第22話 カムバック・マイワイフ?
オフィスに、乾いた紙の擦れる音が響いた。
「藤野、今月の給与明細だ。受け取れ」
総務のスタッフから手渡された一枚の細長い紙。
そこに印字されていたのは、直人が首を長くして、それこそキリンのように首を引きちぎらんばかりに伸ばして待ち望んでいた、手取り「25万円」の数字だった。
直人は、その紙を凝視した。 彼の脳内にある車クズ専用のスーパーコンピューターが、一瞬で現在の所持金との足し算を弾き出した。
現在の軍資金「85万1450円」+ 今月の給料「25万円」=【合計金額:110万1450円】。
「……ヒヒッ、ヒ、ヒィィィィィィハァァァァァァッ!!!」
直人は、オフィス中に響き渡るような、喉の奥を鳴らす甲高い引き引きした奇声を上げながら、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
そして、給与明細を天高く掲げたまま、廊下を猛烈なスピードで走り出した。
「お、おい藤野!? どこへ行くんだ!」
同僚たちの困惑した声を背中で聞き流しながら、直人は小脇にスケボーを抱えてエレベーターへ飛び乗り、そのまま地下駐車場から屋外へと脱出した。
屋外へ出ると、直人はアスファルトの上にスケボーを力任せに叩きつけた。
ガラガラガラガラ!!!
「待たせてごめんにゃ、シルビニャ!! 今すぐ僕ニャンが、世界一豪華な心臓をプレゼントしてあげるにゃあああ!!」
スーツのジャケットを風にバタバタとたなびかせ、ビジネスリュックを揺らしながら、直人はスケボーを狂ったように漕ぎ続けた。
目指す先はただ一つ。安田モータースである。
工場の敷地に、スケボーのテールを擦りつける激しいスライド音と共に直人が突っ込んできた。
直人はそのまま、リフトの横でブルーシートを被せられて眠るシルビアへとスライディング気味に駆け寄り、ボンネットに抱きついた。
「安田のおっちゃんんん!! 現生、一括前払いだにゃあああ!!」
直人はツナギを着て作業していた安田の親父さんの前に、スマートフォンのバンキングアプリの画面を突きつけた。そこには、燦然と輝く「1,101,450円」の残高が表示されていた。
「これ、90万円、今すぐキャッシュで振り込むにゃ! だから、今この瞬間からシルビニャの再生手術を開始してほしいにゃ!」
親父さんは、目を丸くして画面を見つめた。 「お、お兄ちゃん……。お前、まさかどこかで強盗でもしてきたんじゃねえだろうな?」
「失礼にゃ!
これは僕ニャンが血と汗と、ヤニまみれの倉庫での過酷な日雇いバイトと、深夜のDTP作業と、金村さんから回収したゴミPCの売却によって掴み取った、極めてクリーンで神聖なお金だにゃ!」
直人は、その場でスマートフォンを操作し、安田モータースの部品配送先住所を指定して、夢のパーツリストを片っ端から楽天市場や各専門サイトでポチり始めた。
『TO〇EI』のArms T400Mタービンキット。 『D-M〇X』のデュアルフロントパイプ。
『H〇I』のR35エアフロアダプター(Z32タイプ)と、純正R35エアフロセンサー。
『AP〇X'i』のパワーFCとFCコマンダー。 『A〇M』の強化燃料ポンプ。 『TOM〇I』の燃圧レギュレーター。 『SA〇D』の550ccインジェクター。
『ナプ〇ック』のガスケットセットに、『TOM〇I』のメタルヘッドガスケット。 『キノ〇ニ』のブレーキ&クラッチメッシュホース。
『オー〇バーン88』のシリコンホースセット。 『プロ〇ェクトミュー』のB SPECブレーキパッド。
直人の指先が画面の上を舞うたびに、何十万円という大金が決済され、注文完了のメールが次々と届く。
