第16話 グッドバイ・バイシクル
朝起きて、アパートの駐輪場に向かった直人は、その場で硬直した。
「に、にゃにぃっ!? ないにゃ! そこにあるべき僕ニャンの愛しのピンク・セカンドカーが消えてるにゃああ!!」
コーポ・ルミナスの駐輪場の隅に置かれていた、あのサビだらけのピンク色のママチャリ「ピンキーニャン」が、跡形もなく消え去っていた。
直人が混乱していると、近くを通りかかった大家のおばあさんが、チクチクと痒そうに腕をポリポリ掻きながら冷ややかに言った。
「ああ、あのピンクの自転車なら、今朝の粗大ゴミ回収に出しましたよ。誰も防犯登録してないし、何年も放置されてサビサビでしたからね。……っていうか藤野さん、あれ勝手に使ってたんですか?」
「に、にゃんだってぇぇぇ!! 誰がゴミに出していいと言ったにゃ!
僕ニャンがこの3週間、我が身のように愛用していた大切な盗品……じゃなくて、大自然の恵みのコミューターにゃぞ!! どうして僕ニャンの承諾なしに勝手に処分するにゃ!」
「元からあなたの物じゃないでしょうが!!」
大家に一喝され、直人はぐうの音も出ずに黙り込んだ。
そう、あのチャリは名義すら直人の物ではない。元からアパートの裏に放置されていたゴミ同然の車両を、直人が勝手に「地球の所有物」と解釈して不法占拠して使っていただけなのだ。
唯一の移動手段を失い、完全に陸の孤島に取り残された直人。
だが、昨日の不用品売却ツアーで手に入れた「6万2000円」の軍資金がある。これで中古の安いチャリでも買えばいいのだが、車クズの脳細胞にそんな健全な選択肢は存在しなかった。
「だめだにゃ! この6万2000円は、1円足りともチャリごときに使ってなるものか!
すべてはシルビニャの復活資金、あるいは新調する『UR〇S』の追加パーツ代に充てるのが宇宙の絶対ルールにゃ!!」
しかし、こんな時に異常なほどの強運を発揮するのが直人という男だった。
足がないため、渋々駅に向かってとぼとぼと歩きながら、朝のルーティンである不審な「徘徊(道端のゴミや落ちているパーツの物色)」を行っていた直人。
西の方の高級住宅街のゴミ捨て場を通りかかったその時、彼のブルーの瞳が、うず高く積まれたゴミ袋の隙間に光る「何か」を捉えた。
「にゃ……? あれは、スケートボードだにゃ……!」
それは、どこかのガキんちょが飽きて乗らなくなったのであろう、傷だらけだがベアリングはまだ生きているプラスチック製のスケートボードだった。
直人はそのスケボーを拾い上げ、ボロボロのデッキテープに触れた。 その瞬間、直人の脳裏に、高校2年生の頃の甘酸っぱい記憶が濁流のように押し寄せてきた。
当時の直人は、今のような「脳みそがガソリンで沸騰している車一択のキチガイ」ではなかった。
意外にも、色々なサブカルチャーに手を出しては、その都度オタク特有の異常な集中力で極め尽くす、多趣味多才型の優等生オタクだったのだ。
アニメが好きになれば、2000年代の萌え系日常アニメのOVAを駿河屋でコツコツ買い集め、自作PCで深夜までアニメスレを実況した。
美少女フィギュアを集め、ミリタリーに目覚めてはモデルガンやエアガンをカチャカチャ弄り、1/18のミニカーや1/24のプラモデルをガチで塗装して組み立てた。
もちろん車も当時から大好きで、古本屋で『ビデオオプション(V-OPT)』のVHSビデオを買い集め、それを見るためだけに『ハードオフ』のジャンクコーナーで1100円のビデオデッキを買って、擦り切れるまで再生した。
そして、バスケ部の友達に影響されて、スケートボードを始めたこともあった。
彼はやると決めたら徹底的にやる男。オーリー(ジャンプ)の練習で、実家の前のコンクリートを何千回も叩きつけたものだった。
だが、そんな多趣味で充実した高校生活の中で、当時の直人は常に「退屈」と「もどかしさ」に苛まれていた。
