第7話:スキマバイト
フロントバンパーが川の底へとタイタニックのように沈没してから、早いもので二日が経過していた。
「うにゃあ……お巡りに捕まって罰金を取られたら、来月の家賃どころか、フューエルワンすら買えなくなって僕ニャンの生命維持装置が停止するにゃ……」
前置きインタークーラーが剥き出しになった、あまりにも治安の悪すぎる状態のシルビア。
こんな車で一歩でも公道に出れば、即座に白バイの緊急包囲網に引っかかるのは火を見るより明らかだった。
結果、シルビアは駐車場に封印され、例の放置されていたピンク色のママチャリ(直人命名:ピンキーニャン)が、完全に彼の主たるセカンドカーとしての地位を確立していた。
そして迎えた週末の休日。
直人は、自らのプライドを一時的にドブ川へ投げ捨て、最近流行りのスマホアプリで「面接なし・即日払い」のスキマバイトを入れていた。
実態は、スキマバイトというお洒落な響きとは程遠い、限りなくグレーで泥臭い「突発型日雇い労働」である。
だが、背に腹は変えられない。すべては、シルビニャの新しいお口をヤフオクで買い直すためだ。
直人がピンキーニャンを激走させて飛ばされた先は、郊外にある薄暗く広大な運輸倉庫だった。
「はい、そこの白髪! チンタラしてないでこっちのダンボール梱包の手伝いに入って!」
「うにゃっ! 僕ニャンはこれでもH大学社会学部卒にゃぁぁ………(意味不明)」
現場の乱暴な班長に怒鳴られ、直人は他の日雇い労働者たちに揉まれながら、過酷な梱包作業のラインへと放り込まれた。
作業開始からわずか十分。直人は、その場の凄まじい「空気」に鼻がひん曲がりそうになっていた。
倉庫内は、ありとあらゆる人間の悪臭が凝縮された、目に見えないバイオハザード状態だった。
ヘビースモーカーたちの肺から漏れ出るヤニ臭、前夜の安酒が毛穴から染み出したアルコール臭、何日もお風呂に入っていないであろう「風呂キャン勢」の熟成された体臭、それを誤魔化そうと過剰にスプレーされた安い香水、安売りの甘ったるすぎるシャンプーの匂い、そして全員の生々しい汗。
それらが複雑にブレンドされ、直人の鋭い嗅覚を容赦なく破壊しにきていた。
直人はツナギのポケットから引き裂いたティッシュを取り出し、鼻栓をして口呼吸でなんとか耐えようとした。
「フシュー……フシュー……。く、臭すぎるにゃ……! ここは荒川下流かニャアア!?」
しかし、直人は気づいていなかった。
周囲の日雇い労働者たちもまた、直人の方をチラチラと見ながら、密かに顔を顰めていたという事実に。
「おい……あの白髪の猫兄ちゃん、近くに来るとめちゃくちゃガソリン臭くねえか?」
「ああ。缶コーヒーの臭いと、服の繊維の奥深くまで染み込んだ油、んの上、ガソリンの匂いが混ざり合って、近づくだけで引火しそうだ……」
お互いがお互いの放つ体臭によって、精神的ダメージを削り合う地獄の無差別級デスマッチ。
さらに、名門H大学社会学部メディア表現学科を卒業した直人にとって、ただひたすらにダンボールの底をガムテープで留め、荷物を詰めて送り出すという単純作業は、脳のニューロンが一本ずつ死滅していくような精神的拷問でもあった。
「僕ニャンは……H大学でメディア論と大衆社会の記号化について学んだインテリだにゃ……。なんで今、冷えた倉庫で、謎の健康器具をダンボールに詰め続けるマシーンになってるんだにゃ……!」
4時間が経過した。
肉体的にも精神的にも限界を迎えた直人は、現実逃避のために大好きなシルビアの妄想を始めようとした。SR20DETの音を必死に妄想する。
だが、極限状態の脳はまともなファンタジーを拒絶した。
「(ああっ、僕のシルビニャ……。僕ニャンがいない間に、アパートの駐車場で謎のオルタネーター故障を起こして火を吹いてるかもしれないにゃ!)」
「(いや、それとも近所のクソガキどもが、剥き出しのインタークーラーのフィンをドライバーで全部ペコペコに潰して遊んでるかもしれないにゃ!!)」
妄想すればするほど、愛車が破壊される凄惨なバッドエンドのイメージばかりが脳内を駆け巡る。
脳内で爆発四散するシルビアの幻影に怯えながら、直人はティッシュを鼻に詰めたまま「うにゃあ! うにゃあ!」と奇声を上げ、涙目でガムテープを貼り続けた。
「……はい、お疲れさん。これ、今日の分の給料」
地獄の4時間がようやく終わり、直人は班長から現金が入った茶封筒を受け取った。
封筒の中身を確認すると、そこそこの金額の諭吉たちが、確かにそこに収まっていた。
ついに、バイト代をゲッチュしたのだ。
直人は茶封筒をツナギの胸元にしっかりと押し込むと、深くため息をついた。
「ひ、日雇いバイト……もう二度と御免だにゃ……。頭がおかしくなって、シルビニャのエンジンがブローする夢まで見たにゃ……」
直人はピンキーニャンに飛び乗り、ペダルを千切れんばかりの勢いでフル漕ぎし、夕方のバイパスを自宅へとダッシュで突き進んだ。
キィィィィ! コトコトコト!!
凄まじいスピードでアパートの敷地に滑り込んだ直人は、ピンキーニャンをガシャーンと雑に放り出した。
そして、部屋へ繋がる外階段には目もくれず、裏手の駐車場へと文字通り四つん這いに近い猛ダッシュで突進した。
「シルビニャアアアアア!! 会いたかったにゃあああああ!!」
直人は、フロントバンパーがなくて寂しそうな白いシルビアの、ひんやりと冷たいボンネットの上に向けて、全身でダイブした。
そのまま、スチール製のエンジンフードに顔をごしごしと擦り付け、両手両足で車体をクモのようにホールドして抱きつく。
「はうぅぅん……冷たくて、オイルの香りがして、最高に気持ちいいにゃ……。さっきまでの地獄のヤニ臭が一瞬で浄化されて、脳みそが快楽物質でとろけそうだにゃ……」
泥と汗にまみれた、尻尾と猫耳を生やした24歳の男が、夕暮れの駐車場で、バンパーの無いボロ車にしがみついて恍惚の表情を浮かべている。
その様子を、ちょうどアパートのゴミ収集用のポリバケツを整理しに来ていた大家のおばあさんが、数メートル先から完全に無言で、ゴミを見るような、あるいは未知の生命体に遭遇したかのような、凄まじく引きつった顔で凝視していた。
おばあさんは持っていた塵取りを静かに地面に置くと、直人と目を合わせないようにゆっくりと後ずさりし、そのまま一目散に大家室へと逃げ帰っていった。
だが、そんな周囲のドン引きの視線など、シルビアの冷たいボンネットの上の直人の耳には、1ミクロンも届いていないのであった。




