第21話 そこどけ邪魔にゃ
シルビニャが目の前から消え去って、一体何日が過ぎたのだろう。
カレンダーをめくる気力すら失った僕ニャンを嘲笑うかのように、今日の編集部は本気で僕たちを過労死させにきていた。
深夜2時。オフィスの蛍光灯の下、全員が死神のような顔でディスプレイに張り付いている。
今、編集部が一丸となってゲテモノのような労力を溶かしているのは、雑誌『RED
ZONE』の巻末近くにある、全国の有名ショップのデモカーを紹介する極小スペースのページだった。
表紙を飾るような大々的な特集ならまだしも、果たしてこんな後ろの方の、文字が豆粒のように並んだページを最後の1ページまで読む読者が何人いるのか、誰にもわからなかった。
だが、この地味な作業こそが、最も神経をすり減らす。
デモカーを送り出してくるチューニングショップの代表や職人たちは、全員が尋常ならざるこだわりと巨大なプライドの塊だ。
「うちのエキマニの等長パイプの絶妙な曲げ角について、たったの3行で片付けるとは何事だ!」と激怒されるのを防ぐため、彼らの主張をすべて盛り込もうとすれば、誌面のレイアウトが一瞬でパンクする。かといって、当たり障りのない表現で抽象化すれば「うちの技術を舐めてるのか」と、これまた烈火のごとく怒られる。
このページで不義理を働けば、今後、雑誌の命綱である「実車検証企画」や「サーキットテスト」で誰も車を貸してくれなくなり、編集部自体が消滅してしまう。だからこそ、絶対に手を抜けない地獄の作業だった。
そんなオフィスを包む、張り詰めた殺気と過労の熱気の中。 直人のすぐ隣のデスクで、突如として異変が起きた。
「はぁ……っ、はぁ……っ、う、あ……」
不自然に激しい荒い息遣い。 直人が隣に目を向けると、そこには机に両手を突き、肩を激しく上下させて白目を剥きかけている湊の姿があった。
連日の徹夜による極度の過労による高発熱。そこに、終わらない締め切りとショップからのクレームによる精神的ストレスがトッピングされ、過呼吸(過換気症候群)を引き起こしていた。
その上に追い打ちをかけるように、会社の経費削減ポリシーのせいで2週間前から故障したまま放置されているエアコンの温風が、彼の体温を限界まで押し上げ、軽い熱中症まで引き起こしていた。
過労、過呼吸、熱中症。最悪のトリプルコンボを喰らい、湊はそのまま床へと糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
普通なら、ここで即座に119番通報をして救急車を呼ぶべき状況だった。
だが、湊は床に手をついてよろよろと立ち上がると、焦点の合わない狐目で粕谷編集長を睨みつけ、かすれた声で言った。
「……僕、今日は、もう、帰ります。自宅の、PCにデータを、移して……家で、続きをやりますから……」
湊は、自らのビジネスバッグの中に、会社支給の重たいノートPCを乱暴に突っ込むと、千鳥足で会議室のドアへと向かった。
だが、その様子を窓から見ていた粕谷編集長が、身を乗り出して叫んだ。
「おい!! 霧島! お前、その体調で、外の駐車場に停めてあるZ33を運転して帰る気か!? 死ぬぞバカ野郎!!」
熱が40度近くあり、過呼吸で手足が痺れている人間が、280馬力のマニュアルスポーツカーを運転して、深夜のバイパスや首都高に乗り込む。それは、実質的に時速100キロで走る鉄の棺桶に飛び込む自殺志願者のムーブだった。
さすがに部下の命の危機を察した粕谷編集長は、デスクで InDesign のパスを引き続けていた直人を指差した。
「藤野ォォォォ!! 今すぐ霧島を止めろ! 鍵を分捕って、車から引き剥がせ!!」
「にゃ、にゃお!? 了解だにゃ!!」
直人は椅子を蹴り飛ばし、階段をダッシュで駆け下りて地下駐車場へと突進した。
駐車場では、すでに這うような足取りで自分の黒いZ33の運転席に乗り込み、朦朧とした意識でキーを回そうとしている湊の姿があった。
「湊! どくにゃ! その状態で運転したら、中央分離帯とフュージョンしてC1の星になっちゃうにゃ!」
「う、うるさい……です、先輩……。僕は、まだ、走れ……」
