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第20話 チギュ野直人

朝の満員電車の隅。ドアの横の狭いスペースに身体を極限まで縮め、小脇に傷だらけのスケートボードを抱えた直人は、完全に外界との精神的障壁を構築していた。

彼の耳には、イヤホンから漏れ出る往年のユーロビートの甲高いシンセサイザー音が、彼の脳の周波数を外界から遮断するように鳴り響いている。


「ふん……。何が通勤快速だにゃ。レールの上を決められた速度で、決められた加減速だけで運ばれていくただのブリキの箱に、これほど大量の人間が文句も言わずに詰め込まれている……。滑稽極まりない光景だにゃ。彼らは自分たちが主体的に生きていると錯覚しているけれど、実質的にはコンベアベルトの上を流れる加工前の歯車と何ら変わりないにゃ。自動車のステアリングを握り、自分の意志でスロットルバルブの開度をコンマ数ミリ単位でコントロールする快感すら知らない、ただの『生体カーゴ』……。かわいそうに、哀れだにゃ」


直人は、声にもならない低い、ボソボソとした独り言を口の中で高速で呟きながら、切れ長のブルーの瞳を伏せていた。

かつての彼の「にゃおーん!」と叫ぶような、エネルギーの塊のようなクレイジーな輝きは、ここ数日間で完全に鳴りを潜めていた。

今の彼は、猫背をこれでもかと深く丸め、他者を見下すような冷ややかな冷笑を口元に張り巡らせ、暗いオーラを放つ精神状態へと退行していたのだ。


端整な顔は、執拗な徹夜作業と、愛車を失ったことによる重度の精神的摩耗によって、不健康な青白さを帯びている。

おらず、前髪の隙間から覗くブルーの瞳だけが、冷たく、細く、陰湿な光を宿して蠢いていた。


事の始まりは、つい数日前。 直人がピンキーニャン(ママチャリ)もシルビアも失い、惨めにスケボーを抱えて出社した日の、某S出版社の駐車場での出来事だった。

直人は、自分の担当ページであるR35特集の校正紙を抱え、疲れ果てた足取りで地下駐車場へと入っていった。

そこに、突如として、地下全体のコンクリートの壁を激しく叩きつけるような、地鳴りのような直管6気筒のエキゾーストノートが轟いた。


「バババババ! ズババババババッ!!」


「にゃ、にゃんだにゃ!? この品性の欠片もない、それでいて異常なほど調律されたレーシングな排気音は……!」


直人が驚愕して振り返ると、そこに、暴力的なまでの純白のボディを震わせた、一台の4ドアセダンが滑り込んできた。

日産、C35型ローレル。それも、ラグジュアリーな顔立ちをベースにしながらも、完全にサーキットや埠頭を走るために武装された、メダリストの後期型だった。


直人は、その車の細部を一目見た瞬間、心臓の燃料ポンプが逆流するほどの衝撃に襲われた。

フロントからリアにかけて美しく、かつ凶悪な張り出しを演出しているのは、ドリ車乗りの憧れである『B〇K Factory』のフルエアロ3点キット。

車高は地面と紙一重の限界まで落とされ、フェンダーの奥には極太の『C〇T』製ゼロワンハイパー(ブロンズ・18インチ)が、鬼のようなツライチで収まっている。

マフラーの出口からは、チタン特有の美しい焼き色がグラデーションを描く延長テールが突き出し、そこから『柿〇改』のN1マフラーによる、耳を劈くような金属的な排気音が吐き出されていた。


キィィッ、とブレーキを踏んで停車したローレルの運転席から出てきたのは、ヨレヨレのネクタイを緩め、タバコを咥えて不敵に笑う、粕谷編集長だった。


「ひゃーっははは! 買ったぞ、藤野! ついに手に…手に入れたぞ!

うちの娘も無事に大学生になって一人暮らしを始めたからな、もうファミリーミニバンなんてデカいだけの箱は必要ねえんだよ!

これからは、このマニュアル5速に換装されたC35ローレルで、昔の埠頭ドリフトのパッションを取り戻すんだにゃあ!!」


「か、粕谷編集長……。C35……メダリスト後期……。しかもER34用の5速MTに公認換装済み……。タコ足から何からフルエキゾースト仕様だにゃ……」


直人は、あまりのショックに、抱えていた校正紙を駐車場のアスファルトの上にばら撒きそうになった。

なぜ、自分のシルビアは安田モータースの隅でボロボロのブルーシートを被せられ、ピストンの棚落ちの恐怖に怯えながら死んでいるのに、この中年のオヤジ編集長が、これほどまでにバチバチに仕上げられた一級品の埠頭ドリフト仕様セダンを笑顔で乗り回しているのか。

