第七話 名を知らぬものへ
風が、止んでいた。
正確には、風の流れが断ち切られていた。
夜のキャンパスは不自然なほど静かで、警報音すら、
どこか遠くに隔離されたように聞こえる。
壊れたセリカの前で、加賀はようやく顔を上げた。
フロントの歪み。
ボンネットの皺。
割れたガラスに映る街灯の光。
――直せるか。
その問いが、遅れて浮かぶ。
理性の声だった。
だが次の瞬間、別の感覚が胸を締め付ける。
これは、事故ではない。
確信に近い直感。
衝突痕の角度、圧のかかり方、周囲に残る痕跡。
人為。
しかも、人のものではない。
「……」
加賀はゆっくりと振り返る。
空が、歪んでいる。
星の配置が、微妙にズレている。
雲があるはずの場所に、何もない。
代わりに、空気そのものが張り詰めている。
そこに、二つの存在があった。
一つは、知っている。
狭霧。
人の形をしているが、人ではない。
いつもの静かな佇まいはなく、霊気が衣のように揺らめいている。視線は鋭く、獣のそれに近い。
そして、もう一つ。
「……あれが」
言葉にならない。
瑞穂。
少女の姿をしている。
だが、その輪郭が不安定だ。現実に定着しきっていない。足元の影が、地面に遅れて落ちる。
瑞穂は、加賀を見ていない。
いや、見えていない。
視線は宙を漂い、空間そのものを睨んでいる。
「のう……」
瑞穂が、低く呟く。
「人の世というのは、つくづく脆いのじゃな」
声は幼い。
だが、言葉の運びは古い。
「踏みしめれば砕け、触れれば壊れる。物も、理も、命も……のう」
狭霧が一歩、前に出る。
「瑞穂。もうやめよ」
「やめる?」
瑞穂は首を傾げる。
「何を、じゃ?」
その仕草は無邪気だった。
だが、周囲の霊圧が一段、濃くなる。
「わらわは、ただ在るだけじゃ。術を放った覚えも、壊した覚えもないのう」
狭霧の目が細まる。
「在るだけで、壊れることもある」
「……それが、人の理かえ?」
瑞穂は、初めて笑った。
乾いた笑み。
理解しようとする気配のない笑み。
「物に価値を見出すなど、滑稽じゃの。あの赤い箱が壊れたからとて、何が変わる?」
その言葉が、加賀の耳に届いた。
一歩、踏み出す。
「……変わる」
声は低い。
だが、はっきりしている。
瑞穂の視線が、ようやく加賀を捉える。
「ほう?」
興味深そうに、首を傾げる。
「おぬしが、あれの持ち主か?」
「名前も知らない」
加賀は答える。
「価値も、分からないだろう」
瑞穂の目が、細くなる。
「分からぬのう。ゆえに、気にも留めぬ」
「そうだろうな」
加賀は、拳を開く。
怒りは、まだ熱を持たない。
だが、芯ができ始めている。
「でもな」
一拍、置く。
「分からないから壊していいって理屈は、こっちにはない」
空気が、軋む。
瑞穂の周囲で、霊気がざわめく。
「……人の子」
声の調子が、少し変わった。
「おぬし、面白いことを言うのじゃ」
笑みが消える。
「その理、誰から授かった?」
加賀は、答えない。
代わりに、壊れたセリカを一度だけ振り返り、
再び、瑞穂を見る。
「俺自身だ」
その瞬間。
狭霧は悟った。
――この夜は、もう退けない。
瑞穂もまた、理解し始めていた。
この人間は、ただの巻き込まれではない。
この場に立つ理由を、自分で選んでいる。




