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第13話 酔い

藤野直人は、生まれて初めて「退屈」という言葉の本当の恐怖を知っていた。


「つまらないにゃ……。この世の全てのエンターテインメントが、色褪せたセピア色の砂利に見えるにゃ……」


朝の通勤ラッシュ。満員の武蔵野線の車内で、直人は吊り革にぶら下がりながら、死んだ魚のような目で虚空を見つめていた。

車内は、グレーや紺色のスーツを着たサラリーマンたちで埋め尽くされている。彼らは一言も喋らず、スマホの画面を見つめるか、死を待つように目を閉じている。


「電車なんて、レールの上を勝手に加減速するだけの巨大な家畜運搬車にゃ。マニュアルシフトの操作感もなければ、体がシートに張り付くような横Gも、タービンの過給音も一切ないにゃ。僕ニャンは今、ただの『荷物』として運ばれているだけにゃ……」


これまでもたまに電車通勤をすることはあったが、それは「今日はガソリン代を浮かせてフューエルワンの予算に回そう」という、自発的で前向きな節約によるものだった。

だが、今回は違う。愛車が物理的にブローして消滅し、動かす手段が1ミクロンもないから強制的に電車に乗らされているのだ。この二つの間には、天と地ほどの精神的格差があった。


仕事を終え、アパートに帰ってきても、そこに救いはなかった。 コーポ・ルミナスの駐車場22番のスペースは、ぽっかりと空いたアスファルトの四角い空白のままだった。

そこにあるべき、ボロくて白い、男前のシルビアの姿はない。


「シルビニャのいない駐車場は、まるで大切な家族を失ったお墓の跡地にしか見えないにゃ……」


直人は、ため息をついた。

安田モータースに預けたシルビアを完全復活させるための予算「160万円」という金額は、今の彼の月給や、解凍されたばかりのなけなしの銀行残高(37万円)をどうこねくり回しても、遥か彼方に霞む絶望的な数字だった。

シルビアが消えただけで、彼の身体からすべての生気と狂気エネルギーが抜け落ちていた。


「はぁ……」


帰り道、駅前のコンビニの横で、直人はふと足を止めた。 そして、普段なら絶対に近寄らないお酒のコーナーへと歩みを進めた。

直人は、人生のすべてを「いつ何時でもシルビアを限界走行させられる状態」に置くため、日常的にお酒を一切飲まない。

だが、今日の直人には、その誓いを守る理由すらなかった。


「ノンアルコールビールが、アルコール入りの本物ビールになっただけだにゃ……。もう、どうにでもなれにゃ……」


直人は、アルコール度数9%の缶チューハイを買い、プルタブを引いた。 炭酸と、安っぽいアルコールのツンとした匂いが鼻腔を抜ける。

普段全くアルコールを摂取しない彼の胃袋に、冷たいリキュールが直接流れ込み、脳みそが急速にぐにゃりと歪んでいくのを感じた。


缶を片手に、千鳥足で夜の静まり返った住宅街をふらふらと彷徨う直人。


「120φ……。GTIII-SSタービン……。R35エアフロ……。全部、僕ニャンの手の届かない、お空の星になっちゃったにゃあ……。うにゃ、うにゃおーん……」


夜道で缶チューハイを振り回しながら、猫の鳴き真似と車高調の減衰力の話をブツブツと呟いている白髪の若者。それは、客観的に見て「極めて関わってはいけないタイプ」の不審者そのものだった。