直人は、頑なにステアリングを握りしめる湊の細い体を、力任せに運転席から引っぺがした。
そして、グニャグニャになった彼の体を背中におぶると、エレベーターを使ってオフィスのロビーへと運び、ソファの上に横たわらせた。
ロビーで、直人と粕谷編集長は、湊のスマートキーを囲んで話し合いを持った。
「編集長……。この狐野郎、プライドが高すぎて、このままここで寝かせておいても、目を離した瞬間にまたキーを盗んでZ33で逃走するに決まっているにゃ。もし途中のC1か環八とかで死亡事故でも起こされたら、明日からRED ZONE編集部の机が一つ、遺影置き場になっちゃうにゃ」
「そうだな……。よし、藤野。定時(退社時間)までは、こいつをここで強制的に休ませる。お前もそれまでに自分のページを形にしろ。そして、定時になったら……お前がこいつのZ33のステアリングを握って、霧島を家まで送り届けてやれ。会社の命令だ。いいな?」
「にゃお……。僕ニャンが、他人の車の運転手だにゃ?」
直人は不満そうに首を傾げた。
数時間後、定時のチャイムが鳴り響いた。
直人は、ようやく意識を少しだけ取り戻したものの、まだ顔を真っ赤にして助手席でぐったりしている湊をZ33のシートへと放り込み、自らは運転席へと滑り込んだ。
「……にゃ」
直人は、そのコックピットの感触に、一瞬だけ息を呑んだ。
自分のボロボロのS14シルビアとは、明らかに異なる、数世代進んだラグジュアリーな内装。インパネの質感、センターコンソールの重厚感、そしてアンバー色に鈍く光る3連メーター。
シートには、安物の『チャージ〇ピード』の青いフルバケットシートが装着されていたが、それでも、僕の死んだシルビアよりは遥かに豪華で、ガッチリと体をホールドしてくる。
行き先は、カーナビの履歴に登録されていた、東向島出口からほど近い場所にある一軒家。
直人は、嫉妬の炎を心の中でじりじりと燃やしながら、センターコンソールのキーを捻った。
キュルキュルキュル、ドォォォォォォン!!!
エンジンが始動した瞬間、VQ35DEの極太の排気音が、新調されたばかりの『ZE〇S』サイバーGTマフラーを通じて、地下駐車場全体に野太く、重低音を響かせて共鳴した。
その音、そのステアリングの革の感触、そして、重たい金属製のクラッチペダルの反発力。
その瞬間。 直人の中の「何か」が、牙を剥いた。 彼は、もうただの「チー牛化したひねくれ者」ではなかった。
長期間に及ぶシルビア消失によって、五感すべてが「飢え」に支配されていた、野性の猛獣そのものだった。
他人の弄ってある、本物の速いマニュアル車のステアリングを握る。その事実だけで、彼の背骨を脳髄から直接アドレナリンが駆け抜けていく。
直人は、クラッチを踏み込み、金属製のシフトレバーをカチリと1速へと叩き込んだ。 理性を保て。これは後輩の車だ。お上のお世話になってはいけない。
直人は、必死に心の中で自分自身を抑制しようとした。
だが。
代官町出入口から、漆黒の闇に包まれた首都高速道路へと進入し、C1外回りへと合流した、まさにその瞬間。
保とうとしていた理性の糸が、物理的にぷつりと引きちぎれた。
合流直後、直人の乗るZ33の真横を、ウィンカーも出さずに縫うような超高速の軌道で、甲高い排気音を響かせる黄色のEK9型シビックと、涙目ヘッドライトのGDB型インプレッサが、火花を散らすようなスピードで追い抜いていったのだ。
「……ルーレット族だにゃ」
さらにその上、直人が左レーンに寄ろうとした瞬間、追い越し車線を、白いベンツのCクラスと、我が物顔で走るアルファードが、スーッと優雅に滑り抜けていった。
久しぶりの、スポーツカー。 高鳴るエンジンの鼓動。 流れる都会の夜景。 そして、自分を遮る、目障りな他車のテールランプの群れ。
直人の脳内で、何かが完全にキレた。 ムカついた? いや、そんな単純な感情ではない。
ただ無性に、目の前の「ノロノロと走る障害物」たちを、一瞬ですべて排気ガスの霧の彼方へと置き去りにしたくなったのだ。
助手席の湊が、直人の体から発せられた、尋常ではないレベルの「殺気」を察知し、熱で朦朧とする目を見開いて震えた。
