第25話 リターン・マイ・シルビニャ
金曜日の朝、窓から差し込む秋の光を浴びながら、オフィスの中央でカタカタカタ、カタカタカタと、尋常ではない速度のキーボード打鍵音が鳴り響いていた。
「にゃはははは! 見るにゃ! 僕ニャンのタイピング速度は、今実質毎分一万回転のレッドゾーンに突入しているにゃ!!」
直人は、液晶画面に向かって狂ったようにDTPのデータを流し込み、Photoshopのパスを秒速で切り抜いていた。
いつもの猫背を丸めた陰湿な「チー牛モード」は、跡形もなく消え去っていた。彼のブルーの瞳には、かつてないほどのギラギラとした、野性のパッションが満ち溢れていた。
それもそのはず。今日、あの安田モータースに預けていたシルビアが、ついに復活を遂げて帰ってくる日だったのだ。
「藤野……。お前、本当にその『デモカー紹介ページ』の修正、全部終わったのか?」 粕谷編集長が、怪訝そうな顔で直人のデスクの後ろに立った。
直人が定時で仕事を終わらせるなど、太陽が西から登るのと同じくらいあり得ないことだった。粕谷は、直人が「終わったにゃ!」と提出してきた校正紙を、虫眼鏡を取り出して隅々まで念入りにチェックした。
写真のキャプション、パーツの型番、ショップの電話番号。……どこをどう突ついても、1文字の脱字も、1箇所のレイアウトのズレもなかった。
「完璧だにゃ! 僕ニャン、シルビニャを迎えに行くためなら、脳みそを4コア8スレッドで同時並行処理させることくらい余裕にゃ!」
「マジかよ……。あの藤野が、締め切り当日に定時退社だと……?」
隣のデスクで、未だに山積みの書類に囲まれて残業の手筈を整えていた湊が、信じられないものを見るような目で直人を見つめた。
午後6時。 終業を告げる会社のチャイムが鳴り響いた瞬間、直人はデスクの引き出しからスケートボードをひったくると、 「お先に失礼するにゃあーー!!」
と叫び声を残し、オフィスのドアを滑るように飛び出していった。
屋外に出ると、直人はスーツ姿のままスケボーを地面に叩きつけ、凄まじいスピードでプッシュを開始した。 住宅街の坂道を、風を切り裂きながら激走する。
目指す先は、安田モータース。
工場の前に辿り着いた時には、安田の親父さんがちょうど、錆びついたシャッターをガラガラと閉めようとしているところだった。
「おっちゃーーーん!! 閉めないでにゃ!! 僕のシルビニャを返すにゃあ!!」
直人は、スケボーを引きずりながらシャッターの隙間に滑り込んだ。
「おいおい、お兄ちゃん。相変わらず騒々しい奴だな。……まあ、ちょうど今、すべてのセッティングが終わったところだ」
親父さんは苦笑いを浮かべ、工場の奥のスイッチを押した。 蛍光灯がチカチカと灯り、その光の中に、かつてないほどの美しさを湛えた白いS14型シルビアが姿を現した。
直人は、その姿を見た瞬間、言葉を失って立ち尽くした。
ボロボロだったFRPは、真っ白なウレタンクリアコートで陶器のように輝く『UR〇S』のTYPE2フルエアロに包まれ、車高は『BL〇TZ』の『Z〇-R』によって、ミリ単位で完璧な車検適合のローダウンに調整されている。
そして、親父さんがボンネットをバッと開け放つと、そこには息を呑むような、芸術品めいたエンジンルームが広がっていた。
サビだらけだったエキマニは、新品の『D-M〇X』製ステンレスエキマニへと置き換わり、その奥に、美しいアルミ削り出しのハウジングを持つ『TO〇EI』Arms
T400Mタービンが、ガッチリと鎮座していた。
インテークパイプには『H〇I』のR35エアフロアダプターがブルーの『オー〇バーン88』シリコンホースで接続され、Tボルトクランプで強固に締め付けられている。
ヘッドの隙間からは、『TOM〇I』のメタルヘッドガスケットの黒い金属の積層が覗き、燃料デリバリーパイプには『TOM〇I』のレギュレーターと『SA〇D』の550ccインジェクターが、整然と並んでいた。
「エンジンは『ナプ〇ック』のガスケットで完全オーバーホール。ハブベアリングも全交換して、『NI〇MO』のロングハブボルトを打ち込んである。ブレーキラインも『キノ〇ニ』でダイレクト化して、パッドは『プロ〇ェクトミュー』のB
SPECだ。……お兄ちゃん、こいつはもう、お前がヤフオクで買った時のあの『ボロミサイル』じゃねえぞ。本物のスポーツマシンだ」
親父さんは、直人の手にシルビアのキーと、ダッシュボードに設置された『AP〇X'i』パワーFCの『FCコマンダー』を握らせた。
「慣らし運転用のベースマップは打ち込んである。だが、あんまり最初から調子に乗って回すんじゃねえぞ」
「おっちゃん……。ありがとうにゃ……。僕ニャン、一生の宝物にするにゃ……」
直人は、震える手でキーをシリンダーに差し込み、右に回した。
キュルル、ドォォォォォォン!!!
