第24話 シルビニャ同盟
深夜の月明かりが、埼玉県南東部にある『安田モータース』の古びたトタン壁を青白く照らし出していた。
とっくに営業時間が終わり、錆びついたシャッターが完全に閉められた工場の敷地内。その周囲を囲む雑草だらけの砂利道の上に、小脇に傷だらけの子供用スケートボードを抱えた直人の影が、無音で滑り込んできた。
「フシュー……。フシュー……。僕ニャンのシルビニャ、今日も冷たい暗闇の中で一人でお留守番だにゃ……。少しお肌が寒そうだにゃ……」
直人は猫背を極限まで深く丸め、シワだらけのスーツ姿のまま、工場の裏手にある小さな格子付きのガラス窓へと静かに歩み寄った。
そして、泥と排気ガスで汚れた窓ガラスに、鼻の頭が平らになるほどの勢いで顔をぴったりと押し付けた。
客観的に見れば、警察への通報が秒読み段階に入るレベルの、完全なる不法侵入であり、重度のストーカー行為そのものだった。
薄暗い工場の奥、月光の射し込むリフトの上に、直人の愛車である白いS14型シルビアが佇んでいた。
ボディには、あの楽天市場でなけなしの資金を叩いて購入し、自らの手で美しくウレタンホワイトに塗装した『UR〇S』のTYPE2フルエアロ3点キットが仮組みされており、驚異的なチリ(接合部の隙間)の良さで、暗闇の中でも圧倒的な存在感を放っている。
だが、そのエンジンルームの中身は、ブローした安物の中華タービンやエキマニ(タコ足)を安田の親父さんにすべて取り外されたため、今はガランドウの空洞になっていた。
「もうすぐだにゃ、シルビニャ。僕ニャンの口座の110万円は、すべて安田のおっちゃんの胃袋(工賃)と、新品の『TO〇EI』 Arms
T400Mタービン、そして『D-M〇X』のデュアルフロントパイプのために決済済みだにゃ。もうすぐ、お前の肺に、新鮮で過激な圧縮空気をドバドバと注ぎ込んであげるからにゃ……」
ガラス窓の隙間から漏れ出るオイルと鉄の生々しい臭いを、直人は深く、肺の奥まで吸い込んだ。
彼にとって、この鉄臭さこそが世界で最も純粋な芳香であり、この窓越しにシルビアを見つめる時間だけが、満員電車の苦痛や、他部署の『ジャム・セッション』の狐娘たちに「障害者雇用の法律の義務」とバカにされた精神的ダメージを癒す、唯一の「キマる時間」だった。
直人は、暗闇の中でブルーの瞳を不気味に細め、誰に言うでもない早口の独り言をボソボソと窓に向かって囁き続けた。
十分ほどそうしてガラスに張り付いていた後、彼は満足そうに喉を鳴らし、再びスケートボードに乗って「ガラガラガラ……」と夜の闇へと消え去っていった。
翌土曜日。 雲一つない秋の晴天の下、安田モータースの工場内には、直人の手による金属的な作業音が響いていた。
「シャリ、シャリ、シャリ……」
直人は、会社の休日を丸々使い、工期を1日でも短縮してもらうために、シルビアの錆びたフレームのサビ落としを自ら買って出ていた。
彼が作業しているのは、安田の親父さんに「お前、作業の邪魔だからそこにいろ」と言われて占拠し続けている、工場の最も奥まった角の空きスペース。
床には、直人が散らかした工具箱や、外した純正のネジ類、そして安物のブレーキクリーナーの空き缶が散乱し、安田の親父さんの生活導線を絶妙に邪魔していた。
直人が、ツナギの袖を捲り上げてワイヤーブラシを動かしていると、ふと、隣のリフトに載せられた車体へと視線が向かった。
「……にゃ?」
そのスペースには、昨日まではなかった、なんとも色彩のえげつなく眩しい「青色」のシルビアが載せられていた。
それも、直人の前期型S14よりも二世代新しい、流線型の鋭い目元を持つS15型シルビアだった。
直人は、その鮮やかすぎる青いボディを、前髪の隙間から覗くブルーの瞳でじっと睨みつけ、口元に冷ややかな冷笑を浮かべた。
「ふん……。なんか、グランツーリスモとかのゲームの画面からそのまま飛び出してきたような、お上品で痛いシルビアがいるにゃ。全体的に綺麗に取り繕っちゃって、泥臭いドリ車の野生のパッションが1ミリも感じられないにゃ。ドレスアップカー気取りのオワコンカーだにゃ。お口のラインも、いかにも街乗りデートカーという感じで、おこがましいにゃ……」
直人が、誰も聞いていない低くボソボソとした早口の酷評を口の中で呟いていると。
