第一幕
新シンセシア
第一幕 洗脳された世界
第1章「普通の朝、普通の嘘」
朝のホームルームが始まる五分前、ルカは窓の外を見ていた。
空は白い。
ラーヴェンの空はいつもこうだ。雲の切れ目もなく、青でも灰でもなく、ただ白い。まるでペンキで塗りつぶされたみたいに。
「起立」
担任のリザ先生の声で全員が立つ。ルカも立つ。椅子が床を引っかく音が二十八回、ほぼ同時に鳴る。
「礼」
礼をする。
「着席」
着席する。
先生が黒板の脇に貼られた写真を指した。白い軍服に金のボタン。黒髪を綺麗になでつけた、二十代の男。笑っていない。笑わなくてもいいように訓練されたみたいな顔で、正面を向いている。
「今週も国王マサト陛下への感謝の言葉から始めましょう。起立」
全員が立つ。ルカも立つ。
声を揃えて読む。感謝の言葉。覚えてから何年になるか。五年か、六年か。最初のうちは舌が慣れなくて、隣のゼフとどっちが先に噛むか競った。今はもう誰も噛まない。言葉が体に染みついて、考える前に出てくる。
ルカはノートを開く。先生が板書を始めたら写す。それだけのことだ。
放課後、校舎の裏門からゼフと出た。
アルセリア広場を抜けるルートは遠回りだ。でもルカはなんとなく、いつもここを通る。
広場の中心に、勇者アルセリアの像がある。台座だけで三メートルあって、その上に立つ剣を掲げた人物の顔は、仰ぎすぎると首が痛い。二百年前に魔王を倒した英雄。歴史の教科書で覚えた話。像の足元に今日も花束が供えてある。枯れかけた花と、今朝来たばかりの新しい花が混ざっている。
像の台座に「魔法独立戦争 終結二百周年」と金文字で刻んである。
ルカはちらりと広場の端を見た。
石畳が途切れるあたりに、小さな道標が立っている。緑色のペンキが剥げかかった金属の板。矢印と、いくつかの文字。遠くて読めなかったけど、読める必要もない。あそこに何が書いてあるか、知っている。
「獣人街区」。
ゼフが隣で欠伸をした。
「眠い。テスト範囲広すぎだろ。感謝の言葉の制定年まで覚えろってなんだよ」
「お前、試験前になると毎回そう言うな」
「毎回そうなんだから仕方ない」
ゼフは金属のリボンみたいな飾りのついたブーツを、石畳の凸凹に引っかけながら歩く。背が高いくせに、歩き方がいつもどこか怠慢だ。でもルカは知っている。こいつの視線は、常に周囲を流れている。気づかれないように。
「ミラ」とルカは後ろを向かずに言った。「ついてくるなら声かけろよ」
少し間があってから、「別についてってない」という声がした。三メートル後ろ。
振り返ると、ミラが俯いたまま歩いていた。黒い髪が顔の半分を隠している。手にノートを抱えている。開いているかどうか、この距離ではわからない。
「じゃあ偶然同じ道を歩いてる」
「そう」
ゼフが肩をすくめた。
三人で広場を抜けた。像の影が斜めに伸びて、三人の足元を横切った。
家に帰ると父がもう夕食を作っていた。
工場の制服のまま、鍋をかき混ぜている後ろ姿。シャツの背中に、油のしみが一つある。今日できたやつか、昨日のやつかはわからない。
「おかえり」
「ただいま」
食卓に座ると、父が器を二つ持ってきた。豆と根菜を煮込んだスープ。この家の夕食は、だいたいこれだ。悪くはない。
しばらく食べていると、父がスプーンを止めた。
「最近、工場の同僚が一人、いなくなってな」
ルカは顔を上げた。
父はスープを見ていた。鍋の底を見るみたいな目で、器の中を見ていた。
「いなくなった?」
「ああ」
また少し間があった。父の口が、一度開きかけた。
そのままだった。
開きかけて、閉じた。スプーンがまた動き出した。
「……ガルツってやつで、まあ、真面目な男だったんだが」
それだけ言って、父は食べることに戻った。
