ヶ月前。押収星露が輸送中に消失。量は二十三キログラム。輸送業者の過失として処理済み」
印刷した。
「エストルム西区、九ヶ月前。押収星露の保管コンテナが錠前ごと交換されており、内容物の一部が消失。量は三十一キログラム。外部からの不正侵入として処理済み」
印刷した。
三枚の用紙をデスクに並べた。今回の案件の資料と並べた。
四件。
それぞれ別の地区、別の施設、別の担当部署だった。処理した担当者も違う。だから誰も気づかなかった。
量を足した。
十二。二十三。三十一。九十。
合計で百五十六キログラム。
カレンはその数字を見た。
デスクの上の資料を、もう一度最初から見た。消失の間隔が短くなっていた。最初は一年以上空いていた。その次は五ヶ月。その次は九ヶ月。今回は六ヶ月。
ランダムではない。
意図がある。
カレンは椅子の背にもたれた。蛍光灯の光が白かった。
「盗難じゃない」
誰にも聞こえない声で言った。
窓の外、エストルムの夜が広がっていた。変わらない都市の光。その下のどこかで、百五十六キログラムの星露が動いている。
それが、何のために使われるのか。
カレンにはまだ分からなかった。




