第14話 マイ・ハード・ワーク
某S出版社の6階。そこは、社内でも「隔離病棟」あるいは「治外法権エリア」と噂される、過激派カー雑誌『RED ZONE』編集部のオフィスである。
締め切り当日。
編集部内は、文字通りの戦場、いや、修羅場そのものだった。
床にはエナジードリンクの空き缶がピラミッドのように積み上がり、デスクの上には書き殴られたラフスケッチ、色校正の紙、そして冷めきったファストフードのポテトが散乱している。
部屋全体に漂うのは、徹夜明けの編集部員たちの生々しい汗の臭い、安タバコの残り香、そして「このままでは印刷所(輪転機)が止まる」という、原初的な恐怖がもたらす重苦しい空気だった。
「にゃあああああ!! 終わらないにゃ! 終わるわけがないにゃあああ!!」
キーボードを親指が砕け散らんばかりの勢いでぶっ叩いているのは、珍しくヨレヨレのスーツ姿の直人だった。
彼はここ最近、愛車であるシルビアのブロー、修理代「160万円」のショック、そして謎のハードウェアトークン捜索といった「プライベートの狂気」に脳の全容量を支配されていた。
その結果、自宅に持ち帰っていたはずの仕事(新誌面の原稿執筆、およびレイアウト作業)を、ただの1文字、ただの1ページも進めていなかったのであった。
「お前、直人! デスクに突っ伏して泣いてる暇があったら、その汚い指を1秒間に16回タイピングさせろ!」
デスクの向かいから、真っ赤な目で叫ぶのは、レッドゾーンの名物編集長、粕谷だった。
「粕谷編集長! 無理だにゃ!
僕ニャンの担当ページ、今号のメイン特集『激安ベース車で作る!令和の爆音ドリフトミサイル大作戦』の合計6ページのうち、まだ2ページ目のラフすらデザイナーの吉川さんに送れてないにゃ!!」
「2ページ目だとお!? 印刷所の写植ラインがとっくにスタンバイしてんだよ!
あと1時間で下版(データを印刷所に送る最終段階)データの初校が上がってこなかったら、お前をシルビアの代わりに安田モータースのジャッキで吊り下げて、ボディを限界までシャコタンにしてやるからな!!」
「ひぃぃぃぃ! 吊り下げるのは勘弁にゃ!!」
直人は悲鳴を上げながら、DTPソフト『InDesign』の画面に向き直った。
彼の担当ページは、S14やRPS13といった「今や全く安く買えない、かつての格安ベース車」を、いかにして安く仕上げて走らせるかという、今の直人の現実を血で洗うような、皮肉に満ちた特集だった。
しかし、編集の実務はあまりにも泥臭く、生々しい。
「写真の解像度が足りねえよ!」と外注のカメラマンに電話で怒鳴り、ドリフト走行中の1コマをトリミングして、Photoshopで背景の不要なガードレールや電柱を「パス引き」で狂ったように消去していく。
「にゃ、にゃんでこんなにピンボケの写真ばかり送ってくるんだにゃ! 絞り値(F値)の設定がおかしいにゃ!
このカメラマン、カメラの代わりにトイカメラでも使ってるのかにゃ!」
さらに、直人を苦しめるのが「テキスト(原稿)」の執筆だった。
文字数制限「全角420文字」という極小スペースの中に、ドリ車の熱い魂を伝えるキャッチコピーを詰め込まなければならない。
『法律の限界に挑む、SR20の野性的な咆哮! 120φのステンレスが奏でる、お巡りへのレジスタンス!』
「にゃ、にゃにがレジスタンスだにゃ……。僕のシルビニャは今、安田モータースの隅っこでブルーシート被って、本当にレジスタンス(抵抗)も何もできない冷たい鉄屑になってるにゃ……。こんな原稿書いてると、胸が締め付けられて胃酸が逆流するにゃあ……」
直人がキーボードを「カチャカチャカチャ、ターン!」と親指でエンターキーを叩き、頭を抱えて唸っていると、背後からスッと、あの気配が忍び寄ってきた。
「先輩。相変わらず、キーボードのタイピング音だけは280馬力ですね」
振り返ると、そこには1年後輩の「狐の子」、霧島湊が立っていた。
湊は、直人の荒れ果てたデスクとは対照的に、まるでホテルのロビーのように綺麗に整理されたデスクで、温かいコーヒーを片手に優雅な笑みを浮かべていた。
「み、湊……! お前、何しに来たにゃ! 僕ニャンは今、締め切りという名のスピード取締りに遭ってて、1秒も無駄にできないにゃ!」
湊は、切れ長の鋭い狐目を細め、直人のパソコン画面を覗き込んだ。
「いえ、僕は自分の担当ページ(『Z33で始める、大人のためのスタイリッシュNA快速ライフ』)4ページ、とっくに下版データまで完了して、今さっき校了(完全終了)のハンコをもらったところなんですよ。あまりにも暇なので、ネットショッピングでもしようかと思いましてね」
湊は、手に持っていたスマートフォンを直人の鼻先に突き出した。
画面に映し出されていたのは、眩いゴールドに輝く、Z33用の『Bre〇bo』スリット入り2ピースブレーキローターだった。
「見てくださいこれ。定価22万円なんですけど、今月の給料でポチろうかと思って。やっぱりNAの280馬力は、ブレーキにしっかり金をかけないと止まれないですからね。あ、そういえば先輩……。例の『160万のブロー鉄屑』、今月中にエンジンかかりそうですか?