「注文完了にゃ! これで必要なパーツはすべて、この安田モータースに数日以内に届くにゃ! あとはおっちゃんがこれをシルビニャにガッチャンコするだけにゃ!」
直人は、勝ったと言わんばかりに胸を張り、ブルーの瞳をキラキラと輝かせた。 だが、安田の親父さんは、煙草の煙を吐き出しながら、困ったように頭を掻いた。
「お兄ちゃん。注文したのはいいが……皮肉にも、これで終わりじゃねえんだぞ」
「にゃ……? パーツは全部揃うにゃ? あとはおっちゃんが魔法をかけるだけだにゃ?」
「魔法なわけねえだろ。パーツがここに届くまで、最低でも3日から4日はかかる。さらに、届いたパーツを組み付けるだけじゃねえ。お前のシルビアはフレームがサビサビで、一度エンジンを降ろして、錆びた鉄板を切り取り、新しい鉄板を溶接してフレームを補強しなきゃ走れねえんだ。エンジンのバルブステムシールの交換や、ハブベアリングの打ち替えもある。……工期は、最短でも『3週間』はかかるぞ」
3週間。 21日間。 504時間。 3万240分。
直人の脳内コンピューターが、その膨大な時間の数値を弾き出した瞬間、彼の表情から全ての血の気が引いた。
「さ、3週間にゃ……!? そんなの、長すぎるにゃ!
3週間もシルビニャのG(重力)を感じられない生活を送ったら、僕ニャンの三半規管が退化して、本当にただのスケボー星人になっちゃうにゃ!」
「そう言われてもな。俺一人でやってんだ。これ以上は物理的に無理だ」
直人は、安田の親父さんのツナギの裾をガシッと掴むと、床に膝をついて必死に懇願し始めた。
「お願いにゃ、おっちゃん! 工期を短縮してほしいにゃ! 僕ニャン、手伝えることは何でもやるにゃ!
錆びたフレームのサビ落としも、ワイヤーブラシでゴシゴシするにゃ! エンジンの周りの泥汚れも、キャブクリーナーを1本丸ごと使ってピカピカに洗うにゃ!
邪魔な純正パーツをネジ回して外すのも、僕の神の指先(自作PC仕込み)で一瞬で終わらせるにゃ! だから、工期を半分、いや、1週間に縮めてほしいにゃあああ!!」
直人は、普段のプライドの高さなど微塵も見せず、まるで怪我をした子猫のように目を潤ませ、安田の親父さんの顔を見上げて必死にニャーニャーとまくし立てた。
親父さんは、直人のその車への常軌を逸した執念と、およそ社会人とは思えない必死のポーズに、呆れを通り越して少しだけ苦笑いを浮かべた。
「……はぁ。わかった、わかったよ、お兄ちゃん。じゃあ、お前が自分でやれる下準備――フレームのサビ落としと、外すパーツのボルト緩めだけは、お前自身の手でやれ。俺はその間に、届いたエンジンの加工に集中してやる。それなら、数日は工期を縮めてやれるかもしれねえ」
「にゃお!! 交渉成立にゃ!! おっちゃん、最高に大好きにゃ!!」
直人は、すぐに着ていたシワだらけのスーツのジャケットを脱ぎ捨てると、安田モータースの薄暗い工場の片隅で、ワイヤーブラシと錆転換剤の缶を両手に握りしめた。
そして、リフトアップされたシルビアの下に滑り込み、白髪ウルフマッシュの髪をサビの粉で真っ赤に染めながら、 「シャリ、シャリ、シャリ……」
と、狂ったように愛車のフレームを磨き始めた。
「待っててにゃ、シルビニャ。今すぐ僕ニャンが、そのガサガサになったお肌を、新品の鉄板のようにスベスベにしてあげるにゃあ……」
口の周りをサビの粉で真っ黒に汚し、スーツのズボンの膝を油まみれにしながらも、直人のブルーの瞳には、かつてないほどのギラギラとした生命力が、美しく、そしてどこまでも不気味に燃え上がり続けるのであった。