ルカも食べることに戻った。
言いかけた言葉が、空気の中に残っている気がした。でもルカにはそれを拾う言葉がなかった。なんとなく、拾ってはいけない気もした。テーブルの上に、ただ夕食の音だけがある。
食後、リビングのテレビをつけていた。
父がソファで新聞を読んでいる。ルカは宿題をしている。テレビの音は背景だ。ニュースキャスターが何かを読み上げている。数字。政策。陛下のお言葉。
そのテロップが目に入った。
画面の下、白い帯に黒い文字。
『新型神経安定剤・全国民への無償配布を来月より開始 政府発表』
ルカはシャーペンを動かしながら、もう一度読んだ。
神経安定剤。
なんとなく知っている言葉だ。学校の保健の授業で出た。「現代社会のストレスから市民を守るための施策」とノートに書いた。先生の言った通りに書いた。
父が新聞をめくる音がした。
テレビはもう別のニュースを読んでいる。
ルカはシャーペンを動かし続けた。数学の問題。解くことに意味があるのか、答えが出てもわからない問題。でも解く。テストに出るから。
窓の外は暗い。
ラーヴェンの夜も、空は白くない。でも星も見えない。街灯の光が、空を均一に染めている。
どこを見ても均一だ、とルカは思った。
特に理由はなく、そう思った。
── 第1章 了 ──
第2章「亀裂の前夜」
愛国テストの問題用紙は毎年白くて薄い。
教室に配られるとき、ぱさぱさという音がする。それがルカは少し嫌いだった。理由はわからない。たぶん、音が正直すぎるからだ。薄くて、安くて、でも問題はきっちり印刷されている。用紙はうすうす知っている、自分が何のために刷られたかを。
六年前から始まった制度だ。年一回、全学年。正式名称は「国民意識統一評価」。通称、愛国テスト。
問題を眺める。
設問1。「マサト国王陛下が即位された年はいつか」。
設問2。「シンセシアの統治基本法第一条を書き写せ」。
設問3。「前政権の腐敗の根本原因を三つ挙げよ」。
ルカはシャーペンを動かす。答えは全部頭の中にある。というか全部、最初から答えが決まっている。答えを知っているかどうかのテストじゃなくて、答えを言えるかどうかのテストだ。
満点を取る。毎年取る。
だから今年も取るだろう。
隣を見た。ゼフが問題用紙を見つめていた。シャーペンが止まっている。
表情に何かが浮かびかけた。
口が少し動いた。
「くだらね」と言いかけた。ルカには見えた。唇が、その形に動いた。
でも音は出なかった。
ゼフはシャーペンを持ち直して、設問1の欄に文字を書き始めた。筆圧が少し強い。紙の裏に溝が残るくらいの強さで、答えを書いた。
ルカは自分の用紙に視線を戻した。
設問4。「市民として陛下への感謝を表現する方法を述べよ」。
ルカは書いた。模範解答を。そらで書けるくらい、繰り返し書いてきた文章を。
ペン先が紙を走る音が、教室中からした。二十八本の同じ音。
その夜、首都ラーヴェン中央軍管区の第三会議室に、七人の将校が集まった。
カリアは壁際に立っていた。
会議室の照明は白すぎる。こういう部屋の光は、人の顔から影を消す。全員の顔が平らになって、何を考えているかわかりにくくなる。それが目的だとカリアは思っていた。
テーブルの中央にマサトが立っている。
地図が広げられていた。大判の、シンセシアと隣国の境界線が描かれた地図。カラーではない。濃い灰色の線で国境が引かれ、主要都市に印がついている。
「隣国侵攻計画、フェーズ2への移行を決定した」
マサトの声は低い。怒鳴らない。怒鳴る必要がない声だ。部屋の空気が少し変わったのを、カリアは感じた。
将校たちが地図を見ている。
カリアも地図を見た。