「お、あの14シルビアのオーナーさんっすか?」
突如として、背後から声をかけてくる男がいた。
ただでさえ、直人の放つ「近寄るな危険」のオーラを察知して、普通の人間なら近づきすらしないはずの安田モータースの奥地。そこに、平然と直人のパーソナルスペースを侵食してくる、ある種のヤバい奴が立っていた。
「……はにゃ?」
直人が不快そうに振り返ると、そこにいたのは、直人と同年代の24歳前後に見える、一人の若い「黒猫の獣人」だった。
頭の上には、直人の白い耳とは対照的な、真っ黒な猫耳がピコピコと立ち、お尻からは、同じく真っ黒な長い尻尾が不安げもなくゆらゆらと揺れている。髪の毛も耳もすべてが漆黒で染められた、整った顔立ちの男だった。
「いやー、あの14、ずっとリフトに載ったままで動かしてないっすよね。安田のおっちゃんに『またあの猫のボロ車が場所を占領してやがる』ってボヤかれてるの、ワイ、小耳に挟んだんっすよ」
その馴れ馴れしい「〜っす」口調、そして「ワイ」という一人称。
直人は、自分の聖域であるシルビアを「動かしてない」「ボロ車」と呼ばれたことに、一瞬でプライドの燃料ゲージがレッドゾーンへと跳ね上がるのを感じた。
直人は、前髪をダラリと垂らしたまま、鋭いブルーの瞳で男を威嚇するように睨みつけた。
「……失礼ニャ。シルビニャは今、寝てるんじゃなくて、新世代の強大なパワーを手に入れるための『進化の儀式』の最中だにゃ。ボロ車だなんて失礼な言葉、僕ニャンのデリケートな排気システムに触れたら、それだけでノッキング(異常燃焼)を起こしてピストンが棚落ちしちゃうにゃ。謝罪してほしいにゃ」
だが、黒猫の男は、直人のそのこじらせた早口の威嚇を1ミリも気にする様子もなく、リフトの上に載せられた自分の青いS15のフェンダーを、愛おしそうにそっと撫で回した。
「いやー、すんまっせん! でも、ワイのS15、まじでカッコよくないっすか? これ、ワイがローンを限界まで組んで、結構なお金を懸けて仕上げたんっすよねー」
男は、直人の返事も待たずに、自分の車の自慢話のクラッチをミート(接続)させてきた。
直人は、自分のドレスアップ(UR〇Sエアロ)へのこだわりを完全に無視され、他人のS15の自慢を一方的に聞かされる状況に、激しい嫌悪感を抱いた。
「ふん……。そんなS15の、どこがそこまで凄いにゃ。お上品にまとまりすぎてて、機能美が感じられないにゃ。何がそんなに金を懸けたポイントなんだにゃ」
直人が、他人の車をコキ下ろすための「粗探し」の体制を整えて聞き返すと、黒猫の男の目の色が、獲物を狙うオタクのようにギラリと変わった。
そして、待ってましたと言わんばかりに、喉の回転数を一気に跳ね上げ、耳に胼胝ができそうなほど超高速のマシンガントークを開始した。
「いやー! よくぞ聞いてくれたっす! まず、このマフラーっすよ! 『G〇スポーツ』の『S Tuneマフラー』!
抜けの良さと低音の響きが完璧で、排気効率はフル社外の吸排気システムと完璧に調和してるっす! そしてタービン!
これ、なんと『H〇S』の『GT4135タービン』をぶち込んであるんっすよ!
これを回すために、エンジンはまだ腰下ノーマルなんすけど、燃料系はインジェクターから高容量のフューエルポンプまで、ざっと全部に手を加えてあるんっすよねー!
それから、これに合わせて、コンピュータのセッティングも――」
直人は、あまりの早口と情報の過密さに、脳のCPUがフリーズしかけていた。
「(な、なんなんだにゃ、このマシンガントークは……。僕ニャンと同じ匂いがするにゃ……)」
だが、男の「車語り」の過給圧は、さらに高まっていく。
「そうそう! ここがワイの最大のこだわりポイントっす!! 見てください、この儚いぐらいに美しく澄んだ青をッッ!
伝説のGT-Rのボディカラー、TV2『ベイサイドブルー』!!
このカラーに外装も内装のドアヒンジの裏までオールペンするのに、板金屋のオヤジと何日も膝を突き合わせて打ち合わせしたことか……!
そして、このリアに輝くフルクリアーのファイバーLEDテールランプ!
これ、『7〇ワークス』の最新のやつで、なんとヤフオクで6万弱もしたんすよ!! そして、この地を這うようなアグレッシブなエアロを! 『ファイナルコネクション』!!
