第八話:魔法のカギ
フロントバンパーが川の深淵へとタイタニックのように沈没してから、三日が経過していた。
コーポ・ルミナスの駐車場22番に佇む白いシルビアは、前置きインタークーラーが剥き出しのまま、相変わらず公道への復帰を許されずに沈黙している。
この三日間というもの、直人は移動のすべてを、あのサビだらけのピンク色のセカンドカー「ピンキーニャン」に委ねていた。
立ち漕ぎのしすぎで太ももがパンパンに張り、歩くたびに生まれたての仔馬のように膝がガタガタと震える直人を見て、アパートの住民たちは「近寄るな危険」のオーラをますます強めていた。
しかし、ここで読者、あるいはアパートの住民なら誰もが抱く、ある根本的な疑問がある。
「藤野直人は、なぜいつもあんなに狂ったように金欠なのか?」
彼は確かに車クズであり、生活水準は底辺を這う自給自足のタケノコライフだが、これでも難関私立のH大学を卒業し、某S出版社のレッドゾーン出版部に籍を置く新人編集部員である。
レッドゾーン出版部といえば、車好きの間では有名な狂った過激派カー雑誌『RED
ZONE』を作っている部署だ。給料はそこそこ良く、新人とはいえ、埼玉南東部の格安アパートで一人暮らしをするだけなら、毎月かなりの額を貯金に回せるだけの収入はあるはずなのだ。
実は、直人がこれほどまでに困窮しているのには、彼の過去に隠された「もう一つの狂気」が原因だった。
時を遡ること数年。実家暮らしの大学生だった頃の直人は、黄色いスイフトスポーツ(型式:ZC31S)を愛車にしていた。
そのスイスポは、購入した時点ですでに前オーナーの手によって過激なフルチューンが施されていた、いわゆる「完成された魔改造中古車」だった。
車を弄るのが大好きな直人だったが、最初からすべてが揃っているスイスポニャンに対し、大学生の財力で新しく弄る場所などどこにも残されていなかった。
「弄る場所がないにゃ……。でも、ピザ配達のバイト代が毎月余って仕方が無いにゃ!
この行き場のない僕ニャンのパッション(余剰資金)を、どこにぶつければいいんだにゃ!」
そこで、直人の沸騰した脳細胞が導き出した答えが「株式投資」だった。
アドレナリンの分泌を求める彼の脳にとって、秒単位で数字が乱高下する株のデイトレードは、タコメーターの針をレッドゾーンまで叩き込むのと同じ興奮をもたらした。
「株のチャートは、実質エンジン回転数のグラフだにゃ! 下がったら買い支えて、レッドゾーンまで跳ね上がったら一気にシフトアップ(利確)だにゃあ!!」
直人は、実家暮らしのぬるま湯の中で、ピザ配達のバイト代をデイトレードに注ぎ込み、地道に増やしていった。
大学を卒業する頃には、株で地道に稼いだ20万円と、親戚から貰った成人祝いの30万円、合わせて「50万円」という、若者にとっては十分すぎる大金を一つの口座に蓄えることに成功していた。
だが、悲劇は彼がこのコーポ・ルミナスへ引っ越してきた「始まりの日」に起きた。
直人が利用していたのは、海外資本のグローバル金融企業が運営する、セキュリティがやたらと厳重なネット銀行だった。
その口座にログインするためには、手のひらサイズの小さな液晶画面がついた「物理的なハードウェアトークン」が絶対に必要だった。
しかし、引っ越しのドタバタの最中に、直人はその大切なハードウェアトークンをどこかへ紛失してしまったのだ。
「にゃ、にゃにぃっ!? 僕ニャンの50万円へのアクセスキー(トークン)が消えたにゃあ!!」
慌てて銀行のグローバルカスタマーセンターに電話をかけた直人だったが、相手は日本の常識が通用しない海外資本の超お役所仕事バンクだった。
「Hello, this is customer support. How can I help you?」
「にゃっ!? 英語だにゃ!? あの、僕ニャンのハードウェアトークンが紛失したにゃ! 50万円を今すぐ下ろしたいにゃ、助けてにゃ!」
「Pardon? Sir, we cannot understand your cat slang. Please verify your registered
international identity number.」
「にゃおにゃお言ってないで僕の50万を返せにゃあああ! ぶっ○すぞ!?」
「Sorry, your language is flagged as hostile. Have a nice day.(ツープー、ツープー)」
言葉の壁、そしてあまりにも冷酷なグローバル企業のセキュリティ基準の前に、直人の復旧手続きは完全に泥沼化。
再発行のための英文の申請書類の書き方もわからず、だんだんと銀行側と喧嘩するのにも疲れ果てた直人は、ついにその50万円の存在自体を脳からシャットアウトし、諦めてしまっていた。
これこそが、彼が就職してからも常に自転車操業の極限生活を送っていた理由であった。
そんなバンパー消失から3日目の、ある日のこと。 直人は、自分の大切なシルビアのコックピットに思いを馳せていた。
「……あ」
直人は、ふと思い出した。
昨日の日雇いバイトの後、体中に倉庫の茶色い埃やガムテープの糊、さらには雑草のチリがついたままの汚いツナギ姿で、うっかりシルビアの運転席に座ってしまったことを。
あの運転席には、買った時から装着されていた、グラデーションロゴが眩しい『BR〇DE』の『ZE○AⅣ』というフルバケットシートが鎮座している。
実はこのシート、購入時のヤフオクの出品画像では、内装の写真に真っ赤な『REC〇RO』の『R〇S』という超高級フルバケが写っていた。
車が届いた瞬間に違うシートが付いていることに気づいた直人は、
「にゃあ! 画像と違うにゃ! REC〇ROのR〇Sじゃないにゃ! これじゃあ詐欺だにゃ、ヤフーに通報してお前のIDを消し去ってやるにゃ!」
と鼻息荒くクレームのメッセージを送ったのだが、出品者から冷ややかに、 「商品説明文の50行ある発送詳細のさらに下の、最後の最後の1行に『※画像のREC〇RO
R〇Sは撮影用ディスプレイです。納車時はBR〇DEのZE○AⅣに変更して引き渡します』って書いてありますけど、日本語読めますか?」
と指摘され、涙目で黙り込んだという、誰にも言えない秘密の過去があった。
しかし、その『BR〇DE』の『ZE○AⅣ』は、前オーナーが「自分の体格にはきつくて合わなかったので、買ってすぐに外して部屋で眠らせていた」という、ほぼ新品同様の極上品だった。
直人の痩せ細った体軸にはミリ単位でジャストフィットし、今では彼の人生で最もお気に入りの「聖域」となっていた。
「そんな神聖なZE○AⅣのグラデロゴのファブリック地を、僕ニャンは昨日、泥だらけのお尻で汚してしまったにゃ……! なんて大罪を犯してしまったんだにゃ!
