緑の残光
バス停のベンチにフィナが先に来ていた。
膝の上に買い物袋を置いて、特に何かを見るわけでもなく、道路の向こう側を眺めていた。ルシアンが近づくと気づいて、少し体を起こした。
「遅かった」
「授業が延びた」
「そう」
フィナは立ち上がった。今日は灰色のコートだった。尻尾がコートの裾から出ている。耳は風に少し動いた。
「行きましょうか」
二人で歩き始めた。夕方の旧市街は、昼間より人が少なくて、しかし静かではない。店じまいの音。夕飯の匂い。どこかの窓から子どもの声がする。
特別な用事ではなかった。ただ、別の店を当たってみようという話になっていた。
旧市街から少し外れた路地に、その店はあった。
看板がなければ分からない。外から見ると雑貨屋にしか見えない。しかし魔法使いの間では古くから知られている薬材店で、ハルバート書房とは別の意味で、この街の裏側に長く根を張っている店だった。
扉を押すと鈴が鳴った。
店主は六十代の女だった。眼鏡をかけていて、カウンターの奥で何かを計量していた。ルシアンを見て、それからフィナを見た。フィナには少し長く視線を止めた。
「久しぶりね、フィナちゃん」
「お久しぶりです」
「出てきてから挨拶に来るかと思ってたのに」
「すみません。いろいろあって」
「まあいいわ」店主は計量を続けながら言った。「何が要る」
「星露を」とルシアンは言った。「在庫があれば」
店主は手を止めた。
「あるにはある」
「値段は」
告げられた金額に、ルシアンは少し間を置いた。フィナは何も言わなかった。
「先月から上がってる。来月はもっと上がるかもしれない」
「入荷が減っているんですか」
「減ってるというより、来ない。いつものルートから連絡が来なくなった。別を探したけど、どこも似たような状況。一軒だけ動いてる業者がいて、そこから少しもらってる」
「原因については何か」
店主は眼鏡を押し上げた。
「分からない。保衛省が動いてるって話も聞くし、魔法組織が抱え込んでるって話も聞く。でも私には確認できない。ただ純粋に、どこかで大量に消えてる感じはする。じわじわじゃなくて、一気に」
「一気に」
「去年の暮れまでは普通だった。年明けてから急に変わった」
ルシアンはその言葉を頭に入れた。年明け。時期が一致している。第四話でカレンが並べた報告書の最後の案件と、ほぼ重なる。もちろんルシアンにそちらの情報はない。ただ、一気に、という言葉が引っかかった。
フィナは棚の前に立って、小瓶を一つ手に取った。しばらく見てから、棚に戻した。別の瓶を取った。こちらは小さかった。
カウンターに持ってきた。
ルシアンは見ていた。前回より少ない。先月より少ない。
店主が袋に入れて渡した。フィナは受け取って、財布をしまった。
店を出たところで、ルシアンはさりげなく言った。
「少なくないですか」
「大丈夫」
フィナは前を向いたまま答えた。袋をコートのポケットに入れた。丁寧に。確かめるように。
ルシアンはそれ以上言わなかった。
帰り道は歩道橋を通った。
幹線道路を跨ぐ古い歩道橋で、欄干の塗装が剥げていた。上に出ると視界が開ける。夕方が終わって、空の端がまだわずかに明るかった。
眼下を都市高速が走っていた。
車の流れを見ながら歩いた。ルシアンは歩道橋の中ほどで足を止めた。欄干に手をついた。
高速の上を走る車の列。夕暮れの光の中で、テールランプが赤く連なっていた。
そのとき。
一台の白いクーペが、周囲の流れから抜け出すように加速した。
コーナーを抜けた瞬間、排気口から光が弾けた。
緑色。
一瞬だけ。それだけ。
ルシアンは欄干を持ったまま、その車を目で追った。
第六話で橋の上から見たものと同じだった。同じ色、同じ質の光。しかし今回は距離が近かった分、はっきり見えた。
炎の色ではなかった。あれは燃料の色ではない。何か別のものが混ざっている。
何が、とは言えなかった。ただそう感じた。根拠を言葉にできない類の感覚だった。
白いクーペはすぐに見えなくなった。
フィナが隣に来て、同じ方向を見ていた。
「また出た」
「そうですね」