ルーヴェンとの国境から三十キロ先。印がついた都市の一つ。小さな印だ。主要都市ではない。でもカリアの目はそこに止まった。
一秒だけ、止まった。
その都市の名前を、カリアは声に出して読まなかった。読む必要はない。どんな文字で書かれていても、見た瞬間に読める。体が覚えているから。
子供の頃に覚えた道の形が、体の中にある。どこで焚き火の煙が流れてくるか。井戸がどこにあるか。市場の曜日。
地図の上のその都市には、カリアの生まれた場所がある。
一秒だけ、止まった。
それだけだ。
カリアは視線を地図の全体に戻した。マサトが続けて話している。タイムライン。兵站。作戦コード。
カリアは聞いた。全部聞いた。全部頭に入れた。
一秒のことは、地図の上に置いてきた。
── 第2章 了 ──
第3章「消えた夜」
深夜二時十七分、玄関のドアを叩く音でルカは目が覚めた。
最初は夢の中の音だと思った。でも二度目の音は硬くて、均一で、夢の中のものじゃない音だった。官用車の扉が閉まる音と、複数の足音が続いた。
起き上がると、父の部屋の光が廊下の隙間から漏れていた。
父の声。低く、押さえた声。それから別の声が二つ。抑揚がない。事務的な声。
ルカは廊下に出た。
玄関に、政府の制服を着た男が二人いた。ロゴが胸にある。「公安局」の文字。父がその前に立っていた。パジャマのままで。靴下を履いていない。
「行かないといけないんですか」と父が言った。
「任意同行をお願いしています」と男の一人が言った。
任意。
でも玄関の外にもう一人いた。ドアの隙間から見えた。腕を組んで立っている。任意同行に三人は来ない、とルカは思った。数学的な事実として。
「父さん」
ルカが声を出すと、父が振り返った。
その目を、ルカはずっと覚えているだろうと思った。後になって、何度でも思い出すことになるやつだと、その瞬間にわかった。
怖い、というのではなかった。謝っている、というのとも違う。もっとずっと静かな目だった。言葉をぜんぶ飲み込んで、それでも何かを伝えようとしている、あの目。
ルカは玄関に走った。
背中から両腕を抱えられた。
ゼフだった。
いつ来たのかわからない。でも気づいたら、ゼフがそこにいた。ルカの両腕を後ろから押さえて、動かさせなかった。
「放せ」
ルカは言ったかもしれない。言わなかったかもしれない。声が出たかどうかもわからない。とにかく体を動かそうとした。ゼフが動かさなかった。
父が連れていかれた。
玄関のドアが閉まった。
閉まる音がした。
官用車が動き始める音がした。エンジン音が遠くなって、消えた。
ルカはゼフの腕の中でしばらく立っていた。ゼフは何も言わなかった。腕を放さなかった。それだけだった。
テレビがついていた。
たぶん父がつけたまま寝ていたのだろう。深夜のニュース番組が流れていた。
アナウンサーが原稿を読んでいる。
「本日未明、政府公安局は市内各所で反政府活動家の一斉検挙を実施しました。国家治安維持法に基づく措置であり、拘束された市民は同法第七条による取調べを受けることとなります。政府広報によると——」
ルカはソファに座っていた。
テレビを見ていた。
見ていた。
今まで何百回とテレビを見てきた。ニュースを見てきた。こういう報道も、たぶん前にも流れていた。でも今日初めて、ルカはテレビを「見た」。
画面の中のアナウンサーは笑っていない。読んでいる。原稿を読んでいる。「活動家の検挙」。言葉が選ばれている。「連行」ではなく「任意同行」。「拘束」ではなく「取調べ」。
ルカは言葉を聞いた。言葉の選ばれ方を聞いた。
ゼフが隣に座っていた。
二人ともしばらく何も言わなかった。テレビの音だけが部屋にあった。
「なんで来てたんだ」とルカはいつか言った。
「眠れなくて」とゼフは答えた。
