第六話 壊れるものは、選ばれない
最初に異変を感じたのは、誰でもなかった。
夜のキャンパスに残る、物だった。
街灯が一つ、瞬いた。
それから、遅れて低い振動音が走る。
「……ん?」
誰かが顔を上げる。
だがその違和感は、説明できるほど明確ではない。地鳴りに似ているが、工事の音とも違う。遠雷にしては、近すぎる。
空気が、軋んだ。
見えない力が、押し寄せてくる。
次の瞬間。
衝撃。
爆発音ではない。
だが、衝撃波だけが遅れて到達する。
バン、と鈍い音がして、数台の車のサスペンションが同時に沈んだ。警報音が一斉に鳴り始める。
「なんだ!?」
「地震か?」
混乱が走る。
その中心に、セリカはあった。
赤いボディが、ふっと浮いたように見えた。
次の瞬間、不可視の何かが横合いから叩きつける。
――メキッ。
鈍く、嫌な音。
ボンネットが歪む。
フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れる。
エンジンルームの内部で、金属が潰れる感触が、確かに伝わる。
車体が半回転し、地面に叩き落とされる。
「……は?」
加賀は、音より先に理解した。
理解してしまった。
駆け出すことも、叫ぶこともできない。
ただ、視線が吸い寄せられる。
セリカが、そこにある。
だが、知っている形ではない。
赤は、赤のままだ。
だが、歪んでいる。
守るべきラインが、無惨に折れている。
「……セリ、カ……?」
声が、自分のものかどうか分からない。
周囲が騒ぎ出す。
誰かが携帯を取り出し、誰かが後ずさる。
だが加賀の耳には、何も届かない。
時間が、引き延ばされる。
視界の端で、光が瞬いた。
遠くで、何かがぶつかる感覚。
だが、そんなものはどうでもいい。
目の前のそれが、すべてだった。
――フラッシュバック。
初めて鍵を回したときの音。
エンジンが目覚める振動。
夜の高速道路。
回転数。
無言の対話。
「……」
加賀は一歩、前に出る。
次の一歩が、踏み出せない。
感情は、まだ来ない。
怒りも、悲しみも、叫びもない。
ただ、胸の奥に空白ができる。
大切なものが壊れた、という事実だけが、
冷たく、正確にそこにある。
その瞬間。
夜の奥から、さらに重い圧が押し寄せる。
瑞穂と狭霧の戦いが、限界を越え始めていた。
だが、加賀はそれを知らない。
知らないまま、
壊れたセリカの前に立ち尽くす。
拳が、無意識に握られる。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
それでも、顔は上がらない。
「……誰だ」
低い声。
震えはない。
問いは、誰に向けたものでもない。
だが、この夜はもう――
答えを返さずには、終わらない。
人の世と、妖の戦いが、
決定的に交差した瞬間だった。