ワイの超お気に入りっす!!!」
男は、息継ぎをするのも忘れたかのような、恐ろしい肺活量で喋り続けた。
直人は、その強烈な熱量と、自分の好みを押し付けてくるオタク特有の「圧」に、肉体的な目眩を感じ始めていた。
だが、黒猫の男のブーストは、ついにレッドゾーンを振り切った。
「そして!! この美しいベイサイドブルーのボディを引き締める足元には、この『ワー〇エモーション』の『T5R 2P』!!!
見てくださいよ、この中央に向かって過激に落ち込んでいく、美しい白いディープコンケイブのディスクに、この太陽光を反射して怪しく光るハブアルマイトのシルバーのリムっ……!!!
はぁぁぁっ……、尊い……!! 尊死しそうっ……!!!(ヒュー、ハァ、ヒュー、ハァ……)」
男は、自分のS15のディープコンケイブディスクを見つめながら、過換気症候群(過呼吸)の一歩手前のような激しい息切れを起こし、胸に手を当てて今にも地面に頽れんばかりのポーズをとった。
さすがの直人も、目の前で自分の車に対する「ガチ恋オタク」の限界ムーブを展開する男の姿に、激しいドン引きを隠せなかった。
直人は、ワイヤーブラシを持ったまま一歩後退りし、ボソボソとした掠れた声で呟いた。
「うっ……。さすがに……キモいにゃ……」
もちろん、自分のシルビアを「
waifu(俺の嫁)」と呼び、アパートの駐車場で深夜にボンネットにダイブして抱きついていた直人にだけは、絶対に言われたくない言葉であったが、彼の中では「自分の狂気は機能美へのリスペクトであり、この男の狂気はただのビジュアルオタクの痛さである」という、都合の良い二重基準がカンペキに成立していた。
直人は、グラインダーのコードを引っ張りながら、不機嫌そうに尻尾をピコピコと動かした。
「つかつかつーか、お前、急にひょこりと出てきた割には、僕ニャンをフル無視して自分のS15を語るだけ語って……。自己紹介も無しに僕のシルビニャの聖域(作業スペース)に土足で踏み込んでくるなんて、一体何者だにゃ」
「あ、ワイの名前? ああああああああ!!! 忘れてたっす!!」
男は、真っ黒な猫耳を激しくバタつかせ、自分の頭を「ポカッ」と叩いた。
「ワイの名前は、青井 迅っす! いやー、奇遇っすね、お兄さん! ワイも猫獣人なんすよ!
ワイは黒猫系なんで、耳も髪の毛も尻尾も全部黒いんすけど……。いやぁ、やっぱ白猫さん(白髪)には、めちゃくちゃ憧れるっすねぇ。髪の毛が白いってだけで、車乗りとしての『センスの高さ』が漂ってて、大尊敬っすよ!」
「にゃ……? 僕ニャン、たしかに白髪に近いけど、毛先が少し黒いから、厳密には白猫じゃないにゃ。ハーフ&ハーフにゃ」
「いやいやぁ、そんなことないっすよぉ! 14シルビアの前期にそのUR〇SのTYPE2を組んでサビ落とししてる時点で、ワイは先輩のこと『ホンモノの車好き』だと一目置いてるっすよ!」
迅は、人懐っこい笑顔を浮かべ、直人の油まみれのツナギを羨望の目で見つめた。
直人は、自分の「車へのセンス」を認められ、さらに「センスの高さが大尊敬」と言われたことで、それまでの陰湿なチー牛モードの警戒心が、ほんの少しだけ和らぐのを感じた。
「……ふん。まあ、お前も黒猫のクセに、なかなか人を見る目だけはあるにゃ。お前のS15、ベイサイドブルーへのオールペンとワー〇エモーションのチョイスは、ドレスアップカーとしてはギリギリ合格点にゃ。……まあ、僕のシルビニャの無敵のストリート仕様には遠く及ばないけどにゃ」
「いやぁ、やっぱ14前期の野生の魅力には勝てないっすよねー!」
そうして、二人の「痛い」猫獣人同士による、噛み合わないが排気温度だけは異常に高いシルビア談義が始まった。 安田モータースの片隅で、工具の金属音に混ざって、
「サスペンションの減衰力特性が〜」 「R35エアフロの流速コントロールが〜」 「やっぱりGT4135タービンの過給特性は〜」
といった、一般人が聞けば3秒で頭痛を起こすような難解な車用語が、早口のボソボソ声(直人)と、早口のハキハキ声(迅)で交互に飛び交い、雑談は気づけば15分を超えていた。
しかし、話が進むうちに、話題は自然と「走り」の領域、とりわけ夜の『C1(都心環状線)』でのタイムアタックの話へとシフトしていった。
「そういえば迅、お前、そのS15をフルローンで買った当初は、どんなスペックだったにゃ? C1のタイムはどのくらいだったんだにゃ?」
直人が、サビ落としのワイヤーブラシを置いて聞き返すと、迅は、待ってましたとばかりに黒い尻尾を「パタパタ」と激しく振った。
「いやー!