それだけだった。
テレビは別のニュースに移っていた。新型の公共交通の導入計画。首都の利便性向上に向けた取り組み。アナウンサーはさっきと同じ声で読んでいた。
── 第3章 了 ──
第4章「ミラの地図」
三日が経った。
父からの連絡はない。どこに行けば情報が得られるかも、ルカにはわからない。公安局に問い合わせる、という選択肢は頭に浮かんだが、浮かんだまま動けなかった。何かが止めた。本能みたいなもの。
学校には行った。行くことにした。行かないことの方が、何かを認めることになる気がして。
ゼフは横にいた。特別なことは何もしなかった。ただいた。それで十分だった、たぶん。
四日目の放課後、ミラに呼ばれた。
「一人で来て」
ミラの声は小さい。いつも小さい。でも余計なことは言わないので、「一人で来て」と言うときは一人で来る意味がある。
ゼフに目で伝えると、ゼフは「わかった」という顔をした。顔だけで言える人間だ、こいつは。
ミラの家は学校から十五分歩いたところの集合住宅にある。古い建物で、エレベーターが時々止まる。ミラは五階に住んでいた。今日はエレベーターが動いていた。
部屋に入ると、テーブルの上に大判のノートが広げてあった。
ノートじゃない、と近づいてから気づいた。紙を何枚も繋ぎ合わせて、一枚の大きな地図にしたものだ。ラーヴェン市内の地図。手書きと印刷が混ざっていて、あちこちに赤と黒のマーカーで印がついている。
「座って」
ルカは椅子を引いて座った。
ミラはテーブルの反対側に立って、地図の一点を指さした。
「ここが第七施設。地図上の登録名は『廃工場』になってる。住所は南区リーラ通り三番。外から見ると本当にただの廃工場なんだけど、排熱が出てる。稼働してる建物の排熱」
ルカは地図を見た。南区。ラーヴェンの端の方。獣人街区に近いエリアだ。
「どうやって調べたんだ」
「二年前から調べてた」
ミラは答えた。答えながら椅子を引いて座った。俯いた顔のまま、指が地図の上を動く。
「私の母が、二年前に消えた」
ルカは黙った。
「最初は病院に行ったって聞いた。でも病院に問い合わせたら、入院記録がなかった。次に父に聞いたら、知らないって言った。父は嘘をついてた。顔に出てた」
「それで調べ始めた」
「うん。消えた人のリストを作った」
ミラがノートを一冊出した。黒い表紙。中を開くと、細かい文字でびっしりと書かれている。名前。年齢。職業。最後に目撃された場所と日付。行き先の推定。
「近所の人に聞いたり、掲示板を見たり、図書館で新聞を遡ったりした。一年かけて、六十三人分集まった。全員、ラーヴェン在住で、ある時期から突然消えてる。家族には『任意同行』か『自主的な療養』と説明されてる」
「療養」
「そう。でも六十三人中、療養から帰ってきた人間はゼロ。病院の名前も教えてもらえない。場所も」
ルカは地図を見た。南区の「廃工場」に赤いマーカーで丸がついている。その隣に黒で、人数が書いてあった。「推定収容:百人以上」。
「どこから来てる数字だ」
「排熱量の推定と、物資搬入の頻度から。入出荷の記録が公開データベースに残ってた。普通の廃工場にしては多すぎる量の食料と医療品が搬入されてる」
ルカはミラを見た。
ミラはまだ俯いていた。指が地図の上に置かれたまま、動かなくなっていた。
「なんで今、俺に見せた」
少し間があった。
「あなたのお父さんも、たぶんここにいる」
ルカは地図を見た。
「廃工場」と書かれた場所を見た。
「一緒に調べてほしい、ということじゃない。ただ、知っておいた方がいいと思って」
「一緒に調べる」
ミラが顔を上げた。
「俺が調べないわけないだろ」
