第23話 RED ZONE廃刊す
某S出版社の本社ビル。その最上階に近い十五階には、重厚な絨毯が敷き詰められ、ガラス張りの向こうに東京都心の高層ビル群を見渡せる役員フロアが存在する。
エレベーターの扉が開いた瞬間、普段は地下のオイルまみれの駐車場や、編集部の埃っぽい喧騒の中に身を置いている粕谷編集長は、そのあまりにも冷たく静まり返った空気に、思わず身震いをした。
「ちっ……。お堅い上層部のお出ましだ。何が悲しくて、こんな締め切り明けのクソ眠い時間帯に呼び出されなきゃならねえんだよ」
粕谷は、シワの寄ったスーツの襟元を無意識に正した。 彼の心臓は、実は朝から尋常ではないスピードでビートを刻んでいた。 冷や汗が脇の下をダラダラと伝い落ちる。
脳裏をよぎるのは、つい先日の週末の深夜、手に入れたばかりの白いC35ローレル後期型を駆り、某所の埠頭でスキール音を響かせながらテールをスライドさせていた己の姿だった。
「まさか……。あの埠頭のギャラリーの中に、常務の親戚か、社長の知り合いの警察関係者でも混ざってやがったか……?
もしあのバチバチの仕様でドリフトしてたのが会社にバレてみろ。減給どころか、懲戒免職で一発クビもあり得る。おまけに退職金も無しで、ローレルのローンの支払いだけが残るなんて、笑えねえ冗談だぞ」
粕谷は唾を飲み込み、役員室の重厚なマホガニーの扉の前に立った。 深呼吸を一つ。腹を決めてノックをする。
「失礼します。レッドゾーン出版部、粕谷です」
「入りたまえ」
中から聞こえてきたのは、冷徹極まりない取締役常務の声だった。
部屋に入ると、そこには常務と、ブランド統括部の部長が、まるで罪人を裁く裁判官のような冷ややかな目で並んで座っていた。
粕谷は直立不動の姿勢を取り、最悪のシナリオを覚悟した。
だが、常務が机の上にスライドさせたのは、赤い文字がびっしりと並んだ、一枚のグラフ用紙だった。
「粕谷くん。これを見たまえ」
「は……? これは……」
「我が社の出版事業部における、今四半期の各誌の売上実績、および実売率の推移表だ。君の作っている『RED ZONE』の売上だがね……。実売率が、ついに損益分岐点を大きく下回る三十五パーセントまで落ち込んでいる。おまけに定期購読の数も前年比で二桁の大幅減少だ。このままだと、次の番組改編期、つまり秋のタイミングで、君の部署は『廃刊』、およびブランド自体の『完全消滅』を選択せざるを得ない」
「は、廃刊……!?」
粕谷は、目を見開いた。 埠頭でのドリフトがバレたという個人的な恐怖は一瞬で吹き飛び、代わりに『RED ZONE』という、彼が二十代の駆け出しの頃から人生のすべてを捧げてきた雑誌が、目の前でプレス機にかけられるような、冷酷な現実が突きつけられた。
「常務、お待ちください!
うちの雑誌は、実車の検証企画や、現役のレーサーを起用したサーキットテストなど、他誌には真似できない硬派な内容で、コアなファンをガッチリ掴んでいます!
ネットの情報だけじゃ満足できないホンモノの車好きにとって、なくてはならない存在なんです!」
「コアなファン、かね?」 ブランド統括部長が、フンと鼻で笑い、もう一つの青い表紙の冊子を突き出した。
「だがね、粕谷くん。その『コアなファン』とやらは、ビジネスにおいては単なる『分母の少ない縮小市場』に過ぎないんだよ。同じ出版事業部で、君のところの隣のシマが作っているこの『ジャム・セッション』という雑誌を見たまえ」
粕谷の前に置かれたのは、インディーズ精神がこれでもかと強めに反映された、アニメ、同人漫画、レトロゲーム、インディーズゲームといったサブカルチャーを総合的に取り扱う、お世辞にも上品とは言えないカオスな情報誌『ジャム・セッション』だった。
表紙には、萌え系のイラストと、サイバーパンク風のハデなフォントが踊っている。
「この『ジャム・セッション』の実売率はね、ほぼ九十パーセント。定期購読の数も右肩上がりだ。……売上の合計金額を見てみなさい。君の『RED ZONE』と比べて、実に【3倍】もの差がついているんだよ」
「さん、3倍……!?」
粕谷は、喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。 数字は嘘をつかない。
いくら己のRB25DETエンジンが快音を響かせ、埠頭を華麗に滑走したところで、会社という組織において、売上が3分の1しかない部署は、ただの「お荷物」に過ぎないのだ。