フィギュアも、アニメも、スケボーも、高校生の財力と身分でいくらでも極めることができた。
だが、彼が人生で最もやりたかったこと――「本物の車に乗ること」だけは、法律によって18歳になるまで絶対に許されなかったのだ。
しかも、彼が通っていたのは、絵に描いたような保守的な「自称進学校」だった。
校則は厳しく、「18歳になっても、受験勉強の邪魔になるから免許取得は一切禁止」という地獄のような暗黙のルールが存在していた。
「フィギュアもプラモも楽しいにゃ……。でも、僕ニャンが本当にやりたいのは、これじゃないにゃ。1分1秒でも早く、本物のスポーツカーのシートに座って、クラッチを踏みちぎりたいにゃ……!」
一番やりたいことだけが、絶対に手に入らないもどかしさ。
放課後の教室で、受験勉強の英単語帳をめくりながら、脳内ではS14シルビアのギヤ比を計算していた、あの窒息しそうな青春の痛みが、スケボーの乾いた木の匂いと共に蘇ってきた。
「ハッ……!」
直人は、自分がゴミ捨て場の前でスケボーを抱きかかえたまま、ぼーっと立ち尽くしていたことに気がついた。
「にゃお! 過去に浸ってる場合じゃないにゃ! 電車の時間に遅れちゃうにゃ!」
直人は、そのゴミ捨て場のスケボーを素早く小脇に抱え(実質的な不法回収)、そのままスーツ姿でアスファルトの上にスケボーを叩きつけた。
そして、白髪ウルフマッシュの流し前髪をかき上げ、ブルーの瞳をキラリと輝かせると、アスファルトを力強く蹴り出した。
ガラガラガラガラ!!!
スーツの裾を風にたなびかせ、ビジネスリュックを背負った直人が、住宅街の坂道をスケボーで滑走していく。
「にゃはははは! 風が気持ちいいにゃ! ピンキーニャンより車高が低くて、ダイレクトな路面の振動が脳に直接届くにゃ!
これぞライトウェイトスポーツだにゃ!!」
久しぶりのスケボーの感覚に、直人は完全にテンションが狂っていた。
だが、駅のロータリーが見えてきたその瞬間、直人の脳裏に、もう一つの「嫌な思い出」がフラッシュバックした。
それは、高校生の時。 お気に入りのスケボーに乗って駅前まで行き、友達とマクドナルドでダブルチーズバーガーを食べていた時のこと。
一緒にいたダチのチャリの前カゴにスケボーを突っ込んで鍵をかけずに放置していたら、店から出てきた時には、跡形もなく盗まれていたのだ。
「……ッ!! 駅前にスケボーを放置したら、またあの時のように、悪い奴に僕ニャンのセカンドカーを盗まれちゃうにゃ……!」
直人は駅の入り口の前で立ち止まり、激しい葛藤に襲われた。 このまま駅の駐輪場に捨て置くか、それとも。
「だめだにゃ! 一度失ったセカンドカー(ピンキーニャン)の悲劇を、二度と繰り返してはならないにゃ!」
直人は、意を決してスケボーをガッと掴むと、それを小脇にがっちりと抱え、そのまま改札口へと突進した。
朝の通勤ラッシュ。 超満員の自動改札を抜けていく乗客たちの中に、異様な存在感を放つ男が紛れ込んでいた。
白と黒の混ざったウルフマッシュの髪からピコピコと動く猫耳を覗かせ、ブルーの瞳をギョロつかせた猫獣人。
彼はビシッとしたビジネススーツを着て、背中にはビジネスリュックを背負いながら、なぜか泥と傷にまみれたガキ用のスケートボードを、まるで大事なセカンドバッグのように小脇にホールドして、ぎゅうぎゅう詰めの快速急行のドアへと滑り込んでいった。
「にゃ、にゃんだ、文句あるのかにゃ? これは僕ニャンの最新のスマートモビリティだにゃ……」
満員電車の乗客たちが、一斉に「情報量が多すぎる変質者」から1ミリでも距離を置こうと、車内で不自然な押し合いへし合いを始める中、直人はスケボーを盾のように胸に抱きしめ、気まずそうにブルーの瞳をキョロキョロと泳がせ続けるのであった。