エンジンが始動した瞬間、直人の背骨を、電流のような感動が駆け抜けた。
以前のような、NVCSスプロケットがガラガラと異音を立てるディーゼル車のような汚い音は、1ミリも存在しなかった。
『TOM〇I』メタルヘッドガスケットと『ナプ〇ック』の精密なシールによって、圧縮圧力が一滴も漏れずにシリンダー内で爆発している、極めて硬質で、乾いた、調律された4気筒のアイドリング音。
『D-M〇X』のステンエキマニと『D-M〇X』デュアルフロントパイプ、そして『H〇S』の『Hi-Power 4〇9』を通じて吐き出される排気音は、まるでレーシングカーそのものだった。
直人は安田の親父さんに何度も頭を下げ、夜の街へとシルビアを滑り出させた。
そして、その日の夜11時。
東京の街が静まり返り、闇に包まれた首都高速道路。 直人は、復活を遂げたシルビアのシートに体を深く沈め、代官町出入口からC1外回りへと合流した。
「……にゃ」
ステアリングを握る直人の手が、かすかに震えていた。 今日はあくまで、新しい足回りとタービンの「性能チェック」のつもりだった。
だが、合流車線から本線へと加速した瞬間、直人は自分の体感が完全にバグるほどの衝撃を受けた。
「な、なんにゃこれ……! 全然、違うにゃ……!」
アクセルペダルをほんの少し踏み込んだだけで、流速の最適化されたR35エアフロが吸気量を瞬時に感知し、『AP〇X'i』のパワーFCが燃料を完璧に調律してシリンダーへ噴射する。
『TO〇EI』Arms T400Mタービンが、過給の遅れ(ターボラグ)を一切感じさせることなく、 「キィィィィィン……プシューーッ!」
と、澄んだバックタービン音を響かせながら、瞬時に強烈なブースト圧を立ち上げた。
かつての中華タービンのような、上がスカスカで回るだけの不快なフィーリングは皆無だった。低回転から中回転域にかけて、モリモリと湧き上がる強大なトルクが、直人の体をバケットシートへと力強く押し付ける。
それだけではない。 路面から伝わってくるインフォメーションが、かつてのシルビアとは完全に別物だった。
以前は、ハブベアリングのガタつきのせいで、時速80キロを超えたあたりからステアリングが細かくバイブレーションを起こし、路面のうねりを拾うたびに車体がどこへ飛んでいくかわからない恐怖があった。
だが、ハブベアリングを新品にし、『BL〇TZ』の『Z〇-R』で調律された足回りは、首都高の継ぎ目を 「トントン」 と、一瞬で収束させる極上のいなしを見せた。
「路面に……食いついてるにゃ……! タイヤが、アスファルトのざらつきを完全にホールドしてるのが、僕ニャンのお尻に直接伝わってくるにゃ!!」
あまりの変貌ぶりに、直人は最初の1周目、完全に「チキって(ビビって)」しまった。
車の限界性能が、直人のこれまでの「ボロミサイルの感覚」を遥かに超越していたため、ブレーキを踏むタイミングも、クリッピングポイントに鼻先を向けるタイミングも、すべてが狂ってしまったのだ。
サスペンションがガッチリと踏ん張り、ブレーキは『プロ〇ェクトミュー』のB
SPECがペダルを踏んだ分だけカチッと効く。その「カチッとした減速感」に脳が追いつかず、最初の1周はただおっかなびっくり走るだけで、タイムなど計測する余裕すらなかった。
