第二幕
新シンセシア
第二幕 革命の輪郭
第7章「ニアの照準」
夕暮れの裏通りは、獣人街区の端から入るのが一番速い。
ニアはフードを被って歩いた。ブロンドの髪と、その上に乗った狐耳が目立つから。人間の多い区画では、フードを被ると少し楽になる。視線が減る。視線が減ると、肩が下がる。肩が下がると、照準が安定する。
任務の内容はシンプルだった。政府の物資搬送ルートを確認して、検問の配置を記録して、帰る。戦闘なし。接触なし。
角を曲がったとき、男の子と目が合った。
五歳か六歳くらい。人間の子供だ。母親と手を繋いで歩いている。男の子はニアのフードの縁からはみ出した耳を見て、ぱっと目を輝かせた。
「ママ、きつねだ」
母親が男の子の手を強く引いた。視線をニアから逸らして、早足になった。
男の子は引っ張られながら、まだニアを見ていた。不思議そうな顔で。敵意じゃない。ただ珍しいものを見る目。でも母親は振り返らなかった。
ニアは歩き続けた。
フードの中で、耳が少し伏せた。自分でも気づかないうちに、そうなっていた。
政府倉庫の裏手に着いたのは、日が落ちる三十分前だった。
ニアは廃ビルの三階から双眼鏡を使った。検問の位置。交代の時刻。搬送車両のナンバー。全部頭に入れる。メモは取らない。捕まったときに証拠になるものは持たない。
空間が見えていた。
これはニアの異能で、異能とは少し違う。訓練で得た感覚だ。廊下一本の向こうで誰かが動けばわかる。路地の出口に人間が何人いるか、視認しなくてもわかる。気流の変化。足音の反響。光の反射。それを全部まとめて処理すると、空間が透けて見えるような感覚になる。
今夜の配置は読み切れた。
撤収できる。
来た道を戻り始めたとき、背後で足音がした。
二人。人間。制服の重さ。
「そこの獣人、止まれ」
ニアは止まった。
フードを外さずに振り返った。政府の警邏兵だった。若い方が手を腰の銃に置いている。まだ抜いていない。ベテランの方が、ニアのフードの縁を見ている。
「フードを取れ」
ニアはフードを取った。
ブロンドの髪。耳。尻尾は腰の後ろに巻きついている。見えないが、今はぎゅっと縮んでいた。自分でわかる。
「身分証」
偽造の身分証を出した。獣人向けの書式。人間のものとは色が違う。茶色い縁。政府が六年前に導入した様式だ。
若い方の兵士がそれを受け取って、見た。角度を変えて見た。戻してきた。
「行け」
ニアは歩き出した。
背中に視線を感じた。二人とも見ていた。何もしなかった。でも見ていた。
角を曲がってから、尻尾が少し伸びた。
合流地点はいつもの路地の奥だ。
ハクアが先に来ていた。
白銀のポニーテールが暗がりの中でも光を拾っている。カーキのマウンテンパーカーの袖から、鋼線の端が少し覗いていた。壁に背を預けて、目を閉じている。眠っているんじゃない。周囲の気配を読んでいる。ハクアはいつもそうやって立っている。
「見てた?」とニアは聞いた。
「見ていた」とハクアは答えた。
それだけで十分だった。ニアの尻尾がふわっと広がった。さっきまで縮んでいた分を取り戻すみたいに。
「検問、東側に一つ増えてた。報告書に追加しとく」
「わかった」
「警邏に止められた。でも通れた」
「問題はなかったか」
「なかった」
ハクアはニアの顔を見た。ちゃんと見た。ニアが何か言いたいことがあるとき、ハクアは顔を見る。言葉を待てる人間だ。
「フード外したとき」とニアは言った。「若い方の兵士が、私の耳をこう、見てた。なんか変なもの見るみたいな顔で」
「そうか」
「別にいい。慣れてるし」
「そうか」
ハクアはそれ以上言わなかった。否定もしなかった。「慣れてるし」という言葉を、そのまま置いておいた。
二人で路地を出た。
一人になったとき、ニアは少し考えた。
見ていてくれる誰かがいなくなったら、自分はどうなるだろう。
考えた。でも答えは出なかった。出ないまま、夜の街を歩いた。
── 第7章 了 ──
第8章「ノアの持ち込んだ真実」
革命組織の新しい拠点は、獣人街区の内側にあった。
セオが選んだ理由は単純だ。政府の捜索は人間居住区から始まる。獣人街区は後回しにされる。差別が隠れ家になる、という話を最初に聞いたとき、ルカは笑えなかった。
倉庫の二階。木の床が軋む。古い換気扇が回っている。窓は塞いである。