「あれ、星露だと思う?」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「分からない。でも普通の燃料じゃない」
「そうよね」フィナは車が消えた方向を見たまま言った。「普通の燃料じゃああいう色にならない」
二人でしばらく、高速を見ていた。
別の車が通り過ぎる。普通のテールランプ。普通の走行音。白いクーペはもうどこにもいなかった。
ノアは大学の研究室で資料を読んでいた。
机の上に三種類の資料が並んでいた。古代星魔術の写本翻訳。現代の燃焼工学の論文。それから自分が取り続けている走行データのプリントアウト。
どれも別々の文脈で存在しているように見える。しかしノアには、同じことを別の言葉で書いているように見えることがある。
星魔術の写本に記されている「マナ変換効率」の記述。燃焼工学における「熱効率の理論上限」の記述。両者が近い数字を別々の単位系で表現していた。
偶然かもしれない。しかし偶然にしては一致が多かった。
ノアはノートに数式を書いた。変数を置き換えながら、魔術の記述と工学の記述を同じ式に落とし込もうとした。うまくいかなかった。しかしある項だけは一致した。
消しゴムで消して、また書いた。
熱が出ないわけではない。まだ変数の定義が違う。単位系を揃えることができれば、あるいは。
窓の外が暗くなっていた。
机の端に置いた密閉容器を見た。星露の残量だった。先週より減っている。実験走行のたびに少しずつ使っている。補充できていない。
連絡を入れていた売人は全員、今も動いていなかった。
ノアはペンを置いた。
不足の原因が分からないうちは、使い方を絞るしかない。しかし絞れば絞るほど、データが取れない。データが取れなければ、何も証明できない。
証明できなければ、この研究は永遠に個人の実験で終わる。
それは嫌だった。
論文として出したかった。正式なルートで研究したかった。星露が内燃機関に与える影響を、科学として記録したかった。そのためには量が要る。データが要る。時間が要る。
ノアは荷物をまとめて、研究室を出た。
夜の高速はいつも通りだった。
白いクーペが湾岸線に入った。ノアはシフトを上げた。追加メーターの針が動く。ノートPCのグラフが動く。今夜は星露の使用量を抑えている。添加率を通常の半分以下にした。
コーナーへ入る。加速。
排気口から炎が出た。
色は薄い緑だった。いつもの鮮明な緑より、明らかに淡い。添加率を下げた影響だった。
ノアはバックミラーで後ろを確認した。誰も見ていない。深夜の高速に、他の走り屋はいなかった。
コーナーを抜けてから、アクセルを緩めた。
不足の原因を探る。それをやらないといけない。売人に聞いても分からないなら、別の方向から当たる。魔法使いのコミュニティに接触するか。あるいは流通ルートを遡るか。
ノアは走りながら考えた。
具体的な方法はまだなかった。しかし決めたことがあった。
このまま待っていても材料は戻らない。
歩道橋から離れて、ルシアンとフィナは並んで歩いていた。
路地に入ると高速の音が遠くなった。街灯が等間隔に灯っている。人通りは少なかった。
ルシアンは歩きながら、歩道橋で見たものを頭の中で整理していた。
星露不足が始まった。闇市の価格が上がった。流通が止まった。そして今夜で二度、緑色の炎を見た。
繋がっているのか、繋がっていないのか。
ルシアンには分からなかった。しかし感覚として、同じ場所から来ているような気がした。根拠はない。ただそう感じた。
少し考えてから、独り言のように言った。
「……追えば分かるかもしれない」
フィナが横を向いた。
「何が?」
「最近起きてること全部」
フィナはしばらく歩いてから答えた。
「あの車を?」
「あの車から始めるのが早そうです」
フィナは前を向いたまま、少し間を置いた。
「気をつけてよ」と彼女は言った。「保衛省が動いてるなら、目立ったら困る」
「慎重にやります」
「『慎重に』の定義は人によって違う」
「あなたより慎重にします」
フィナは小さく笑った。すぐ消えたが、確かに笑った。
二人はそのまま歩き続けた。街灯の光が順番に頭上を流れた。遠くで高速の走行音がまだ聞こえていた。