不条理。資本主義の暴力。人生の理不尽さが脳細胞をズタズタに引き裂いていく。


「ふ、ふん……。C35なんて、車重が1400キロを超える重たいセダンだにゃ……。いくら5速に載せ替えてRB25DETを吹かしたところで、僕ニャンの軽量なシルビニャの旋回性能の前には、ただの動く高級ソファに過ぎないにゃ……」


直人は、早口のボソボソとした小声で、自分にしか聞こえない負け惜しみをブツブツと唱えた。 だが、追い打ちはそれだけでは終わらなかった。


「あ、藤野先輩。おはようございます。僕のZ33、さらに進化しちゃいました」


駐車場に滑り込んできたのは、湊の黒光りするZ33だった。

運転席から降りてきた湊は、勝ち誇ったような狐目の笑みを浮かべ、直人の目を遮るように、自分のZ33のリアへと歩み寄った。


「見てくださいこれ。新調しちゃいました。左右二本出しの、ステンレス砲弾マフラー。コレ、『ZE〇S』の『サイバーGT』です」


Z33の美しいバンパーの切り欠きから、斜めにハネ上げるようにツインで突き出した、極太の『ZE〇S』サイバーGT。

キーを捻ると、V6特有の乾いた重低音が、まるでスタジアムのパイプオルガンのように美しく、かつ獰猛に響き渡った。


「にゃ……にゃにぃっ!? 『ZE〇S』のサイバーGT……!

よりによって、お上品なプレミアムマフラーを、こんなNAの豚に装着するなんて、ただの豚に真珠だにゃ……!」


直人の内なる防衛本能が、限界突破の超高速回転を開始した。

直人は、湊に直接怒鳴るわけでもなく、ただ前髪をダラリと垂らしたまま、ボソボソとした低く暗い声で、マシンガンのように歪んだ理屈を喋り始めた。


「……へえ。Z33にZE〇SのサイバーGT、ねえ。あえて左右二本出しのサイレンサーを選ぶあたりが、いかにもビジュアル重視の浅薄なZ乗りの発想だにゃ。自然吸気(NA)のVQ35DEにおいて、エキゾーストマニホールドから触媒、そしてY字の集合管(Yパイプ)を経由した排気効率は、排気ガスの『流速』と『適度な背圧(排気抵抗)』の完璧な調律によってのみ成立するにゃ。それを、ただ『二本出しがカッコいいから』という底の浅い理由で、サイレンサー部分だけを大容量のデュアル砲弾に変えるなんて……。排ガスの流速はダダ下がりして、低速トルクはスッカスカになり、実用回転域でのレスポンスは完全に崩壊しているに決まっているにゃ。ただの『爆音を撒き散らすだけの重たい楽器』だにゃ。実質、ドレスアップカーに過ぎないにゃ。走りを極めるアスリートのすることではないにゃ。……まあ、僕は自分のシルビニャのことで忙しいから、そんな無駄な排気システムに1ミリも興味はないけどにゃ」


直人が、視線を一切合わさずに、超早口のボソボソ声で一気にまくし立てたため、湊はドン引きしたように数歩後退りした。


「えっ……。あ、藤野先輩。なんか、今日の口調、不気味で怖いんですけど……。眼鏡かけてないのに、なんか、凄くチー牛みたいな雰囲気が漂ってて、話しかけづらいです……」


「……ふん。他人の感性をチー牛などという浅いネットスラングでラベリングして、思考を停止している君の脳の方が、よほど不気味だにゃ。僕はただ、物理の法則と流体力学の観点から、君の愛車の排気システムの機能的欠陥を客観的に指摘しただけにゃ。他人の親切なアドバイスを素直に受け取れないのは、人間性の未熟さの表れだにゃ」


「いや、僕、アドバイスなんか求めてないですし……」


湊は、引きつった笑みを浮かべながら、直人からそっと距離を置いて、自分のオフィスへと逃げていった。


直人は一人、薄暗い地下駐車場に立ち尽くし、冷たいアスファルトを見つめた。 心臓の奥底が、嫉妬と絶望のガソリンでじりじりと焼かれていく。


今、僕ニャンの財布の中には、先日のハードオフでの売却(6万7450円)と、今月の給料&ボーナスの総力戦によって、約78万円の資金がプールされている。

だが、完璧な『D-M〇X』のフロントパイプと、『TO〇EI』のArms

T400Mタービン、そして安田モータースの親父さんの完璧な溶接・オーバーホール工賃の総額「90万円」に対して、まだ【12万550円】が、どうしても足りない。


「あと12万……。たったの12万550円だにゃ……。この金額さえあれば、僕ニャンはあのC35ローレルのオヤジや、マフラー自慢のZ33のガキを、筑波のストレートで一瞬で置き去りにして、合法的な本物の車乗りの格の違いを教えてやれるのににゃ……。世界はあまりにも不条理だにゃ。神様は車へのリスペクトが足りないにゃ……」