ノアが来たのは、深夜に近い時間だった。
扉を開けたセオが少し目を細めた。予期していた顔だった。
「来てくれた」
「来るしかないでしょう」とノアは言った。「外にいても、いずれ捕まる」
三十代に見える女性だった。濡れたコートを脱いで、椅子に掛けた。まっすぐな目をしている。何かを決めてきた人間の目だ。
セオ、ゼフ、ミラ、ルカ。四人が向かいに座った。
「話す前に聞く」とノアは言った。「あなたたちは、何のために戦っているか、ちゃんとわかってる?」
「父を取り返しに行く」とルカは答えた。
「それだけ?」
「今はそれだけ」
ノアはルカを見た。少し間があった。
「正直でよかった」
ノアはコートの内側から封筒を取り出した。折り目のついた紙が何枚か入っている。設計図。数値の並んだ表。手書きのメモ。
「私は三年間、政府の電波技術研究施設にいた。開発スタッフとして。電波塔のシステム設計に関わっていた」
誰も口を開かなかった。
「感情調整電波。あなたたちが探していたものの、正式名称はそれ。都市全体に照射して、市民の扁桃体活動を抑制する技術。三層構造になっている」
ノアは紙を広げた。
「第一層。怒り、抵抗感、疑念の抑制。第二層。国王への親しみの誘発。第三層。六年前の記憶の改竄」
ルカは紙を見た。数式が並んでいる。意味はわからない。でも量がわかる。これだけの規模で、六年間。
「電波単体では抑制が不完全で、神経安定剤と組み合わせることで効果が安定する。あの薬を飲んでいる市民は、電波の効果が増幅される。飲んでいない市民は、電波だけでは完全に制御できない」
「だから薬を無償配布した」とセオが言った。
「そう。全員に飲ませる必要があった」
ルカは第一章の夜を思い出した。テレビのテロップ。『新型神経安定剤・全国民への無償配布を来月より開始』。
あのとき、もう一度読んだ。なんとなく気になって。
「あなたの感情は本物です」とノアは言った。ルカを見て、言った。「怒りも、悲しみも、疑念も。でも、疑う感情だけが、削られていた。六年間、ずっと。それがこの電波のしていたこと」
しばらく誰も何も言わなかった。
換気扇が回っている。
「第七施設に収容されている人間の、具体的な情報はあるか」とセオが言った。
「一部だけ。施設の内部リストは私の権限では見られなかった。でも所在地と、外部からアクセスできる記録のルートは知っている」
「それを教えてほしい」
「そのために来た」
ノアは次の紙を広げた。
ルカは紙を見た。でも頭の中では別のことを考えていた。
六年間、ずっと。疑う感情が削られていた。
ならば今、感じているこの怒りは本物だ。
確かめるように、もう一度思った。
本物だ。
── 第8章 了 ──
第9章「ネフェリシェの魔力と重力」
任務の前夜、ネフェリシェはいつも眠れない。
眠れないから魔力を出す。少しだけ。杖の先から炎を一センチだけ出して、すぐ消す。出して、消す。それを繰り返していると、少し落ち着く。
自室のベッドの端に座って、膝を抱えていた。銀灰色の狼耳が、暗がりの中で微かに揺れている。揺れているのに気づいたのは、自分の意志で動かしていないからだ。緊張すると、耳が勝手に動く。制御できない。昔から。
ドアをノックする音がした。
「ネフェリシェ、起きてる?」
ニアの声だ。
「……起きてる」
扉が開いた。ニアが顔だけ覗かせた。
「眠れない?」
「眠れない」
ニアは部屋に入ってきて、ネフェリシェの隣に座った。ふわふわした狐耳が、暗がりの中で少し動いた。ニアが何か言おうとしているときの動き方だ。言葉より先に耳が動く。
「明日、私たちの班は別行動だから」とニアは言った。「確認したくて」
「うん、知ってる」
「大丈夫?」
ネフェリシェは少し黙った。大丈夫かどうか聞かれると、答えに詰まる。大丈夫、と言えば嘘になる。大丈夫じゃない、と言えば迷惑になる。
「魔力、抑えた方がいいかな」とネフェリシェは言った。「目立つから、任務中は」
「どうして抑えるの」
「目立つから」
「それだけ?」
ネフェリシェは杖を持ち直した。真鍮製の、先端が少し焦げている杖。使いすぎた跡だ。
「抑えると、消えそうになる」
言ってから、少し後悔した。こんなこと言うつもりじゃなかった。
でもニアは変な顔をしなかった。
「消えそう」と繰り返した。確認するみたいに。