かからなかったら、僕がその新調した『Bre〇bo』のローターを、フリスビー代わりにして遊んであげましょうか?」
「ぶっ○すぞぉぉぉぉぉ!!!」
直人は椅子から跳び上がり、湊の胸ぐらを掴みそうになった。
「お前! 僕ニャンが必死でFRPの粉にまみれてタケノコ食べてた時、お前はZ33のブレーキをポチる妄想をしてただにゃ!? 許さん、絶対に許さんニャ!!
Z33なんか、エキマニ(排気マニホールド)が錆びて排気ガスが車内に充満して、お前の狐の耳が真っ黒に焦げる呪いをかけてやるにゃ!!」
「先輩、そんなオカルトの呪いを考えてる時間、1秒もないはずですけど。あと、PCの画面……固まってません?」
「にゃ……?」
直人が恐る恐る自分のモニターに視線を戻すと、InDesignの画面の真ん中で、あの恐ろしい「カラフルなレインボーホイール(処理中アイコン)」が、不気味にぐるぐると回転していた。
「あ……あ……」
直人のブルーの瞳が、驚愕に見開かれる。
激しいマルチタスク(Photoshopでの重い画像処理と、InDesignでの6ページ分の同時レイアウト展開)に、会社の型落ちPCのCPUが耐えかねて、完全にフリーズ(応答なし)を起こしていた。
「うにゃあああああ!! 固まったにゃ!! 保存してないにゃ!
3ページ目のラフも、さっき一生懸命パスを引いたドリフトの写真のデータも、一回も『Ctrl+S』を押してないにゃあああ!!」
「あーあ。RED
ZONE編集部の鉄則、『一文字書いたら保存しろ』を忘れるなんて、素人ですね。じゃあ、僕は先に定時なので失礼します。Z33の慣らし運転に行ってきますので」
湊は、呆然と固まる直人に「お疲れ様です」と爽やかな笑みを残し、キーケースを軽快に鳴らしながら、颯爽とオフィスを後にした。
その直後。 直人のPC画面が完全に真っ暗になり、無情にも『エラーが発生したため、アプリケーションを強制終了します』という冷酷なウィンドウが表示された。
「うにゃあああああああああああああああああああああ!!!!!!」
直人は自分の白髪ウルフマッシュを両手で掻きむしり、会社のカーペットが敷かれた床の上に転がり落ちて、カメのようにジタバタと暴れ回った。
「落ちたにゃ! 落ちたにゃ! 僕ニャンの3時間の努力が、一瞬で電子のゴミに消え去ったにゃあああ!!」
「おい、藤野ォォォォォ!!!」
そこへ、背後から書類の束を丸めて棍棒のようにした粕谷編集長が、鬼の形相で迫ってきた。
「フリーズした言い訳は聞かん!! 今すぐ、その落ちたデータを1秒で作り直せ! 今夜は徹夜だ!
印刷所の担当者が『早くデータを寄こせ、さもないと社長にチクるぞ』ってキレて電話してきてんだよ! 終わるまで、このオフィスから一歩も外に出さねえからな!!」
「うにゃあああああん!! シルビニャアアア!! 助けてにゃああああ!!」
直人は、涙と鼻水でグシャグシャになりながら、散乱するキーボードにしがみつき、再びゼロから『InDesign』を立ち上げ直した。
結局、その夜、直人は編集部の固い床の上に梱包用の段ボールを敷き、エアコンの冷風が直接当たる寒さの中で震えながら、一晩中徹夜で原稿を書き直す羽目になった。
翌朝、午前9時。
抜け殻のようになり、顔が「完全にガスケットの抜けきったエキマニ」のように灰色に煤けてしまった直人が、徹夜明けの目でヨロヨロとデスクで缶コーヒーを啜っていると、出社してきた湊が隣から声をかけた。
「あ、藤野先輩。おはようございます。なんか、昨夜の排気漏れの臭いがまだ残ってるみたいですね。お疲れ様でした」
直人は、狐目の後輩をギロリと睨みつけながら、完全に麻痺した頭で「にゃ……にゃお……」と、力のない掠れた鳴き声を上げることしかできないのであった。