直人は、会社のデスクに戻っても、完全に猫背を丸めてキーボードをボソボソと叩くだけの、死んだ貝のようになっていた。


普段なら、後輩の記事に「こんなのただのカタログスペックの写しにゃ!」と熱い口論を吹っかける直人だったが、今日の彼は、ただ他人の原稿の文字のズレや表現の稚拙さを、ネチネチとした赤字修正で冷酷に潰していくだけの、陰湿な事務マシーンと化していた。


「……ふん。このR35のチューニングインプレッション、形容詞が多すぎて、機能的なサスペンションの減衰特性や減速時のノーズダイブの制御プロセスが1ミリも伝わってこないにゃ。読者はポエムを読みたいんじゃないにゃ。ただ、自分がその車に乗ったときに、タイヤの接地感がどう変化するかという、物理的なファクトを求めているんだにゃ。修正にゃ」


直人がキーボードを「パチ、パチ、パチ……」と低い音を立てて叩く姿は、編集部の他の同僚たちからも、

「おい、藤野のやつ、なんか今日、目が完全に死んでるぞ。話しかけたら、早口で2時間くらいエキマニの等長レイアウトの講釈をボソボソ垂れ流されそうだ、近寄るな」

と、腫れ物のように扱われていた。


深夜。 仕事を終え、すっかり静まり返った街へと、直人はトボトボと歩いていった。 小脇には、傷だらけのスケートボード。


直人は、スーツ姿のまま、スケボーをアスファルトの上にそっと置いた。

そして、ただトボトボと、力なく片足で地面を蹴り、ノロノロと夜のバイパスを滑走し始めた。


ガラガラ……、コトコト……。


「……ふん。ハイブリッドのミニバンが、横を通り過ぎていったにゃ。静かに走って、電気の力で燃費が良いとドヤ顔をしているにゃ。滑稽だにゃ。彼らは自分たちの車が『環境に優しい』と錯覚しているけれど、そのバッテリーを製造するために地球の裏側でどれほどのリチウム鉱山が破壊され、どれほどの環境負荷がかかっているかという、全体的なサプライチェーンの炭素排出量を1ミリも計算していないにゃ。ただ、目先の燃費モニターの数字に一喜一憂して、エコロジーの波に乗っていると自惚れているにゃ。……愚かだにゃ。ただの『走るリチウムイオンのゴミ箱』だにゃ」


直人は、通り過ぎる他人の車に対して、需要皆無の独り言を、夜の風に向かって超高速のボソボソ声で吐き散らし続けた。


アパートに帰り着き、駐車場22番のスペースを見た。 やはり、そこには、何もなかった。

ただ、冷たいアスファルトの黒い地面が、月明かりを反射して、ぽっかりと空いているだけだった。


「……シルビニャ」


直人は、スケボーから降りると、その白線のど真ん中に、膝を抱えるようにしてペタンと座り込んだ。


「僕ニャンは今、78万円も持っているにゃ……。普通の人なら、これで十分すぎるほど豊かな生活ができるし、新しいママチャリだって、いくらでも買い直せるにゃ。……でも、そんなことには1ミリの価値もないにゃ。僕が求めているのは、安物のアパートの家賃でもなければ、美味いメシでもないにゃ。僕の嫁である、あの白いシルビニャの、120φのエキゾーストノートの響きだけなんだにゃ……」


直人は、暗闇の中で、自分のハードウェアトークンの液晶画面をポチポチと光らせ、冷たいアスファルトに向かって、誰も聞いていない早口の独り言をボソボソと囁き続けた。


「……Z33の二本出しマフラー、あれはダサいにゃ。C35のメダリスト後期、おじさんが無理して埠頭ドリフトなんて、絶対に最初のコーナーでリアフェンダーをガードレールに叩きつけて、B〇Kのエアロを粉々にするに決まっているにゃ。……でも、僕のシルビニャが走れば、そんなガラクタども、一瞬でバックミラーのゴミにして見せるのににゃ……。どうして、あと12万550円が、どうしても足りないんだにゃ……。世界は僕に対して冷たすぎるにゃ……」


その様子を、2階の自分の部屋から布団を取り込もうとしていた203号室の中島さんが、真っ暗な駐車場で、体育座りをしたまま不気味なスピードで路面に向かって独り言をボソボソと囁き続けている直人の姿を見て、


「……ヒッ!?」


と短い悲鳴を上げ、窓を二重にガッチリと閉めて鍵をかけ、カーテンを限界まで引きちぎるような勢いで閉めて、二度と外を見ようとはしなかった。


だが、直人のブルーの瞳は、自分の膝の間に挟んだスケートボードの車輪を見つめたまま、ただ、12万550円という冷酷な数字の前に、自分自身のひねくれた理屈の殻の中に、どこまでも、どこまでも深く沈み込み続けるのであった。

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