「うん。なんか。魔力を出してないと、自分がここにいる理由がなくなる気がして。変なこと言ってるのわかってる」
「変じゃない」
「変だよ」
「変じゃないって言った」
ニアはそれ以上言わなかった。否定もしなかった。ただ隣に座っていた。
しばらくして、ネフェリシェはまた杖の先から炎を出した。一センチ。すぐ消す。
「昔さ」とネフェリシェは言った。「魔力が強いってわかったとき、周りが急に優しくなった。使えるとき、だけ」
「使えなくなったら?」
「いなくなった。優しさが」
ニアの耳が少し伏せた。
「それで魔力が自分の存在証明になった」
「……みたいに、なっちゃった」
換気扇の音がどこかから聞こえた。古い建物の音だ。
「明日」とニアは言った。「私は見てるから」
「見てるって」
「あなたが何をしていても。見てる。いるから」
ネフェリシェの耳が、少しだけ上がった。
翌朝、作戦前のブリーフィングでネフェリシェは壁際に立っていた。
ハクアが地図を広げて指示を出している。ニアがメモを取っている。エレノアが——白兎の長い耳を後ろでまとめて、貴族風のドレスの手袋を嵌めたまま——細い指で地図の一点を押さえた。
「この路地は私が抑える。ネフェリシェは東口」
「は、はい」
「返事が小さい」
「す、すみません……」
エレノアの耳がわずかに動いた。呆れているのか、それとも別の何かなのか、ネフェリシェには読めなかった。エレノアはそれ以上言わなかった。
ハクアがネフェリシェを見た。
「無理に抑えるな」
短い言葉だった。でも確かにそう言った。
「魔力は出していい。目立つ。でも止まるな」
ネフェリシェは頷いた。
耳がまた揺れていた。でも今度は、少しだけ揺れ方が違った。
作戦は、想定より早く動いた。
革命側の偵察班が検問に引っかかった、という連絡が入った。陽動が必要になった。ネフェリシェの担当は変わらないが、範囲が広がった。
東口の路地に立って、ネフェリシェは杖を握った。
政府の兵士が三人、こちらに向かってくる。制服。銃。距離は四十メートル。
魔力を出す。
抑えない。
杖の先から炎が出た。一センチじゃない。制御が荒い、とよく言われる。でも今は制御しなかった。出した。全部出した。炎が路地を照らした。兵士が止まった。
熱が来た。
それでいい。
ネフェリシェは前に出た。
消えない、と思いながら。
── 第9章 了 ──
第10章「ゼフが言えなかったこと」
六年前のことを、ゼフは覚えている。
電波耐性があるわけじゃない。ゼフは電波の影響を受けていた、たぶん。でも六年前の記憶は消えなかった。それは記憶の中心部分じゃなかったから。政府が改竄したのは「民主化運動」の記憶だ。デモの記憶。広場の記憶。ゼフは六年前、十二歳で、その日は家にいた。見ていなかった。
でも隣の家のおじさんが連れていかれるのは、見た。
表通りに出たら、黒い政府車両が止まっていた。三台。おじさんが出てきた。パジャマのままで。靴下を履いていなかった。
今と同じだ、とルカの父が連れていかれた夜に、ゼフは思った。靴下を履いていないところまで同じだった。
学校で愛国テストを受けていたとき、ゼフはくだらないと思った。
くだらない、という言葉は口から出なかった。出しかけて、止まった。止めたのは恐怖じゃない、と言えば嘘になる。でも恐怖だけじゃない。
隣にルカがいた。
ルカは真剣にテストを受けていた。毎年満点を取る。満点を取ることに疑問を持っていない顔で取る。その顔を、ゼフは横目で見た。
言えなかった。
ルカに、笑っていてほしかった。
くだらない、と言ったら、ルカは笑わなくなるかもしれない。この世界がくだらないとわかったら、テストを満点で取る意味もなくなる。何かが崩れる。崩れたら、ルカは笑わなくなる。
だから言わなかった。
これは自己満足だ、とゼフは知っていた。
ルカを守っていたんじゃない。ルカが笑っているところを見ていたかっただけだ。
革命組織の存在を先に知っていて、ルカに言わなかったのも同じ理由だ。ルカが笑っていてほしかった。笑っていられる時間を、もう少しだけ続けさせたかった。
でも父が連れていかれた夜、ゼフはルカの腕を押さえた。
羽交い締めにした。
ルカが怒鳴っても、泣いても、押さえ続けた。