「いいかね、粕谷くん。会社はボランティア活動をしているわけではない。次の改編期、つまり三ヶ月後の発行号までに、販売ノルマを達成しなさい。実売率を最低でも六十パーセントまで引き上げること。それができなければ……君の愛する『RED
ZONE』は、そこで終わりだ」
「……」
粕谷は、固く拳を握りしめ、頭を下げるしかなかった。 「……承知、いたしました」
役員室を出た粕谷の背中は、まるで長年酷使されたサスペンションのように重く沈んでいた。
だが、彼の中に、静かな、しかし確かな「職人の怒り」がふつふつと湧き上がっていた。
「おのれ、上層部の数字バカどもめ……。車離れの時代だからって、うちの雑誌をゴミ扱いしやがって。……それに、あの『ジャム・セッション』とかいうキモいオタク雑誌。何が3倍だ。あんな二次元の絵の具を塗っただけの紙切れに、俺たちの命をかけた鉄とガソリンの結晶が負けてたまるかよ……!」
その日の昼。 粕谷は、社員食堂の片隅の席で、一人でとんかつ定食(大盛り・750円)を黙々と口に運んでいた。
普段の豪快な彼にしては珍しく、片手には敵情視察のために売店で購入したライバル雑誌『ジャム・セッション』が握られていた。
「なんなんだよ、この記事は……。インディーズゲームのグラフィックの解像度について、見開き2ページ使って細かく論評してやがる。こんなオタクの独り言みたいな文章のどこに、3倍もの実売率を叩き出す魔力が眠ってんだ……?」
粕谷が、とんかつを噛み締めながら誌面を睨みつけていると。
「あらあら。どこぞの廃刊危機のカー雑誌のお偉いさんが、こんな社食の片隅でぼっち飯とは、実にみすぼらしいのう」
突如として、粕谷の向かいの席に、ドサリと二つのトレーが置かれた。 聞き慣れない、妙にねちっこい、かつ挑戦的な女の声。
粕谷が視線を上げると、そこには、某S出版社の社内規定の限界を遥かに突破した、異様なビジュアルの若い女が二人、不敵な笑みを浮かべて座っていた。
一人は、艶やかなロングヘアの、真っ白な狐のような髪色をした若い女。 もう一人は、同じく美しいロングヘアの、漆黒の狐を思わせる髪色をした若い女。
「は……? 誰だ、お前ら」
粕谷は、箸を止めて不快そうに眉を顰めた。 白狐の女は、自分のトレーに載ったオムライスをスプーンで突きながら、クスクスと意地の悪い笑みを漏らした。
「わっちの名は長谷川 紗夜! 隣のシマの、ジャム・セッション編集部の主任じゃ!」
長谷川 紗夜。年齢は二十三、四といったところか。 白狐のようなロングヘアを揺らしながら、口元に手を当てて「ほほほ」と古典的なお嬢様のような笑い方をしている。
粕谷は、その「わっち」だの「〜じゃ」だのという、二次元のアニメからそのまま飛び出してきたかのような痛々しい口調に、一瞬で顔を引きつらせた。
続いて、黒狐の髪をした女が、だるそうにストローでメロンソーダを啜りながら手を挙げた。
「あー、ウチっすか? えっとー、折田っす。折田 祢苑っす。その、ジャム・セッションで、編集部員やってるっすねー。よろしくっす、粕谷編集長」
折田 祢苑。彼女もまた、だるそうなギャル風の「〜っす」口調で、粕谷を完全に舐めきった目で見つめていた。
粕谷は、こめかみに青筋が浮かぶのを自覚した。 「……おい。自己紹介も無しに他人の席に凸ってくるとは、随分と礼儀のなってねえ編集部だな、ジャム・セッションは」
「ほれほれ、うぬ、そう硬いことを言うでない。凸ったのはそっちが先ではないか?」 紗夜がオムライスを頬張りながら、生意気そうに言った。
「いやそっちが先に凸ったんじゃないっすか!?」 祢苑が間髪入れずに鋭いツッコミを入れ、紗夜は「おっと、そうであったかのう」と悪びれもせずに笑った。
粕谷は、この女二人と同じ席で飯を食うことに耐えられなくなり、とんかつ定食のトレーを持って席を立とうとした。
だが、紗夜がスプーンを差し向けて、華麗に粕谷の動きをブロックした。
「待たれよ、粕谷編集長。お主のところのRED ZONE、今期の改編で廃刊のリストの最上段に載っておるそうではないか。実売率三十五パーセントとは、もはや雑誌の形をした産業廃棄物じゃのう」
「何だとコラ……!」 粕谷は低く唸った。
「わっちらのジャム・セッションは、お主らの3倍売れておる。やはり時代は、鉄の箱を転がすだけの野蛮な趣味よりも、精神世界を豊かにする二次元の美学じゃ。お主もそろそろ、ローレルとかいう旧時代の化石を売り払って、ウチらの雑誌の年間購読でも申し込んだらどうじゃ?」
「余計なお世話だ! てか、何で一編集部員のペーペーが、他部署の編集長に向かってこんな上から目線で物言ってんだ!?
