第八話 八相に立つ影
夜のキャンパスは、もう静寂という言葉では足りなかった。
空気が重い。地面が、どこか湿っている。
焼けた術の残滓と、砕けたアスファルトの粉塵が、肺の奥に引っかかる。
歪んだセリカが、そこにある。
フロントは潰れ、ボンネットは裂け、フレームは歪み、
それでも車体はまだ「そこに在ろう」としていた。
だが、もう走らない。
もう、応えない。
加賀練斗は、その前に立っていた。
怒りはなかった。
涙もない。
胸の奥にあるのは、空洞だ。
トランクが、半分開いている。
衝撃でロックが壊れ、中身が覗いていた。
ジャッキ。工具。使い込まれたウエス。
そして、布に包まれた、細長いもの。
手が伸びた。
意識していない。
ただ、そこに「握れるもの」があったからだ。
布を解いた瞬間、金属の冷気が掌に伝わる。
錆の匂い。油の残り香。
そして、異様な重さ。
軍刀。
曽祖父の形見。
ずっと、見ないふりをしてきたもの。
鞘から抜いた瞬間、音が変わった。
夜が、少しだけ黙った。
加賀は一歩、前に出る。
構えは考えていない。
足が自然に開き、腰が落ち、刃先が斜めに立つ。
八相。
それをそう呼ぶことすら、もう意識の外だった。
体が、勝手に「一番斬れる形」を選んでいる。
狭霧が、息を呑む。
その立ち姿は、人間のそれではない。
だが、妖のそれとも違う。
「……練斗」
名を呼ぶ声は届かない。
瑞穂は、初めて一歩、退いた。
九本の尾が、ざわりと揺れる。
揺れが遅い。
感情が、制御を追い越している。
「な、なんじゃ……あれは」
言葉は出ている。
だが、舌が微かに噛み合っていない。
瑞穂には分からない。
車が壊れる意味も、
思い出が砕ける音も、
それが人をここまで変える理由も。
ただ一つ分かるのは。
あの人間は、今。
殺しに来ている。
加賀が踏み込む。
一歩目が速い。
二歩目が、異様に低い。
術は来ない。
斬撃だけが来る。
瑞穂は反射的に術を展開する。
空気を裂く結界。
本来なら、人間の肉体など簡単に止められるはずの防御。
刃が、結界を削った。
弾く音がしない。
裂ける音がする。
「っ……!?」
瑞穂の瞳孔が、一気に縮む。
結界が完全に破られる前に、身体を捻る。
袴の裾が切れ、布片が宙を舞う。
紙一重。
加賀の刃は、止まらない。
横薙ぎ。
返し。
踏み込みながらの斬り上げ。
どれも無駄がない。
美しいというより、冷たい。
瑞穂は浮遊を使って距離を取る。
足で地面を蹴り上げ、跳ぶ。
だが、その着地を待たれていた。
加賀の足が、もうそこにある。
刀が唸る。
風を切る音が、遅れて届く。
瑞穂は腕で受けた。
術で強化したはずの前腕が、深く裂ける。
血が散る。
熱い。
痛い。
声は出ない。
だが、喉が鳴る。
「ひっ……」
音にならない恐怖が、身体を震わせる。
狭霧が動く。
術式を展開し、間に割り込む。
銀の尾が空を裂き、加賀の刃線を逸らす。
「やめよ!」
その声は、初めて感情を孕んでいた。
加賀は止まらない。
狭霧の術を、避ける。
受け流す。
斬れるところは、斬ろうとする。
敵味方の区別がない。
そこにあるのは、「斬れるかどうか」だけ。
狭霧の袖が裂け、肩口に浅い傷が走る。
「……っ」
狭霧は歯を噛みしめる。
それでも、逃げない。
瑞穂は、その光景を見ていた。
一本の尾の狐が、
九尾の妾を庇うように立ち、
人間の刃に向かっている。
意味が、分からない。
理解できないものが、
次々と目の前で起きる。
「……妾は……」
言葉が続かない。
加賀が、再び踏み込む。
八相の構えが、わずかに変わる。
より低く。
より近く。
狭霧は、刃を真正面から受け止める術を張る。
次の一瞬で、
どちらかが致命傷を負う。
瑞穂の九本の尾が、無意識に広がる。
逃げたい。
だが、逃げられない。
この場から逃げたら、
自分が何者か、分からなくなる。
夜が、息を詰める。
刃が、再び振り下ろされる。
その続きを、
まだ、誰も知らない。