飛び出したら捕まる。捕まったらルカが消える。消えたら、ゼフは誰かが笑っているところを見られなくなる。
これは保護じゃない、とゼフは思う。
ただの自己保存だ。
でも、と続きがある。
でも、ルカが革命に入ると言ったとき、ゼフはついていくことにした。
自己保存のためだけなら、距離を置くべきだ。ついていけばリスクが増える。
それでもついていく。
それはたぶん、自己保存じゃない。
名前をまだ知らない何かだ。
ゼフはそれに名前をつけることを、今はまだしていない。いつかルカに言えるかどうかも、わからない。
ただ、隣にいる。
それだけのことを、今は続けている。
── 第10章 了 ──
第11章「実働部隊、初登場」
作戦は電波塔の分岐施設への情報収集だった。
ルカ、ゼフ、ミラの三人で動いた。ノアから得た施設配置をもとに、裏口から入る予定だった。
予定は、正面口で崩れた。
白い霧が出た。
どこから来たかわからなかった。路地の天井から、白い靄がゆっくり降りてきた。においがある。甘いような、痺れるような。ミラが先に気づいて口を塞いだ。ルカとゼフも倣った。でも遅かった。足が重い。視界が揺れる。
「逃げろ」
ルカが言った。
三人が走り出したところで、前を塞がれた。
白いドレス。薄いラベンダー色のドレスに白い手袋。プラチナブロンドの長い髪が、背中でリボンにまとめてある。その上に、長い白い兎耳が二本。先端だけピンク。尻尾はふわふわした白いポンポン。
女はルカたちを見て、小さく首を傾げた。
「まあ、随分早く来たのね」
「誰だ」
「エレノアよ。覚えなくていい、次に会う機会があるかどうかわからないから」
兎耳が微かに動いた。退屈しているときの動き方だ、とルカには何となくわかった。
「毒霧の中に長くいると眠くなるわ。逃げるなら早い方がいいわよ」
「お前が仕掛けた毒霧だろ」
「そう。だから逃げなさいと言ってる」
意味がわからなかった。
「この情報、あなたたちが欲しいものじゃないでしょ。ここには何もない。フェイクよ」
「フェイク」
「政府が仕掛けた罠。革命組織をおびき出すための偽の施設情報。あなたたちが乗ってきた」
ルカはエレノアを見た。
政府の人間がなぜそれを教える。
エレノアは手袋の皺を直した。無駄な動作だ。手袋に皺なんてない。
「雑魚を追う趣味はないの。あと、罠にかかったまま眠らせると後で処理が面倒になる。生きて帰って、組織にフィードバックしなさい。次は気をつけること」
「待て」
「待たない」
エレノアはもう振り返らなかった。路地の奥に歩いていった。白いポンポン尻尾が揺れた。ドレスの裾が石畳を滑った。
三人で走った。ルカは走りながら考えた。
政府の人間が、罠を教えた。
理由がわからない。でも生きて帰れたのは事実だ。
次の角で止まって、後ろを確認した。追ってくる気配はない。
「生かしておく理由がある、ってことだ」とゼフが言った。
「あっちにとって都合がいい理由が」とミラが言った。俯いたまま。「私たちにとって都合がいい理由とは限らない」
ルカは路地の出口を見た。
兎耳が揺れていた。退屈していた。
それだけが、どうしても気になった。
帰り道の途中で、もう一人に会った。
会った、というより、通り過ぎた。
路地の反対側から来る人影がいた。メイド服。水色の長い髪。紫色の瞳。透明な紫色の角が二本、頭から生えている。水龍の角だ、とルカにはわかった。教科書で見た。竜人の一種。
すれ違った。
目が合った。
穏やかな顔をしていた。笑ってもいないが、険しくもない。ただ穏やかな顔。
それだけだった。
すれ違って、女は路地の奥に消えた。
ルカは何かが引っかかった。
穏やかな顔、というのは知っている。でもあの顔の穏やかさは、何かが違った。何かが抜けていた。
言葉にならないまま、ルカは歩き続けた。
── 第11章 了 ──
第12章「帰ってきた男」
拠点の扉を叩いたのは、雨の夜だった。
ゼフが先に扉を開けた。外に立っていたのは、六十代の男だった。濡れた作業服。手に何も持っていない。顔が、疲労と何か別のものでできていた。
「ルカの父親の同僚だ」と男は言った。「ガルツという」
ルカは立ち上がった。
ガルツは椅子に座って、お茶を一口飲んだ。それから話し始めた。急がなかった。急ぐ人間ではないらしかった。