当時はほぼノーマルの足回りに、マフラーとエアクリーナーだけのライトチューンだったんっすよ。その頃のワイのへっぽこな腕でも、C1の内回りは、だいたい『6分50秒前後』が限界だったっすねー!
それでも、ノーマルの車体としては、結構頑張った方だと思うんっすよね!」
迅は、誇らしげに胸を張った。
C1の1周(約14.8キロ)を、ほぼノーマルの車体で6分50秒台で走るというのは、一般のドライバーから見れば、十分に狂気的なスピード領域である。
だが、直人はその数字を聞いた瞬間、 「ふん……」 と、鼻から冷たい排気ガスのようなため息を漏らした。
そして、自分のスマートフォンの写真フォルダを開き、画面をスクロールした。
画面に表示されたのは、直人が数ヶ月前、このアパートに引っ越してきた初日にヤフオクで落札したばかりの、あのボロボロでだっさいハーフエアロを身に纏い、サスペンションが完全に抜けていた、初期のシルビアの写真だった。
「……にゃ。僕ニャン、このシルビニャを買った当初の、足回りもグズグズで、ブッシュも千切れかけてた『ミサイル仕様』のボロい状態で……C1の内回りは、普通に『6分48秒』だったにゃ」
直人は、平然と、むしろ不機嫌そうな顔で、迅のローン初期のベストタイムを上回る数字を言い放った。
「ええええええええええええええっ!?!?」
安田モータースの天井を突き破らんばかりの、迅の絶叫が響き渡った。 迅は、黒い猫耳をピンと垂直に立たせ、直人のスマホ画面と直人の顔を交互に凝視した。
「ろ、6分48秒ぉぉぉっ!? その、タイヤの銘柄すら怪しい、あちこちがガタガタのミサイル仕様でっすか!?
ワイのノーマルS15のタイムを、2秒も縮めてるっすよ!! 先輩、マジでどんなイカれたドライビングスタイルしてるんっすか!? 化け物っすか!?」
迅は、直人をまるで「公道の神」を見るかのような熱い目で見つめた。
だが、直人自身としては、その「6分48秒」というタイムは、決して誇れるような、いい気分のタイムではなかった。
直人は、スマートフォンの画面をスッと消すと、深くため息をついた。
「……ふん。何を驚いてるんだにゃ。そのタイムを出した時のシルビニャは、買ったばかりで足回りはドリフト用のフニャフニャなセッティングだったせいで、コーナーで踏み込んでも路面を全く掴んでくれず、ただ不快なスライドを起こしてパワーを路面に伝えられなかったにゃ。おまけにハブベアリングからは『ゴーッ』という嫌な異音が鳴り響き、ブーストも中華タービンのせいで安定せず、直線での流速もスカスカだったにゃ……。僕の目標とする『C1・6分切り』の限界領域には、遠く、遥かに及ばない、ただの『妥協の塊のタイム』に過ぎないにゃ。思い出すだけでも、僕の調律の未熟さにヘドが出るにゃ……」
直人は、自らの走りのクオリティに対する異常なほどの「妥協のなさ」とプライドの高さから、6分48秒という好タイムを、まるで「失敗作の落書き」のように切り捨てた。
彼は、C1の本当の怪物たちが競い合う「5分台」の領域、すなわち本物の狂気のスピードしか求めていなかったのだ。
直人のあまりにも高すぎるハードルと、自らの「6分48秒」への自己嫌悪の深さに、迅はただただ圧倒され、
「先輩……、レベルが違いすぎるっす……。ワイ、一生ついていくっす……」
と、過呼吸一歩手前の青白い顔で、直人のツナギの裾を握りしめた。
安田モータースの工場の片隅。
サビ落としの粉塵が舞う薄暗い光の中で、自らの走りに納得のいかない不機嫌な「白猫」の直人と、その圧倒的なタイムの前にただただ平伏し、目を輝かせる「黒猫」の迅。
二人の奇妙な猫獣人同士による、噛み合わないが温度だけは沸騰し続ける会話は、閉ざされた工場のシャッターの奥で、いつまでも、いつまでも熱く、そしてどこまでも不気味に響き渡り続けるのであった。