そこは編集長同士、大人のトップ会談で話すべきだろ! お前らのところの編集長はどうした!」
粕谷の最もなツッコミに対し、紗夜は髪をサラリと払って、涼しい顔で答えた。
「ほれ、ウチの編集長は今はおらぬぞ。インディーズゲームの買収交渉とか何とかで、アメリカに行っておるのじゃ。当分戻らぬぞ」
「じゃあ、副編集長はどうした! 責任者を呼べ!」
「あ、副編集長はヨーロッパっすねー。同人誌即売会の海外展開の視察っす」
祢苑が、メロンソーダのチェリーをスプーンで弄りながら、淡々と言った。
「どいつもこいつも海外に行きやがって……! 編集部が留守じゃねえか!」
「お留守だからこそ、わっちら若手がこうして会社の社食で、廃刊寸前の旧世代おじさんと遊んでおるのじゃ。楽しいのう、祢苑よ」
「確かに珍しいっすよねー。この令和のご時世に、女性編集部員どころか、女性のアシスタントすら一人もおらぬ男所帯の編集部なんて、うちの社内でもRED
ZONEぐらいしかないっすよ。なんか、男の汗とガソリンの匂いしかしない密室って、ちょっとしたホラーっすよね」
「うむ。時代遅れの極みじゃのう」
二人の容赦ない言葉の銃弾は、粕谷の心臓にミリ単位で突き刺さった。
粕谷は、彼女たちの「プライベートからその口調なのか?」と思わざるを得ないサブカル全振りのキャラクター性に、言い知れぬ「痛さ」を感じつつも、同時に、実売率3倍という圧倒的な数字の前には、ただ歯を食いしばるしかなかった。
「……あ、そういえば、長谷川先輩」 祢苑が、ふと思い出したように紗夜の肩を叩いた。
「あの、RED ZONEにいる、あの『お騒がせ猫』って、何なんすかね?」
「ああ、あの藤野とかいう白猫の若者のことか」 紗夜が、くすくすと喉を鳴らした。
「そうそう、それっす。ウチらの編集部の間でも、たびたびあの猫のことが話題に上るんっすよ。だって、この前も会社の地下駐車場でシルビアだかシルビニャだかいうボロ車を大破させて、仕事中なのに積載車を読んで大騒ぎしてただろ。その前も、駐車場で近所迷惑な空吹かしをして警備員にガチギレされてたし、挙句の果てには、本社のロビーで奇声を発しながら走り去っていったのを目撃されてるんっすよ。ウチらの編集長、最初それを見て、真面目な顔で『おい、あそこのレッドゾーンって部署、何か特殊な障害者雇用の法律の義務を、あの猫一人で無理やり背負わされてるんっすかね……?』って心配してたっすよ」
「ほほほ! 実に愉快な野生動物じゃのう。やはりRED ZONEは、車だけでなく人間まで壊れておるようじゃ」
粕谷は、口の中に残っていたとんかつが、砂のような味に変わるのを感じた。
直人にまつわる社内の噂話。それは、粕谷のあずかり知らぬところで、他部署のサブカル女子たちに絶好の「キモいお騒がせ野郎」として、完全にネタにされていたのだった。
直人のあの異常極まりない奇行の数々が、会社の法の義務とまで噂されていた屈辱。
粕谷は、ついに限界に達した。 ガタァァァン!! と、とんかつ定食のトレーをテーブルに叩きつけるように置くと、直立して二人を鋭い眼光で睨みつけた。
「おい、クソOL共。……よく聞け」
「あら、怒ったかのう?」 紗夜が、面白そうに首を傾げた。
「お前らの売上が3倍だろうが、アメリカに行っていようが、俺たちの車のパッションは、そんな二次元のインクの匂いなんかで消し去れるほど安くねえんだよ。……ノルマの60パーセント?
廃刊の危機?
上等じゃねえか。次の改編期、俺たちが本物の『狂気』を誌面に叩きつけて、お前らのそのキモいオタク雑誌の鼻面を、C35のフロントバンパーの袴で引っ叩いてやるからな!!」
「あ、キレた。やっぱり車の人は怒りっぽいっすねー」 祢苑が、無表情にスマホを弄りながら言った。
「ふん、遠吠えだけは一人前じゃのう。では、楽しみにしておるぞ、粕谷編集長。わっちらの領域に届くほどの『狂気』、見せてみなさい」
粕谷は二人に背を向け、大股で食堂を後にした。 彼の背中からは、怒りとプライドのガソリンが、今にも発火しそうなほどの熱量で噴き出していた。
バタン!!!
