第十話:狐と貴婦人
某S出版社の社員専用駐車場。 そこは、過激派カー雑誌『RED
ZONE』の編集部員たちが、それぞれの歪んだエゴとこだわりを叩きつけた愛車を並べる、およそ一般企業とは思えないほど治安の悪いエリアだった。
直人は新調した『UR〇S』のフルエアロを纏い、最高に男前になったシルビアを自慢げに滑り込ませた。
普段なら、隣の駐車スペースには、直人の1年後輩である霧島湊(23歳)の愛車が停まっているはずだった。
湊の愛車は、あちこちがベコベコに凹み、直人から「車輪のついた移動式冷蔵庫だにゃ!」と散々馬鹿にされていた白のダイハツ・ミラバン。
しかし、今日、隣のスペースに鎮座していたのは、不気味なほど黒光りする巨大な塊だった。
「にゃ、にゃにぃっ!? なんだにゃ、この黒いデカい塊は……!」
直人はシルビアの窓から顔を突き出し、ブルーの瞳を丸くした。
そこに停まっていたのは、圧倒的なワイド&ローのシルエットを誇る、日産Z33フェアレディZ。それも、走りのグレードである『バージョンS』の前期型だった。
直人は反射的にシルビアから飛び出し、不審者のようにそのZ33を舐め回すように観察し始めた。
「純正で『Bre〇bo』のブレーキキャリパーがゴールドに輝いてるにゃ……。それに、このエアロ、まさか『IN〇S』だにゃ!?」
直人は、そのエアロの正体に一瞬で気づいた。 サーキット仕様として絶大な人気を誇る高級エアロ『IN〇S』。
直人はカー雑誌の編集部員だ。これが「塗装費抜き」の本体価格だけで30万円近くする極上品であることなど、一目で見抜いていた。
直人の脳内で、激しい嫉妬とプライドの嵐が吹き荒れる。だが、そこは車クズの直人。すぐに全力の「負け惜しみ(コープ)」を開始した。
「ふ、ふん! だが所詮はZ33の初期型にゃ! 自然吸気(NA)のV6・3.5リッターなんて、ただの重たい豚にゃ!
カタログスペックは280馬力かもしれないけど、実馬力はスカスカに決まってるにゃ!
僕のシルビニャは230馬力だけど、ターボ過給の鋭い加速と、圧倒的なライトウェイト(?)のボディがあるにゃ! リアルスポーツはターボのFRに決まってるにゃあ!」
直人がブツブツとZ33のタイヤに向かって呪詛を吐き散らしていると、背後からスッと人影が現れた。
「おはようございます、藤野先輩。僕の新しい『貴婦人』、どうですか?」
現れたのは、直人の後輩、霧島湊だった。 切れ長の鋭い狐のような目元に、いつも冷ややかな、人を喰ったような薄笑いを浮かべている23歳の男。
直人とは対照的に、常にスマートでスタイリッシュな雰囲気を崩さない、編集部でも「キツネ」と渾名される生意気な後輩だった。
「み、湊……! お前、あのミラバンはどうしたにゃ! どこからこんなZ33を買うお金が出てきたにゃ!? 自分のシッポでもヤフオクで売ったのかにゃ!?」
湊は、自慢のZ33のボンネットに軽く手を置き、直人を小馬鹿にするようにクスリと笑った。
「ミラバンは知り合いに部品取りとして譲りました。やっぱり、いつまでも安物の軽に乗っていると、どっかの先輩みたいに『脳までオイル塗れ』になりそうで怖いですからね。これ、前期のバージョンSですけど、程度が極上だったんですよ。純正の『Bre〇bo』の効きは最高ですし、この『IN〇S』のフルエアロの空力も、高速域でバッチリ安定します。あ、藤野先輩のシルビア……なんかフロントだけ異様に綺麗ですね。もしかしてまた事故って、ホムセンの缶スプレーで自家塗装したんですか?」
「にゃにをぉぉぉぉ!!」
直人は顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
『UR〇S』のチリ合わせと自家塗装に命を削った努力を、一瞬で「ホムセン缶スプレー」呼ばわりされたのだ。直人の怒りのタコメーターは一瞬でレッドゾーンへと突き抜けた。
「お前、調子に乗るにゃ! 280馬力の重たい貴婦人なんか、僕の過激なシルビニャの過給圧の前には、ただのカタツムリだにゃ!
今ここで、僕ニャンとシルビニャのホンモノの『ターボの洗礼』を浴びせてやるにゃ!!」
「はいはい。お怒りは結構ですけど、そのボロ車、ちゃんと動くんですか?」 湊は、怒り狂う直人を冷たい狐目で一瞥し、あざ笑うように鼻で鳴らした。
「動くに決まってるにゃ! 見てろにゃあ!」
直人はシルビアの運転席に飛び乗り、キーを捻ってエンジンをかけた。
そして、駐車場の裏手にある広いスペースへと車を移動させ、湊の前でドヤ顔を見せるためにアクセルを大きく煽った。
タコメーターが跳ね上がり、ブースト計の針がカッと動く……はずだった。
「シルビニャ、咆哮するにゃあ!!」
直人はアクセルを床まで踏みちぎった。 だが、車内にある追加メーターのブースト計の針は、
「へまへま……」
と、まるで元気のないナメクジのように、0.1バール付近でピクリと震えただけで全く上がらなかった。 それと同時に、エンジンルームから「プシューーーーッ!
