古書店の地下室
旧市街に入ると、空気が変わる。
高層ビルが消えて、三階建てか四階建ての古い建物が続く。外壁のタイルは黄ばんでいて、看板の文字は半分消えかけている。路面の石畳は不規則に浮き上がっており、慣れないと歩きにくい。再開発の波が何度もここへ来て、そのたびに引いていった。取り残されたというより、忘れられた、という方が近い。
ルシアンは路地を一本折れた。
フィナから送られてきたメッセージには、場所の名前だけが書かれていた。「ハルバート書房」。
魔法使いの間では知られている店だ。ルシアン自身は来たことがないが、名前は聞いていた。
店は路地の突き当たりにあった。
外観は普通の古本屋だ。木製のドア。ガラス越しに見える書棚。入口の脇に段ボール箱が積んであって、値札のついた文庫本が雨ざらしに近い状態で並んでいる。
フィナはドアの前に立っていた。
今日はくすんだオリーブ色のコートを着ている。尻尾はコートの裾から出ている。耳は特に隠していない。旧市街の住民は慣れているのか、通り過ぎる人間は特に視線を向けなかった。
「遅かった」
「五分だけ」
「十分」とフィナは言って、ドアを押した。
店内は薄暗かった。
天井まで届く書棚。紙の匂い。埃の匂い。木材の匂い。三つが混ざると、こういう匂いになる。通路は人が一人通れる程度の幅しかない。奥に向かうほど照明が弱くなっていく。
カウンターに老人が座っていた。七十代か、あるいはもっと上か。読んでいた本を閉じて、二人を見た。
「フィナちゃんか。久しぶりだね」
「出てきてすぐ来ようと思ってたんですけど、いろいろあって」
「そうか。元気そうで良かった」
それだけで会話が終わった。老人は視線をルシアンに移した。
「連れの人は」
「ルシアン・アルドリッジです」
「アルドリッジ家の」老人はそう言ってから、またフィナに向き直った。「地下、使っていいよ。棚の整理が途中だから散らかってるけど」
カウンターの横に、下へ続く階段があった。
木製の手すりは古びていて、踏み出すたびに板が鳴る。照明はむき出しの電球。壁には棚が埋め込まれていて、そこにも本が詰まっている。
地下は一部屋だった。
思ったより広い。書棚が四方を囲んでいる。中央に大きなテーブルと椅子が二脚。テーブルの上には資料が積まれていた。老人が言った通り、整理の途中らしい。
フィナはコートを椅子の背に掛けて、棚を見始めた。
「前に来たのはいつですか」
「収監される前。十七のとき」
それだけ言って、フィナは棚に指を滑らせた。背表紙を一つずつ確認するように。
ルシアンも棚を見た。
魔法関連の資料が多い。ただし教本や術式書の類いではない。歴史資料。記録。論文。政府の規制が入る前に出版されたものが大半だろう。奥の棚には手書きの冊子が並んでいた。製本というより、束ねただけに近い。
一冊を取り出した。
表紙には日付だけが書かれていた。百二十年前。内戦より前だ。
ページを開くと、細かい手書きの文字が並んでいた。魔術の記録ではなく、日記に近い。書いた人間が誰かは分からない。ただ内容は、その頃の都市の描写だった。市場。水道。街路灯。どれも魔法を使って運用していた、と書いてある。
当たり前のことのように書かれていた。
ルシアンはそのページを、少し長く見ていた。
テーブルに地図が広げられた。
フィナが棚から引き出したものだ。エストルムの古地図。現在の都市とはかなり異なる。高速道路も地下鉄もない。しかし街の骨格は残っている。主要な通りの位置は今も変わっていない。
「ここ、今は何になってるの」
フィナが地図の一点を指した。旧市街の中心に近い場所。
「確か広場になってます。もともと何かあったんですか」
「魔法院があった。百年以上前の話」
ルシアンは地図を見た。確かに、そこには建物の記号と「魔術評議院」という文字が印刷されていた。
「今の広場は」