編集部のスチールドアが、ヒンジがへし折れんばかりの勢いで開かれた。 「全員、集まれ!!!」
粕谷編集長の地鳴りのような怒声が、締め切り明けの静まり返った『RED ZONE』編集部オフィスに響き渡った。 部下たちが一斉に跳び上がり、直立不動になる。
だが、その場に、直人の姿はなかった。 直人は今、例の『TO〇EI Arms T400M』タービンと『D-M〇X デュアルフロントパイプ』を取り付けるための下準備(サビ落としとボルト緩め)を手伝うため、会社の有給を申請して、安田モータースのボロいリフトの下で、油まみれになってワイヤーブラシを動かしていたのだ。
粕谷は、デスクの上の電話機をひったくると、直人のスマートフォンへのハンズフリー通話ボタンを激しく叩きつけた。
プルルル、プルルル、ガチャ。
『はい、安田モータースから、サビ落とし中の藤野直人がお届けするにゃ!
今ちょうどシルビニャの錆びたマフラーボルトにラスペネを吹き付けて、神の力で緩めてる最中だにゃ!』
スピーカーから、相変わらずの間の抜けた、しかし不気味なほどの熱量を帯びた直人の声が流れる。
「直人ォォォォォ!!! お前、サビなんか落としてる場合じゃねえぞ!!」
『にゃ、にゃにぃっ!? おっちゃんに『お兄ちゃん、サビ落としサボるな』って怒られてる真っ最中だにゃ!
サビ落としを終わらせないと、工期が短縮されなくて、シルビニャの復活が来年になっちゃうにゃ!』
「そんなこと知るか! いいか、お前が愛してやまないそのシルビアの復活以前に、重大発表だ! 我が『RED ZONE』は、次の改編期までに実売率60パーセントを達成しなければ……『完全廃刊』、すなわちお前の給料も、ボーナスも、すべて消えてなくなることが決定した!!」
『に、にゃ、にゃにぃぃぃぃぃぃっ!? 廃刊!? 給料が出なくなるにゃ!?
ということは、僕ニャンが苦労して手に入れた85万1450円に、今月の25万円を足して、ようやく安田のおっちゃんに一括前払いした90万円のパーツ&工賃の、その後の生活費がゼロになるにゃあ!!
それどころか、シルビニャにガソリン(ハイオク)を飲ませてあげるお金も消滅するにゃああ!!』
「そうだ!! お前が今後、その鉄屑を公道で走らせるための燃料代を稼ぐためにも、何が何でも次の号を3倍売るんだよ!
隣のシマの、あのキモい狐のOL共のオタク雑誌『ジャム・セッション』の売上を、俺たちのエキゾーストノートでぶち抜くぞ!!」
『ジャム・セッション……! あの、ウチらの部署を『障害者雇用の義務』とか言ってバカにしてるオタク共だにゃ!? 許せないにゃ!
僕ニャンのシルビニャの美しさは、二次元のイラストなんかより100万倍尊いにゃあ!!』
直人は、安田モータースのリフトの下で、泥まみれのワイヤーブラシを天高く掲げ、怒りの雄叫びを上げた。
直人の車への偏執的なエゴと、粕谷編集長のカー雑誌としての職人魂が、この瞬間、完璧なシナジーを描いて結合した。
「いいか、野郎ども!! 今日から、生半可な記事は一切禁止だ! 最新の『R35筑波タイムアタック特集』はページ数を倍に増やす!
さらに、お前らがプライベートでやってる、あの頭のおかしい整備や、深夜の違法スレスレのドライブ体験、その『狂気』のすべてを、隠さずに誌面にぶちまけろ!
法律の限界スレスレで暴れまくる、真の車クズのためのバイブルを作るんだよ!!」
「うおおおおおおおお!!!」 編集部員たちの、男臭い野性の雄叫びがオフィスに共鳴した。
直人は、電話口でハァハァと激しい息を吐きながら、 「やるにゃ、おっちゃん!
僕ニャン、今日から会社の仮眠室に住み込んで、キーボードが粉々になるまでDTPのパスを引くにゃ!
シルビニャのガソリン代のためなら、悪魔に魂(貯金)を売っても構わないにゃ!!」 と、早口の不気味な引き笑いを響かせた。
こうして、廃刊の危機を回避するための、新生『RED ZONE』編集部の、過酷極まりない「販売ノルマ達成への闘い」が、本格的に動き始めた。
社内の隅々まで「あの車クズどもの部署が、何やら怪しい爆音を響かせて暴れ始めたぞ」という恐怖の噂が広まる中、粕谷編集長はローレルのキーを強く握りしめ、二次元の狐娘たちをバックミラーのゴミにしてやるための、狂気じみた誌面づくりへと、部下たちを無限の残業の海へと叩き込み続けるのであった。




