第五話 九と一のあいだで
最初に壊れたのは、空気だった。
音ではない。
圧でもない。
密度が、突然変わった。
瑞穂の術が展開された瞬間、周囲の夜気が一段階重く沈み込み、肺が勝手に息を吐き出す。人間がいれば、無意識に膝を折っていた。妖でなければ、立っていられない。
「……っ」
狭霧は歯を噛み、地を踏み締める。
足元の土が、わずかに沈む。
九尾の術は、派手さがない。
だが、その一つ一つが「削る」力を持っている。
瑞穂の尾が一本、空を撫でた。
それだけで、不可視の刃が走る。
狭霧の肩口が裂けた。
血は出ない。だが、霊脈が削ぎ取られ、皮膚の内側が焼けるように痛む。
「……くっ」
遅れて痛覚が追いつく。
術は、身体よりも先に“存在”を削る。
狭霧は符を投げる。
紙片ではない。霊力を圧縮し、形だけを与えた刃だ。
瑞穂は避けない。
尾が、絡め取る。
紙が燃えるような音。
いや、燃えているのは符ではなく、狭霧の術そのものだ。
「甘いのじゃ!」
瑞穂が踏み込む。
足運びは人のそれに近いが、速さが違う。距離感が狂う。
掌底。
直撃ではない。
だが、空気ごと叩き潰される。
狭霧の身体が、後方へ弾き飛ばされた。背中が樹に叩きつけられ、幹が低く軋む。
肺から息が抜ける。
「……がっ」
地に落ちる前に、狭霧は身体を捻り、着地する。だが膝が沈む。視界の端が白くなる。
瑞穂は、その様子を見てわずかに眉をひそめた。
「……耐えるのう」
言葉とは裏腹に、九本の尾が微妙にざわつく。
感情が、身体に出ている。
狭霧は立ち上がる。
肩の裂傷が、じわじわと熱を帯びている。
「瑞穂……お前は、怖れている」
その一言で、空気が張り詰めた。
「戯言を!」
瑞穂の声が、ほんのわずかに上ずる。
「妾が、何を怖れるというのじゃ!」
尾が、同時に動く。
今度は、防御ではない。
完全な殲滅。
九本分の術式が重なり、空間そのものが圧縮される。逃げ場はない。結界を張る暇もない。
狭霧は、真正面から受けた。
身体が軋む。
骨ではない。存在そのものが、悲鳴を上げる。
視界が暗転する。
耳鳴りが、遅れて来る。
それでも、狭霧は倒れなかった。
「……我は、ここに在る」
掠れた声。
だが、確かに届く。
狭霧の尾が、一本、強く地を叩く。
その瞬間、霊脈が逆流した。
瑞穂の足元が、わずかに揺らぐ。
「っ……!」
瑞穂は反射的に一歩引く。
その動きは、完全に“人のもの”だった。
「今のは……」
狭霧の術は、攻撃ではない。
繋ぎ止めるためのものだった。
「お前は、裁く側だ。だが――」
狭霧は息を整えながら、言葉を続ける。
「躊躇している」
瑞穂の唇が、きゅっと結ばれる。
痛みが、尾の付け根から走る。霊力の逆流が、確かに身体を傷つけていた。
「……黙れ」
声が低くなる。
「妾は、使命を果たす」
だが、その言葉とは裏腹に、尾の動きが一瞬、遅れた。
それを、狭霧は見逃さない。
再び符が舞う。
今度は、数ではなく精度。
瑞穂の結界に、細い亀裂が入る。
「――っ!」
瑞穂が歯を食いしばる。
痛みが、確かにある。恐怖が、身体に出る。
それでも、瑞穂は踏みとどまる。
「……一本尾の分際で……」
吐き捨てるように言いながらも、声は震えていた。
「ここまで、妾を削るとはの……」
夜は、すでに戦場だった。
九と一。
力の差は埋まらない。
だが、覚悟の差が、
確実に、この場の均衡を歪め始めていた。
そしてその歪みは、
やがて人の世へ――
無慈悲に、流れ込んでいく。




