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第九話 刃

音が消えた。

正確には、消えたように感じただけだ。

風も、夜虫の声も、遠くの車道のざわめきも、まだそこにある。

だが、加賀練斗の世界からは、一切が切り落とされていた。

視界の中心にいるのは、ただ一人。

瑞穂。

水色の振袖は裂け、袴の裾は汚れ、

薄い金の髪は乱れ、九本の尾は一本一本が意思を失ったように垂れている。

それでも、立っている。

立たされている、と言ったほうが近い。

加賀の軍刀は、すでに間合いの中にあった。

八相の構えが、完全に“攻め”に転じる。

腰が沈み、背筋が伸び、刃先が一点を捉える。

そこは、心臓だ。

人でも、妖でも。

そこを貫かれれば、終わる。

瑞穂は、それを理解していた。

理解してしまった。

「……や、めるのじゃ」

声は小さい。

のじゃ語は残っているが、そこにあったはずの尊大さは、どこにもない。

加賀は、聞いていない。

聞こえていないのではない。

聞くという行為自体が、もう切り捨てられている。

踏み込み。

地面を蹴る音が、やけに大きく響いた。

刃が、一直線に突き出される。

避けられない。

術は間に合わない。

尾も、腕も、反応が遅れている。

瑞穂の瞳孔が、極限まで縮む。

次の瞬間。

軍刀は、瑞穂の身体を貫いた。

――いや。

貫きかけた。

肉を割り、骨の感触に届く、その手前。

刃は、止まった。

確かに刺さっている。

血は出ている。

だが、致命点には、届いていない。

加賀の腕が、震えていた。

止めたのは、理性ではない。

正義でも、情けでもない。

ただ、

これ以上進めば、もう戻れない

という事実だけが、身体を縛った。

刃が、微かに揺れる。

瑞穂は、自分が生きていることに気づき、

次に、殺されかけたことを理解し、

最後に、殺されなかった理由が分からず、混乱する。

「……なぜ、止めるのじゃ……」

声が、掠れる。

加賀の呼吸が荒い。

肩が上下し、喉が鳴る。

視線は、瑞穂を見ていない。

もっと遠く。

もっと過去を。

壊れたセリカ。

走った夜。

ハンドルを握った感触。

エンジン音。

それらが、一瞬、脳裏をよぎる。

そして、消える。

刃が、引き抜かれた。

ずるり、と嫌な音を立てて、軍刀が瑞穂の身体から離れる。

血が遅れて溢れ、瑞穂の脚が崩れる。

膝をつき、手を地につき、必死に呼吸をする。

生きている。

だが、死の縁に触れた感覚が、身体に張り付いて離れない。

夜は、まだ終わっていなかった。

キャンパスの空気は冷えきり、

砕けたアスファルトの隙間から、微かに土の匂いが立ち上っている。

術の残滓が消えきらず、空間そのものが、どこか歪んでいた。

瑞穂は、膝をついていた。

呼吸はできている。

心臓も動いている。

視界も、意識も、はっきりしている。

それでも、身体の奥が、ひどく空虚だった。

胸を押さえる。

そこにあるはずの“重み”がない。

天と繋がる感覚。

九尾として生きるための、当たり前の圧。

位を背負うという、あの息苦しさ。

――ない。

「……?」

声が、喉から零れた。

九本の尾が、背後で揺れる。

だが、その動きは鈍く、遅い。

意思を持った肢ではなく、ただの重たい毛束のようだった。

「……おい……?」

瑞穂は、自分の尾を一本、視界に入れる。

金色だった毛並みは、まだそこにある。

触れれば、感触もある。

だが、

力が、通っていない。

妖として世界を押す感覚が、完全に失われている。

恐怖が、遅れて湧いた。

「……な、なんじゃ……

 妾の……力は……」

答えたのは、静かな声だった。

「――断った」

狭霧が、数歩先に立っている。

その姿は、いつもと変わらない。

銀の髪。一本の尾。

だが、その立ち姿は、今まで以上に、どこか遠い。

瑞穂は、狭霧を見る。

「……狭霧…貴様…

 何を……したのじゃ……」

言葉は、まだ残っている。

舌の癖も、語尾も、人格も、消えていない。

だからこそ、異常がはっきりと分かる。

奪われたのは、人格ではない。

「天界との接続を、断った」

狭霧の声は、淡々としている。

裁定を告げる声だった。

「汝は、禁を犯した。

 人の理に踏み込み、

 その上で、裁く側に立った」

瑞穂は、首を振る。

「妾は……命じられただけじゃ……

 任を……」

「それでもだ」

狭霧は、言葉を重ねる。

「汝は、人の側を“見た”

 そして、人を“恐れた”」

瑞穂の喉が、詰まる。

否定しようとして、できなかった。

あの刃。

八相に立つ人間。

殺意だけで構成された、剣の理。

あれを、確かに、恐れた。

「……妾は……九尾じゃ……

 天に属する……」

「もはや、属さぬ」

その一言が、決定だった。

狭霧が、ゆっくりと手を上げる。

術式が展開されるが、光はない。

音もない。

ただ、**“繋がっていたものが切れる感覚”**だけが、空間を走る。

瑞穂の背後で、何かが崩れ落ちる。

見えない階段が、消えていく。

積み上げられてきた段階が、順に失われていく。

位。

階梯。

名。

天界に登録されていた“瑞穂”という存在が、

静かに、抹消されていく。

「……っ……!」

瑞穂は、地面に手をつく。

身体が重い。

世界が、やけに近い。

今まで、常に“上”から見ていたものが、

一気に、足元まで落ちてきた。

「……封じ……では……ないのか……」

震える声で、問う。

「封じではない」

狭霧は答える。

「汝の妖としてのすべては、

 もう“無い”」

「消したのだ」

瑞穂は、笑おうとする。

だが、口角が上がらない。

「……妾は……

 生きて……おるぞ……」

「肉体も、意識も、残している」

「だが、それだけだ」

理解できない。

理解できないからこそ、

胸の奥に、黒い何かが溜まっていく。

「……なぜ……

 なぜ、そこまで……」

視線が、ふと、加賀に向く。

壊れたセリカの前に立つ男。

軍刀を握り、しかしもう振るわない人間。

瑞穂は、初めて、真正面から彼を見る。

恐怖でもない。

憎悪でもない。

ただ、理解不能なものを見る目。

そして、言う。

「妾には……理解できぬのじゃ

その鉄の箱が、

貴様をそこまで狂わせた理由が」

加賀は、何も答えない。

答えられないのではない。

答える必要がない。

沈黙が、答えだった。

狭霧は、瑞穂の肩に、そっと手を置く。

支えるためではない。

追い払うためでもない。

ただ、告げるためだ。

「汝は、もう天に帰れぬ」

「人として生きよ、とも言わぬ」

「ただ、この世界に残るがよい」

瑞穂は、ゆっくりと立ち上がる。

九本の尾は、もう誇示するように広がらない。

重たく、地を引きずるだけだ。

一歩、下がる。

術で消えることもない。

光に包まれることもない。

ただ、人の足で、夜の向こうへ歩いていく。

振り返らない。

夜が、元の静けさを取り戻す。

壊れたものは、戻らない。

失われた位も、返らない。

加賀は、軍刀を鞘に納める。

狭霧は、その背中を、ただ見ている。

この夜、

九尾は死ななかった。

だが、

妖としての瑞穂は、確かにここで終わった。

そして、

その重さだけが、

人の世界に、静かに残った。


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