「おい、君。ちょっといいかな」


暗闇から、ピカッと懐中電灯の光が投げかけられた。 自転車を押した二人の警察官が、直人の行く手を遮るように立っていた。


「にゃ、にゃんだにゃ、お巡り……。僕ニャンは今、合法だにゃ。マフラーの音量もゼロ、最低地上高も僕自身の足の高さだから20センチ以上あるにゃ!」


「いや、車の話はしてないよ。こんな深夜に、お酒飲んで大声で叫びながら歩いてるからね。ちょっと身分証見せてもらえるかな。お家はどこ?」


直人は、懐から某S出版社の社員証を取り出して見せた。

お巡りさんたちに「ただの酔っ払いのサラリーマン」と判断され、厳重注意だけで解放されたが、直人はパトロールカーの後ろ姿を見送りながら、ぼんやりと思った。


「はてはて……。僕ニャンがお巡りにお世話になるのって、スピード違反か消音器不備(爆音マフラー)以外の理由では、一体いつぶりだにゃ……。車以外のことで警察に注意されるなんて、僕ニャンの人生もいよいよ終わりだにゃ……」


すっかり深夜のヤバい徘徊者ムーヴを極め尽くした状態で、直人はようやくコーポ・ルミナスの敷地内へと帰ってきた。

普段、シルビアに乗っている時間帯(深夜1時頃)に、歩いてアパートに帰宅することなど、彼にとっては極めて珍しいことだった。


フラフラとアパートの敷地に入ろうとしたその時、直人の少し前を、静かに歩いている一人の人影が目に入った。


それは、大きなフードを深く被った、銀色の少し癖のある髪をふわふわと揺らす、一人の「狼の娘」だった。

フードの隙間から、月明かりを浴びてキラリと金色に輝く、野生の狼のような鋭い瞳が覗いている。


「にゃ……? 狼の娘だにゃ……」


直人は、酒の酔いも手伝って、その背中をぼんやりと見つめた。 その狼の娘は、直人の目の前で、吸い込まれるようにコーポ・ルミナスの外廊下へと入っていった。


「にゃお? 僕ニャンと同じアパートに入るにゃ? ということは、お隣さんだにゃ?」


直人は、自分の住むアパートの住民たちの顔を、ほとんど把握していなかった。 それもそのはずだった。

彼が日頃から共用廊下にデカいエアロパーツを放置して隣の部屋のドアを塞いだり、夜な夜な駐車場でグラインダーを回してFRPの痒い粉を撒き散らしたりする「害悪住人」であるため、周りの住人が関わらないように意図的に避けていたのもあったが。

そもそも、直人の仕事柄(カー雑誌の深夜編集)と趣味(深夜の爆音ドライブ)によって、彼の生活リズムは、朝起きて夜寝るという「他の常人の住人」とは遥かに逸脱していたため、物理的に顔を合わせる機会すら存在しなかったのだ。


狼の娘は、静かな、足音をほとんど立てない無音の歩調で、一階の廊下を進んでいく。 そして、一階の角の部屋の前で立ち止まった。


その部屋の表札には、はっきりと『102号室』と書かれていた。


「102号室……」


直人は、自分の足元を見つめた。 彼が住んでいるのは、二階の『202号室』。


「ということは……あの狼の娘は、僕ニャンが住む部屋の、真下の部屋の住人だったんだにゃ……」


今まで、夜中にドタバタと部屋の中でチューニングパーツを洗浄したり、風呂キャンを極端に嫌うがゆえに深夜2時に壁が震えるほどの爆音でシャワーを浴びたり、下駄箱のグラインダーで激しい振動を起こしたりしていた、そのすべての「直人の狂気の騒音」を、真下でダイレクトに受け止め続けていた被害者が、あの狼の娘だったのである。


狼の娘は、ドアの鍵を開ける直前、背後に漂う強烈な「機械油とガソリン、そして安酒とコーヒーが混ざり合った異様な気配」を察知したのか、ピクリとフードの上を動かした。

そして、鋭い金色の瞳で、背後に立つ直人をギロリと睨みつけた。


その瞬間、直人の背筋に、ブローしたタービンシャフトが突き刺さるような、冷たい戦慄が走る。


シルビアを失い、完全に生気を失った抜け殻の直人と、彼の真下に住む、謎の狼の娘。

深夜の薄暗いアパートの廊下で、二人の奇妙な住人の視線が交錯し、コーポ・ルミナスの静まり返った夜空に、新たな不穏な風がヒュウと吹き抜けるのであった。

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