第四話 禁を数える声
狭霧は、境界の奥に立っていた。
霧ヶ崎神社のさらに裏。人が踏み込まぬ場所。
夜気が濃く、言葉よりも気配が先に届く空間。
そこに、**“重さ”**が現れた。
足音はない。
だが、空気が押し下げられる。
九本の尾が、夜を割って現れる。
「……やはり、ここにおったかの」
声は幼く、軽い。
だが、その口調に含まれる圧は、周囲の霊脈を歪ませるほどだった。
水色の振り袖。
華やかな袴。
薄い金髪が月明かりを受け、耳と尾の毛が柔らかく揺れる。
赤紫の瞳が、狭霧を捉える。
「久しいのう、一本尾」
懐かしむような響き。
だが、距離は詰めない。
狭霧は静かに一礼した。
「……瑞穂」
名を呼んだ瞬間、九尾のうち数本がわずかに強張る。
「名を呼ぶなと、何度言わせる気じゃ」
瑞穂は口元を歪め、しかし怒りは見せない。
「もっとも……今となっては、それも数えの一つか」
狭霧は目を伏せた。
否定はしない。
「裁定が下ったのだな」
「下ったとも」
瑞穂は指を折るように、ゆっくりと言葉を重ねる。
「禁其の一。人の名を受け取ったこと」
一本、尾が揺れる。
「禁其の二。人の居場所を得たこと」
二本目。
「禁其の三。役割を引き受け、人界の理に肩入れしたこと」
三本目。
「……お主、いくつ犯せば気が済むのじゃ?」
声音はからかうようでいて、どこか硬い。
遊びの余地を、無理に削っている。
狭霧は、静かに答えた。
「すべて、承知の上だ」
「ほう?」
瑞穂の瞳孔が、わずかに細くなる。
「では聞こう。後悔は?」
「ない」
即答だった。
「人と在った時間は、我にとって価値があった」
その言葉が、瑞穂の胸をかすめる。
ほんの一瞬。だが確かに。
「……相変わらず、綺麗事が過ぎるのじゃ」
瑞穂はふっと息を吐き、肩をすくめた。
「妾はな、綺麗事が嫌いではない。じゃが――」
九本の尾が、一斉に広がる。
「裁定は、裁定じゃ」
次の瞬間、空気が裂けた。
術がぶつかる。
音は遅れて来る。
狭霧の符が舞い、瑞穂の結界がそれを弾く。
銀と金が交錯し、霊脈が震える。
「……っ!」
瑞穂の身体が、わずかに揺れる。
狭霧の一撃が、確かに通っている。
「一本尾のくせに……やりおるのう!」
声は軽口だが、呼吸が一拍だけ乱れた。
「だが、それまでじゃ」
瑞穂の術が、重く、深く落ちる。
九尾分の力が、質量を伴って叩きつけられる。
狭霧は後退する。
踏みとどまるが、距離が削られる。
力の差は、明白だった。
それでも。
「……瑞穂」
狭霧は、名を呼ぶ。
「今一度、問う。お前は、それを“正しい”と思っているのか」
瑞穂の動きが、ほんの刹那、止まる。
「……妾が思うかどうかなど、関係なかろう」
声に、微かな震えが混じる。
「正しさとは、個の感情ではない。理じゃ」
言い聞かせるような口調。
「妾は、その理に従うだけよ」
言葉と同時に、再び攻撃が放たれる。
情を挟めば、刃が鈍る。
だから瑞穂は、躊躇しない。
躊躇しないことこそが、
狭霧に向けられる――最後の情だった。
夜は、さらに深まる。
そしてこの戦いは、
まだ誰も知らない“もう一人”を、確実に巻き込んでいく。