「第七施設に入れられた。六年前のことを覚えていたから。あそこの人間は、記憶を消しても効果がなかった者を別に管理する。俺はそっちに入れられた」
「なぜ覚えていたんですか」とノアが聞いた。
「わからん。体質だろう」
「電波耐性体質。一定数いる」
「そういう名前があるんだな」
ガルツはお茶を飲んだ。
「脱けたのは三ヶ月前だ。施設の換気ダクトの構造を読んだ。あそこは古い建物を改装したもので、ダクトの設計が古い。換気効率が悪くて、点検通路が維持されていた。そこを使った」
「一人で」
「そうなる状況だった」
ガルツは懐から折り畳んだ紙を取り出した。広げると、細かい手書きの図面だった。施設の内部構造。部屋の配置。警備の配置。出入口と、ダクトの位置。
「記憶から書いた。正確かどうかはわからないが、大きな構造は間違っていない」
ルカは図面を見た。
「父のことを知っていますか」
「知っている」
「生きていますか」
「生きていた。俺が出る三ヶ月前の時点では」
ルカは図面を手に取った。紙の質感が、リアルだった。
「あなたの父親は、俺と同じ棟にいた時期がある。夜に独り言を言う男だった」
「独り言」
「名前を呼んでいた。ルカ、ルカ、と」
ルカは図面を持ったまま、動かなくなった。
父がそんなことをするとは思っていなかった。思っていなかった、というより、考えたことがなかった。施設の中で父がどうしているか、具体的に想像することを、どこかで避けていたのかもしれない。
ルカ、ルカ。
「なぜここに来てくれたんですか」
「することがあるから、する」とガルツは答えた。「息子を探すということが、することの一つだった。見つけたから来た。それだけだ」
英雄みたいな言い方ではなかった。被害者の代弁者みたいな言い方でもなかった。ただ、することがあるから、する。
ルカはその言葉を聞いて、なぜか少し落ち着いた。
── 第12章 了 ──
第13章「ルシェの縄張り」
結界は情報だ。
これを理解していない人間が多い。結界というのは防壁だと思っている。壁を作って、中を守るもの。でも本当は違う。
ルシェが作る結界は、情報蓄積装置だ。
範囲内に入ったもの全員の動線が記録される。声が記録される。体温が記録される。誰がいつどこを通ったか、全部残る。壁じゃなくて、目だ。
今夜も革命組織の連中が通った。
ルシェはラーヴェン東区の廃ビル屋上から、眼下の路地を見下ろしていた。
漆黒の長い髪が風で揺れる。金色の猫目は暗闇の中でよく見える。猫の目はそういうものだ。ただしルシェの耳は常に後ろに倒れている。威嚇の形。別に誰かを威嚇しているわけじゃない。ただ、そうなっている。
黒い猫耳の内側が、薄いピンクで見えた。それが嫌だった。内側が柔らかく見えるのが。だから常に後ろに倒している。
結界の記録を確認した。
革命組織のリーダー、セオ。今夜は三人を連れて西の路地を通った。足跡から体重が読める。荷物を持っていた。何かを運んでいる。
これを報告すれば、施設は壊滅する。
ルシェにはできる。情報は全部ある。上に上げればいい。
ルシェは報告書を書き始めた。
書きながら、止まった。
止まった理由は、自分でもわからなかった。
あいつらが嫌いかと言われたら、別に好きじゃない。でも潰したいかと言われたら、それも違う気がした。なぜ違うのかが、言葉にならなかった。
ルシェは報告書を書き続けた。
「革命組織の動向、変化なし。東区に定期的な人間の往来。不審者確認できず」
書いてから、しばらく見た。
虚偽報告だ。
自分でもわかっていた。
でも提出した。なぜかは、今日もわからなかった。答えを出す気もなかった。
夜、一人になると、ルシェは泣くことがある。
なぜ泣くのかも、あまりはっきりしない。
かつて信用した相手に、「黒猫族のくせに」と言われた。それがまだどこかにある。刺さっている。抜き方がわからないまま、刺さったままにしている。
だから先に傷つける。先に踏み込めば、相手が傷つける前に終わる。
それでも夜は泣く。
誰にも見せない。
ただ、泣く。
翌朝、ルシェは革命組織の拠点の位置を特定した。
結界の範囲を少し広げた。東区の古い集合住宅。二階。ゼフという人間が朝に出入りしていた。
記録した。
報告書には書かなかった。
なぜかは、今夜も答えを出さなかった。
── 第13章 了 ──
【第二幕 完】