「ふ、藤野先輩……? なんだか、目が、おかしい……」
説明しよう。
藤野直人という男は、普段は猫背でひねくれたオタクのような態度をとっているが、一度自動車のステアリングを握り、かつ首都高という特殊な閉鎖空間に乗り込んだ瞬間、人格が180度豹変する、極めて危険な「超攻撃的煽り運転魔」と化す、国家がうっかり免許を交付してしまった最大のバグとも言えるドライバーだった。
「ふん……。僕ニャンとシルビニャのいない首都高で、こんなデカいミニバンや、退屈なプリウスが、のうのうと追い越し車線を塞いで走っている……。目障りだにゃ。この公道の支配者が誰なのか、今すぐその安物の網膜に焼き付けてあげるにゃ!!」
直人は、運転席の窓を全開に開け放った。 吹き込む暴力的な夜風。
直人は、前方をダラダラと走っているプリウスに対し、親の仇のように「プーーーッ!!!」と鬼クラクションを叩きつけた。
さらに、窓から左手を突き出し、走行中のプリウスに向けて、これみよがしに「ピースサイン」を掲げて挑発した。
「お先に失礼するにゃああ!!」
直人は、ステアリングをガッチリと握り直した。 彼の脳内で、マジのレーシングスイッチがオンになった。
ウィンカーなどという、他人に自分の進行方向を教えるための親切な電子音を出す暇など、1ミリもなかった。
直人は、本線と追い越し車線のわずかな隙間を見極め、右へ左へと、Z33の重たいボディをヒラヒラと踊らせるように車線変更を繰り返した。
さきほど前方を走っていたアルファードの真後ろに、車間距離10センチ以下でベタ付けし、パッシングの閃光を浴びせる。
怯えて左レーンへと逃げていくミニバンを、直人はあざ笑うように抜き去った(なお、ベンツはすでに首都高から降りていた)。
前方に、先ほどの黄色のEK9と、涙目のGDBのテールランプが見える。
「ハーフエアロのおもちゃ共め、僕ニャンの前を走るな、道を譲るにゃ!!」
直人は、イン側から一気にGDBのサイドへと並びかけた。 そして、パッシングを激しく連打し、プレッシャーを与えて相手を精神的に叩き潰す。
相手が怯んでアクセルを抜いた瞬間、直人はZ33のVQ35エンジンを『ZE〇S』マフラーの悲鳴と共に高回転まで引っ張り、一気に2台のルーレット族を抜き去って、本線の前方へと躍り出た。
インパネに設置されたレーダー探知機の速度表示が、60、80、100、110……と、急激に跳ね上がっていく。
直人は、筆舌に尽くしがたい、とてつもない「幸福」と「快楽」を感じていた。
流れる東京の美しいビル群の夜景。 自分の加速の前に、静止したゴミのように後方へと消え去っていくテールランプの群れ。 耳元を切り裂く暴力的な夜風。
『ZE〇S』マフラーが奏でる、重厚で美しいV6の咆哮。 オレンジ色に妖しく輝くタコメーターの針が、レッドゾーンの手前で激しく震えている。
自分の身体にかかる、本物の横G。
「にゃはははは! これだにゃ! これこそが、僕ニャンの生きている世界だにゃ!! 快楽が脳みそからフルストレートになって垂れ流されてるにゃあああ!!」
助手席の湊は、アシストグリップを両手で引きちぎらんばかりの力で握りしめ、顔面を真っ白にして絶叫していた。
彼は、自分のZ33で、ここまで限界に近い攻めた走りをしたことなど、一度もなかった。
普段、直人のことを「ボロ車のクズ」と舐めきっていた湊だったが、今、彼は初めて、直人の持つ「本物の、狂気じみた運転技術」と、自分の愛車が秘めていた恐るべきポテンシャルを、死の恐怖と共に思い知らされていた。
だが、東向島出口で高速を降りる前に、湊の限界は訪れた。
左右に吹き飛ばされる過酷なGと、直人の「どくにゃあ!!」という狂気に満ちた叫び声による精神的恐怖に耐えきれず、湊は助手席で完全に目を回し、失神して沈黙した。
深夜の東向島。 直人は、Z33を某所の閑静な住宅街にある、立派な一軒家の駐車場へと、パーキングチケットを切られないようにミリ単位で慎重にバックで収めた。
そして、エンジンを止めると、すぐに助手席のドアを開け、失神している湊を担ぎ上げた。
インターホンを「ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!」と連打する。