「うにゃあ、情けないにゃ! 僕ニャン、シルビニャの進化に完全に置いていかれてるにゃ!」
直人は、芝浦パーキングエリアの手前で深く息を吐き、ステアリングを握り直した。 2周目。
深夜の首都高の電光掲示板が後方へと流れ、オレンジ色のタコメーターの針が、直人の視界の端で激しく踊り始めた。
「……信じるにゃ。僕ニャンとシルビニャの絆は、こんなものじゃないにゃ! T400Mタービン、もっと回るにゃ!」
直人は、神田橋のS字コーナーの手前で、鋭くシフトダウンした。 ヒール・アンド・トゥを決め、クラッチを繋ぐ。
エンジンが咆哮し、シルビアのノーズが、まるで剃刀のように鋭くイン側へと切り込んでいった。
ロールは一瞬で抑え込まれ、4輪が均等に路面を掴みながら、クリッピングポイントを通過していく。
アクセルを開ければ、デュアルフロントパイプから吐き出されるエキゾーストノートがトンネルの壁に反響し、脳髄を直接揺さぶる。
「これにゃ! この感覚だにゃ!!」
直人の脳の奥深くで眠っていた、あのC1を攻めていた頃の「野生のドライビング本能」が、一気に覚醒した。 流れる東京の夜景が線となって消えていく。
抜かしていくテールランプ。
『BL〇TZ』の『DSC』の液晶画面が、路面状況に合わせてリアルタイムに減衰力を微調整し、コックピットに安心感をもたらす。
直人は、完全にシルビアと一体化していた。 かつてのガタだらけのミサイル仕様を、ねじ伏せるように走らせていた苦労が、嘘のように消え去っていた。
今、直人がステアリングをミリ単位で動かせば、シルビアはコンマ数ミリの狂いもなく、その狙い通りのラインへと身体を滑り込ませる。
最後の計測ラインを通過したその瞬間。 ダッシュボードに設置されたGPSラップタイマーの液晶画面に、新しい数字がピカピカと青く浮かび上がった。
【6分13秒】
「にゃ……にゃにぃっ!? 6分13秒だにゃ!?」
直人は、思わずコックピットの中で大声を上げた。
前回の、あのボロミサイル仕様での限界ベストタイム「6分48秒」から、一気に【35秒】もの大幅なタイム短縮を達成したのだ。
「35秒……! 35秒も縮まったにゃ! 僕のシルビニャは……本物の、合法ストリートモンスターへと生まれ変わったんだにゃあ!!」
直人は、芝浦PAにシルビアを滑り込ませ、エンジンをアイドリングさせたまま、ステアリングの上に突っ伏した。
全身から、心地よいアドレナリンの熱気が噴き出し、心臓の鼓動が激しく響いている。
流れる都会の夜風。 ハザードランプが点滅する、漆黒のパーキングエリア。
そして、その真ん中で、ピカピカの『UR〇S』エアロを纏い、マフラーから「チリチリ……」と心地よい熱のきしむ音を響かせている、愛しのシルビア。
直人は、涙ぐみながら、フロントガラス越しに見える東京タワーの赤い光を見つめた。
これまでの退屈な日々、泥まみれのサビ落とし、ハードオフでのジャンク売却の苦労……そのすべてが、この「6分13秒」という奇跡の数字と、愛車の咆哮によって、一瞬にして最高の快楽へと昇華された。
「おかえりにゃ、シルビニャ。……僕ニャンたちの新しい伝説は、ここから始まるんだにゃ」
直人は、深夜のパーキングエリアの静寂の中で、まるで恋人を愛おしむかのように、シルビアのステアリングを何度も何度も、幸せそうに撫で回し続けるのであった。