「普通の広場。噴水がある。マルシェが毎週土曜に出る」
フィナはしばらく地図を見ていた。
「そっか」と彼女は言った。「広場になったか」
声に何かがあった。悲しいとも怒りとも違う。ただ、そこに時間が流れているような声だった。
ルシアンは地図から視線を外して、棚の続きを見た。
フィナが声を上げたのは、三十分ほどが経ってからだった。
「これ、知らない」
棚の端の方から、薄い本を引き出していた。
表紙に「星魔術と現代天文学 接点と差異」と書かれていた。出版年は六年前。フィナが収監されていた時期だ。
「見ていいですか」
フィナは無言で渡した。
ルシアンはページを繰った。
著者は大学の天文学の研究者だった。魔法使いではない。序文には、古代の星魔術を資料として分析したところ、現代の天体観測と一致する記述が複数見つかった、と書いてあった。
章を進むと、具体的な対応が並んでいた。星の動きを予測する術式と、現代の軌道計算。光の屈折を操る魔術の記述と、現代の光学理論。どちらが先かという問題ではなく、同じ現象に別々の方法で辿り着いていた、という記述だった。
「知らなかった」とフィナが言った。
「この研究は」
「魔法の一部が、科学で説明できるって話は聞いてた。でも、ここまで丁寧に突き合わせた資料は見たことなかった」
ルシアンはもう一度、序文を読んだ。
著者は最後にこう書いていた。否定でも肯定でもなく、記述として残す。それが研究者の立場だ、と。
ルシアンは本を閉じた。
複雑だった。
魔法が科学によって裏付けられる。それは魔法の正しさを証明する。同時に、魔法が科学の言葉で書き換えられていく、ということでもある。証明された瞬間に、それは魔法ではなくなるのかもしれない。
そういう考えが頭をかすめた。
答えは出なかった。
店を出たのは夕方近かった。
日差しが低くなって、路地の石畳に長い影が落ちていた。二人は並んで歩いた。旧市街から大通りへ出る道は緩やかな坂になっていて、登りきると高架道路が見えてくる。
その時、車の列が見えた。
黒い車が三台、続けて走り抜けていった。ナンバープレートは白地に黒。官用車のものだった。サイレンは鳴っていない。しかし速い。前後の信号を通過するタイミングが揃いすぎていて、一般車両の動きではなかった。
少し間があって、さらに二台が続いた。
「何かあったのかしら」
フィナが言った。
「さあな」
ルシアンは答えた。
車列は高架の向こうへ消えた。遠くなっていく音だけが残った。
二人はしばらくその方向を見ていた。
やがてフィナが言った。「じゃあ、また」
「また」
別れた。
夜。
エストルム中心部にある国家保衛省の建物は、普段と変わらない外観をしていた。しかし内部は違った。
廊下を歩く人間の速度が速い。エレベーターの前に人が溜まっている。会議室の灯りが複数ついていた。
一室の中に、男たちが集まっていた。
テーブルの上に資料が広げられている。写真。地図。数枚の書類。押収物リストと書かれた用紙。
第二話で地下鉄ホームにいた男が、その部屋の隅に立っていた。
年齢は二十代後半。がっしりとした体格だが動きに無駄がない。他の職員がバラバラに話している中で、彼だけが資料を静かに見ていた。
写真を一枚取り上げた。
次の写真。また次。
四枚目を見て、少し間を置いた。
隣にいた同僚が聞いた。「何か気になることでも」
男は写真をテーブルに戻しながら言った。
「妙ですね」
「どのあたりが」
「こんな規模で消えるはずがない」
同僚はしばらく考えてから、「規模の問題じゃなくて、移動に使ったルートが想定外だったんじゃないか」と言った。
男は答えなかった。
もう一度、資料を最初から見始めた。
窓の外、エストルムの夜景が広がっていた。高架道路の明かり。地下鉄の出入り口。コンビニの白い照明。普通の夜だった。
しかし部屋の中では、何かが静かに始まっていた。