ミラはまた俯いた。でも唇が少し動いた。笑ったかもしれない。笑ったとしたら、ルカがミラの笑顔を見たのは久しぶりだった。
── 第4章 了 ──
第5章「セオという男」
セオに会えるのは、週に二回だと言われた。
場所は毎回変わる。指定されるのは前日の夜、ゼフのもとに届く短いメモで。ゼフが革命組織の存在を知っていた、というのが最初の驚きだった。
「なんで」とルカは聞いた。
「知ってた」とゼフは答えた。「お前には言わなかった。お前に笑っていてほしかったから」
それ以上の説明はなかった。ルカも訊かなかった。
最初の待ち合わせ場所は、獣人街区の外れにある古い倉庫だった。
扉を二度ノックして、間を置いて一度。それが合図だと聞いていた。そうしたら内側から鍵が開いた。
中にいたのは、四十に近い男だった。
飄々としている、という言葉がこれほど似合う人間をルカは見たことがなかった。倉庫の木箱の上に腰かけて、使い込まれたコーヒーカップを持っている。革命組織のリーダーに見えない。どこかの大学の、あまり授業に出ない講師みたいに見えた。
「ルカ」と男は言った。「話は聞いてる。座って」
「あなたが」
「セオ。よろしく」
セオはカップを一口飲んで、木箱の隣を手で示した。ルカは立ったままでいることにした。
「革命組織のリーダーとは思えない雰囲気ですね」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてない」
「そういう反応が好きだ。座らないならそのままでいい。時間を無駄にしないために本題から入る」
セオはカップを置いた。表情が少し変わった。飄々としたまま変わった。
「政府は市民の思想をスキャンできる技術を、既に保有している可能性がある」
ルカは黙った。
「可能性、と言ったのは、まだ確証がないから。でも状況証拠は揃ってきている。おそらく電波系の技術だ。都市全体に照射して、市民の特定の感情や思考回路に干渉する。抵抗感を抑制し、服従感を強化する。それが六年間、ラーヴェンで行われていたとしたら」
「洗脳」
「そう呼んでもいい」
「証拠は」
「まだない。だから俺たちが動いている」
ルカは倉庫の中を見渡した。木箱。古い機材。壁に貼られた手書きの地図。
「あなたは何者ですか」
セオは少し笑った。
「それはいずれ話す」
「いずれ、というのは信用できる言葉じゃない」
「その通りだ。でも今は俺を信用する必要はない。俺の話を聞いて、お前が考えればいい。俺は答えを売ってる人間じゃない」
ルカはセオを見た。
飄々としている。でも嘘をついている顔ではない。何かを隠している顔だ。隠しているものの重さが、にじんでいる。
「父を取り返したい」
「知ってる」
「そのために何が必要か教えてほしい」
「順番がある」とセオは言った。「先に、何と戦っているかを知ることだ。敵を知らないまま動いても、また誰かが父親を失うだけになる」
ルカは黙った。
「焦る気持ちはわかる。でも答えが出ないまま動くことと、無鉄砲に動くことは違う。お前の焦りは武器になる。ただし正しく使う必要がある」
コーヒーカップが木箱の上で静かに置かれた音がした。
ルカはその音を聞きながら、椅子を引いて座った。
── 第5章 了 ──
第6章「市民たちの夜」
居酒屋「タルヴェ」は夜の九時から混む。
カウンター席に、五十代の男が一人で座っていた。工場帰りだろう、作業着の袖口が油で光っている。ビールを一杯頼んで、もう三十分飲んでいる。
隣の男が声をかけた。同じ工場の同僚らしかった。
「神経安定剤、もらいに行ったか」
「行ってない」と最初の男は言った。
「なんで。無料だぞ」
「なんか、飲む気になれなくて」
隣の男は笑った。「面倒くさいだけだろ」
「そうかもな」