シルビニャ、ごめんにゃあああ!」
直人は、シートに付着したかもしれない微細な埃をこれ以上シルビアの車内に持ち込まないため、まずは自分の汚部屋を徹底的に掃除することを決意した。
「部屋の埃を根絶やしにするにゃ! 掃除機サイクロンモード、フルブーストにゃ!!」
窓を全開にし、普段はオイルとキャブクリーナーの臭いしかしない部屋を、掃除機でガシガシと吸い上げていく。
そして、部屋の片隅にある、開かずの「押入れ」の掃除に取り掛かった。
押入れの奥には、実家から持ってきて以来、このアパートに引っ越してきてから一度も使っていない「冬用の羽毛布団」が丸めて突っ込まれていた。
直人は年中、車用の寝袋か、薄手の毛布だけで犬のように丸まって寝ていたため、そのぶ厚い冬布団は完全に放置されていたのだ。
「この布団のさらに奥にある、僕ニャンが高校時代に作ったS14シルビアの1/24プラモデルを取り出すにゃ……」
直人は、埃まみれの冬布団を「ふんぬっ!」と両手で抱え、押入れの外へと引っ張り出した。 その時、布団のシーツカバーの隅に、何かが引っかかる感触があった。
「にゃ? なんだにゃ、このシーツの中に入ってる四角くて硬い板みたいなのは……」
シーツのチャックの隙間に、妙に大きくてゴツゴツとしたプラスチックの板のような感触。
直人はてっきり、シーツを布団本体に固定するための、デカいプラスチック製のスナップボタンか、あるいは壊れたチャックの金具だと思った。
だが、指先で触ってみると、その板状のプラスチックには、小さな丸いゴムのボタンのような凹凸がある。
「にゃ……? プラスチックのボタンにしては、妙に押し心地が良いにゃ。カチカチ言うにゃ……」
嫌な予感、いや、脳の奥底に眠っていた記憶の断片が、一気にパズルのように組み合わさっていく。
直人は、シーツカバーのファスナーをジーッと引き裂くように開き、その狭い隙間の奥深くに、汚れで黒くなった右手を思い切り突っ込んだ。
奥に眠っていた、小さな物体を掴み、一気に引き抜く。
「……にゃ」
直人の手のひらの上に載っていたのは、小さな液晶画面と、緑色の丸いボタンが一つだけついた、手のひらサイズの黒いプラスチック製の端末だった。
まごうことなき、あの海外ネット銀行の「ハードウェアトークン」だった。
「あ……あ……」
直人のブルーの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
引っ越しの初日、実家から持ってきた冬布団をとりあえず押入れに放り込んだ際、荷物の中に紛れ込んでいたトークンが、シーツのカバーの隙間にすり抜けて入り込み、そのまま三年間もの間、タイムカプセルのように冬用の羽毛の中で眠り続けていたのだ。
「あ、あったにゃぁぁぁぁぁ!!! 僕ニャンの大切な物が、こんなところにあったにゃぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
直人は、埃まみれの畳の上に膝から崩れ落ち、トークンを両手で天に掲げながら、野生の獣のように男泣きした。
「50万円……! 僕ニャンの、汗と涙のピザバイト代と、おじいちゃんから貰った成人祝いの30万円が、今、三年の時を経て復活したにゃああああ!!」
直人は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、震える指でトークンの緑のボタンを力一杯押し込んだ。 液晶画面に、ワンタイムパスワードの数字がピカピカと青く表示される。
スマホの banking アプリにその数字を入力すると、画面には、確かに。
『口座残高:¥500,000』
の文字が、黄金の光を放つように輝いていた。
「うにゃあああああん! 夢じゃないにゃ! 本当に50万円が僕の手に戻ってきたにゃ!!」
これで、ヤフオクで新しいフロントバンパーを買うどころか、予備のウイング、ギラギラのエンジンパーツ、さらには高級なハイグリップタイヤまで一気に大人買いできる。
貧乏雑草タケノコ生活からの、奇跡の脱出。
直人は涙を拭うのも忘れ、ハードウェアトークンを愛おしそうに頬にすりつけながら、押入れの布団の上でのたうち回り、アパートの天井に向かって「にゃおーん」と、歓喜の咆哮をいつまでも響かせ続けるのであった。




