第四話「クラウンハイブリッドと半居眠りの猫」
午前七時三十二分。
人類が出勤し、学生が通学し、社会がそれっぽく回り出す時間帯。
そして、走り屋がようやく帰宅する時間でもある。
「……ねっむ……」
銀色のRX-8を運転しながら、エイト君は欠伸を噛み殺していた。
一晩中、首都高を流し、峠を攻め、コンビニコーヒーでドーピングしながら走り続けた結果、脳みそは完全に溶解寸前。
目はショボショボ。
思考はスローモーション。
それでもアクセルだけは、無意識に踏んでいる。
「……とりあえず……駐車場……」
メゾン・ブランシェ前の、砂利敷きの月極駐車場。
いつものようにバックで入れようとして――
ガッッッッン!!!!
乾いた破裂音。
続いて、グシャァという嫌な金属音。
「……あ」
世界が止まる。
エイト君は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、白いクラウンハイブリッド。
そして、その美しくも上品なフロントバンパーに、RX-8の鼻先が、深々とキスしている。
「…………」
五秒、沈黙。
十秒、現実逃避。
「……夢、やな」
エンジンを切り、降りて、傷を確認する。
バンパー、割れ。
ライト、ひび。
塗装、ベロン。
「……あ、終わった」
その瞬間。
ガラッ!!
アパートの一階窓が勢いよく開く。
「誰やァァァァ!! 朝っぱらからァァァァ!!」
大家さん、覚醒。
続いて、隣の家の犬、吠える。
通勤中のサラリーマン、二度見。
エイト君、社会的に死亡。
「……」
数分後。
騒ぎを聞きつけたカノとシホも、寝起きのまま外へ。
「……何しとんねん……」
カノは、目の前の惨状を見て、乾いた笑いを漏らす。
「……芸術点、高いですね……」
シホは、真顔で頷いた。
「……いや、違うんだよ、二人とも」
エイト君は、震える声で弁明する。
「ちょっと、居眠りしかけて……」
「フル居眠りやろ」
「……うん」
そこへ、ゆっくりと現れたのが、クラウンの持ち主――大家の夫、大森和彦。
ゴルフウェア姿。
手にはゴミ袋。
完全なる無防備おじさん。
「……あれ?」
自分の車を見て、首を傾げる。
「……わしのクラウン、こんな顔やったっけ?」
次の瞬間。
「なぁぁぁぁぁぁにぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
絶叫。
周囲の空気が震える。
「おい!! 誰や!! わしのクラウンを整形したのは!!」
エイト君、ゆっくりと手を挙げる。
「……俺、です……」
数秒の沈黙。
そして――
「美智代ァァァァァァァ!!」
奥さんの名を呼ぶ、魂の叫び。
大家さん、降臨(本日二度目)。
「何事やァァァ!!」
現場を見て、即理解。
「……エイト」
「……はい……」
「……あんた、死ぬ準備、出来とるか?」
「……一応……」
地獄の説教、開始。
「わしらがな!! 中古で八十万で買うた!! インチアップ&ローダウン済みの!! このクラウンを!!」
「……」
「朝っぱらからァァァァ!! ぶつけるかァァァ!!」
雷鳴の如き怒声。
カノは、シホに耳打ちする。
「……これ、何時間コースや」
「……最低、二時間ですね」
「長っ……」
正座させられ、説教を受け続けるエイト君。
額から、冷や汗が滝のように流れる。
「修理代!! どうする!!」
「……分割で……」
「分割ぅ!? なめとんのか!!」
「……一括……」
「最初からそう言え!!」
カノが、ぽそっと呟く。
「……ウチら、家賃滞納したら一瞬で殺されるのに……」
「……扱いの差ですね」
シホ、冷静。
結局。
修理費:二十三万。
エイト君、無事、死亡。
「……俺、今月、もやし生活確定……」
「おめでとう、ウチと同じステージや」
「嬉しくねぇ……」
その日の夜。
203号室。
カノ、シホ、エイト君の三人は、床に座り、ストロングゼロ一本を回し飲みしていた。
「……人生、ほんまにクソやな」
「……はい」
「……でもさ」
エイト君は、天井を見上げる。
「俺、走るの、やめないから」
「知っとる」
「……次は、もうちょい静かにしろや」
「努力はする」
「努力て」
三人、微妙に笑う。
このボロアパートには、今日も破壊と絶望と、ほんの少しの連帯感が転がっていた。
そして、クラウンハイブリッドのフロントバンパーは、静かに修理工場行きを待っている。