ズババババ!」という、明らかに不穏な、高圧の排気ガスが漏れ出るような激しい音が響き渡った。
「にゃ……にゃにぃっ!? ブーストが全くかからないにゃ!」
「藤野先輩、なんかエキマニ(排気マニホールド)のあたりから凄まじい勢いで排気ガスが吹き出してますよ。あーあ、これ完全に『タービンガスケット抜け(排気漏れ)』起こしてますね」
いつの間にか車から降りて、シルビアのエンジンルームを覗き込んでいた湊が、冷ややかに言い放った。
「が、ガスケット抜け……!? うにゃあ、前オーナーが安物のガスケットを適当につけてたにゃ!」
直人が冷や汗を流しながら、なんとかブーストを上げようとさらに空吹かしを繰り返した、その時。
エンジンルームから、甘酸っぱい、およそ機械からはしてはいけない匂いが漂ってきた。
「おい、藤野先輩。足元、緑色の温泉が湧き出てますよ」
「にゃっ!?」
直人が運転席から飛び降りて車の下を覗き込むと、アスファルトの上に、鮮やかな緑色のクーラント(冷却水)が、まるでダムが決壊したかのようにドバドバと垂れ流されていた。
「こ、これは、タービンを冷却するウォーターラインの金属パイプに、振動でクラック(亀裂)が入ってるにゃ!!」
「タービンガスケットが抜けて、さらにタービンラインのウォーターパイプまでへし折れたんですか。どんな過酷な虐待をすればそんな壊れ方するんですかね。それだけじゃないですよ、耳、澄ましてみてください」
湊が耳をピクピクと動かしながら、シルビアのフロントグリルを指差した。
エンジンルームの奥から、
「キーーーーーーッ!! キリキリキリキリ! ガチャガチャガチャッ!」
という、まるでおろし金で金属を限界まで削り続けているかのような、恐ろしい異音が鳴り響いていた。
「……にゃ」
直人は、その異音の正体に気づき、顔面を真っ白にした。
それは、吸気側のブレード(羽根)と排気側のブレードを繋ぐ「タービンシャフト」が、軸ガタ(磨耗によるブレ)を起こし、ハウジングの内壁に金属の羽根が直接激突して、削れ散っている音だった。
そう、このシルビアをヤフオクで落札した時から最初からついていた、メーカー不明の「安物中華タービン」が、ついに寿命を迎え、跡形もなく完全に内部ブローした瞬間だった。
「ち、中華タービンが……僕ニャンのシルビニャの過給機が、ただの粉砕機になっちゃったにゃああああ!!」
直人は、エンジンルームから響く金属の絶叫を前に、その場に崩れ落ちた。 ガスケット抜け、ウォーターラインのクラック、そしてタービンの軸ガタによる完全ブロー。
トリプルパンチの致命傷を負ったシルビアは、白煙をボコボコと吐き出しながら、悲しそうにアイドリングを停止した。
湊は、自慢のZ33のキーを取り出し、人差し指でクルクルと回しながら、倒れ込んだ直人を憐れむような目で見つめた。
「いやー、大変ですね。ターボって、壊れるときは一瞬でゴミになるから怖いですよね。それに比べて、僕のZ33は頑丈な自然吸気(NA)ですから、そんな中華パーツみたいなブローとは無縁なんです。……あ、先輩。その鉄屑、どうするんですか?
まさか、今日もあのピンク色のママチャリで帰るんですか?」
「にゃ、にゃおにゃお……(絶望)」
「まあ、頑張ってください。僕はこれから、280馬力の、クーラントの漏れない、完璧に動く『貴婦人』でドライブに行ってきます。あ、もしどうしてもチャリで坂道がキツかったら、牽引ロープで引っ張ってあげましょうか?
230馬力(自称)の先輩」
湊はそう言い残すと、Z33のキーを操作した。 ピピッ、とスマートな電子音が響き、ハザードランプが点滅する。
湊は不敵な狐面の笑みを浮かべ、黒光りするZ33に滑り込むと、V6特有の重厚なエキゾーストノートを響かせながら、颯爽と駐車場を去っていった。
静まり返った駐車場。 直人は、白煙とクーラントの緑色の池の中で、冷たくなったシルビアのボンネットを抱きしめ、
「うにゃあああああん!! タービンが! 僕ニャンのシルビニャの肺が潰れたにゃああああ!! 狐のヤツ、絶対に許さないにゃあああ!!」
と、涙と鼻水をグシャグシャに流しながら、夕暮れの空に向かって、虚しい負け猫の悲鳴を上げ続けるのであった。