最初の男はビールを飲んだ。
店の中の音が耳に入ってくる。会話。笑い声。グラスの音。テレビ。テレビに国王の映像が映っていた。どこかで演説しているやつ。音は聞こえないが、字幕が出ている。
男は字幕を読んだ。
なんかおかしくないか、と思った。
おかしい、というのが何に対してなのか、うまく言葉にならなかった。テレビの映像に対してなのか、この店に対してなのか、自分がここに一人でいることに対してなのか。
でもなんか、おかしい。
その感覚が三秒続いた。
それからビールを飲んだら、消えた。
夜の十一時、市立病院の第三病棟。
看護師のヴァルは、ナースステーションで書類を書いていた。
患者が一人、廊下を歩いている。夜間に起きてうろうろするのはよくある。ヴァルは声をかけずに様子を見た。
患者は老女だった。七十代。内科の入院患者。今朝から神経安定剤の新型を試験投与されていた。
老女は廊下の窓の前で止まった。
外を見ている。
ヴァルは立ち上がって近づいた。
「眠れないですか」
老女は振り返った。
目に力があった。
普段のこの患者の目ではなかった。薬が効いているときは、もう少しぼんやりとした目をしている。でも今は違った。何かに焦点が合っている。窓の外の夜景に。あるいは夜景の向こうの何かに。
「昔はもっと星が見えたのよ」と老女は言った。
ヴァルは窓の外を見た。街灯の光。高層ビルのライト。均一に明るい、ラーヴェンの夜。
「今でも星はありますよ。光が強いから見えにくいだけで」
「そうね」と老女は言った。「見えにくいだけ。あるのに見えない。そういうこと、多いわね」
ヴァルは返す言葉を探した。
老女はもう一度窓の外を見て、それから廊下を歩いて部屋に戻っていった。
ヴァルはその目を、しばらく考えた。
薬の効き目が弱かったのかもしれない。朝に担当医に報告した方がいいかもしれない。
でもあの目は、悪い目ではなかった。
むしろ、よく見える目だった。
夜中の一時。
ラーヴェン東区の住宅街。街灯が一本、点滅している。
二十代の女が、コンビニエンスストアの袋を持って歩いていた。残業の帰りだ。靴が少し合っていない、左足だけかかとが浮く。早く帰って靴を脱ぎたい。それだけを考えていた。
道の角を曲がったところで、立ち止まった。
電柱に、紙が貼ってある。
手書きの紙だ。プリンターじゃない。ボールペンで書かれた文字。
「六年前のことを覚えていますか」
それだけ書いてある。
女は立ち止まって、読んだ。
六年前。
六年前のこと。
何があったっけ。
考えた。考えようとした。でも何も出てこなかった。六年前というのは確かにあったはずで、自分にも六年前はあったはずなのに、何かが靄になっている。
風が吹いて、紙の端がめくれた。
女はしばらく立っていて、それから歩き出した。
コンビニの袋が手に下がっている。足が動いている。靴が左足だけ合っていない。
六年前のことが、靄の向こうにある。
でも靄があること自体は、今日初めて気づいた。
ラーヴェンの夜は均一に明るい。
どこに行っても街灯がある。暗い場所は少ない。よく整備された道路が網の目のように走っていて、自動車も深夜まで走っている。治安はいい。犯罪率は低い。国王の統治下で、この都市は豊かで安全だ。
豊かで安全な夜の街で、三人の市民が、それぞれの場所でほんの少し、立ち止まった。
理由はうまく言葉にならなかった。
でも立ち止まった。
それだけのことかもしれない。でも革命というのは、「普通だった人間」が普通でいられなくなることで始まる。
三秒の感覚。
夜一人だけ力がある目。
靄に気づいた瞬間。
それがいつか何かになるかどうか、今夜の三人には、まだわからない。
── 第6章 了 ──
【第一幕 完】