数秒後、ガチャリと静かにドアが開いた。
「は、はい……? どちらさ……あ、うにゃっ!?」
中から出てきたのは、直人が一瞬、自分の頭がまだ首都高のGで狂っているのかと疑うほどの、とんでもない美少女だった。
ゆるい部屋着のTシャツを羽織り、美しいブロンドのロングヘアを揺らす、一人の「狐娘」だった。
彼女の頭の上には、先端が白く染まった、ふわふわとした黄色い「狐耳」がピコピコと立ち、お尻からは、同じく先端が白い大きな狐の尻尾が、不安そうにゆらゆらと揺れていた。
直人は、一瞬、完全に家を間違えたかと思った。 だが、表札には確かに『霧島』と書かれている。
直人は、目の前に立つ超絶可憐な狐娘と、自分の肩に担がれている、いつも生意気で冷酷な表情をしているあの「キツネ野郎(湊)」の顔を、何度も往復するようにして見比べた。
「(いや、絶対にあり得ないにゃ……。あの不気味で陰湿な後輩の血筋から、こんな、二次元の絵の具をそのまま塗って作ったかのような、健気で美しい狐耳の美少女が生まれてくるはずがないにゃ……。宇宙のバグだにゃ……)」
直人が脳内で激しい現実逃避をしていると、狐娘は大きな目を潤ませながら、自分の胸元に両手を添えて言った。
「あの……。私、湊の妹の、霞恋です。お兄ちゃん、どうしちゃったんですか……?」
霞恋。まだ大学1年生になったばかりだという彼女は、高校生の頃の健気な面影を色濃く残した、守ってあげたくなるようなピュアなオーラを放っていた。
彼女が自分で「妹」だと名乗った瞬間、直人の脳内で「この狐野郎の妹は超絶美少女である」という無慈悲な公式が認定された。
「あ、ああ、霞恋さん。お兄さんは、仕事の過労と、僕ニャンの助手席での超絶ジェットコースター体験によって、魂が一時的にエボリューション(気絶)しちゃったにゃ。はい、病人のウーバーイーツだにゃ」
直人は、ゴミ袋を配達するかのように、担いでいた湊の体を玄関の床へとゴロゴロと下ろし、霞恋へと引き渡した。
「え、ええっ!? お兄ちゃん!? しっかりして!」
霞恋は慌てて湊の体を支え、看病するために彼を抱き抱えた。
玄関に転がされた湊は、妹の「お兄ちゃん、大丈夫?」という優しい声によって、なんとかうっすらと意識を取り戻した。
そして、妹に肩を借り、優しく介抱されながら、おぼつかない足取りで二階の子供部屋へと消えていった。
直人は、開いたままの玄関の前にぽつんと立ち尽くし、その光景を、ただ呆然と眺めていた。
「……にゃ」
直人の胸の奥に、かつてない、深くて暗い「敗北感」が、ずっしりと重く沈み込んでいくのを感じた。
霧島湊。23歳。 会社の駐車場には、高級な『IN〇S』エアロで武装した黒光りするZ33を停め。
実家には、海外の有名メーカー勤務の超エリートな両親がおり。
そして、家に帰れば、自分のために「お兄ちゃん、大丈夫?」と涙目で看病してくれる、この世のものとは思えないほど健気で可愛い、狐耳の美少女の妹が待っている。
対する、藤野直人。24歳。 愛車は安田モータースの隅でブルーシートを被せられたエンジン無しの鉄屑。
手元には、チャリを買うのも惜しいなけなしの貯金。
アパートの部屋に帰れば、夜中に独り言をボソボソと囁く日々。
「……僕ニャンの人生、完全に敗北してるにゃ」
直人は、冷たい夜風が吹き抜ける住宅街の真ん中で、虚空を見つめてポツリと呟いた。
そして、直人はふと気がついた。
「……はてはて。僕ニャン、ここからどうやって帰るんだにゃ?」
Z33のトランクを開けると、そこには、僕ニャンが朝、必死に抱えて持ってきた、あの傷だらけのガキ用のスケートボードがぽつんと転がっていた。
直人は、スケボーを引きずり出すと、スマホのマップを開いて、最も近い駅(徒歩20分)の場所を調べた。
深夜の東向島。 直人は、シワだらけのスーツ姿で、ビジネスリュックを背負いながら、暗い夜道をスケートボードに乗って、 「ガラガラガラ……、ガラガラガラ……」
と、虚しい乾いたプラスチックの車輪の音を響かせながら、一人寂しく、涙目で駅へと滑走し続けるのであった。




