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第三話 何も知らない側

加賀練斗は、自分が「正しい位置」に立っているかどうかを、考えたことがなかった。

考える必要がなかった、と言った方が近い。

足を置けば、そこが自然と収まる場所になる。背筋を伸ばせば、無理なく重心が落ちる。視線の高さも、距離感も、いちいち意識しなくても決まった。

それが普通だと思っていた。

「おい加賀、聞いてんのか」

誰かの声が耳に入る。

加賀は一瞬だけそちらに顔を向け、すぐに視線を戻した。

「聞いてる」

「いや絶対聞いてなかっただろ」

「聞いてた。どうでもいい話だっただけだ」

SHBの溜まり場。

夜の大学構内。昼間は学生の波で埋まる場所も、今はまばらで、車の存在がやけに目立つ。エンジンの熱がまだ残る空気。微かに鼻を刺す排ガスの匂い。

セリカは、いつもと同じ場所にあった。

赤いボディ。

安いウィング。

夜の照明を受けて、鈍く反射する塗装。

加賀は無意識のうちに、セリカとの距離を一定に保って立っていた。近すぎず、遠すぎず。何かあれば、すぐに手が届く距離。

誰かがその間に割り込もうとすると、本人も気づかないうちに半歩ずれる。

それを指摘されたことは、一度もない。

「ほんと、お前って車以外どうでもいいよな」

笑い混じりの声。

加賀は肩をすくめる。

「車は裏切らないからな」

冗談でも皮肉でもない。

ただの事実だった。

セリカに初めて触れた日のことを、加賀ははっきり覚えている。

鍵を受け取り、ドアを開け、シートに座った瞬間。自分の体が「ここだ」と理解した感覚。

走った夜。

無意味な遠回り。

関越道の合流。

何も考えず、ただ回転数と路面だけを感じていた時間。

人よりも、物の方が誠実だと思った。

少なくとも、加賀にとっては。

「……なあ加賀」

少しトーンの落ちた声。

加賀は顔を上げる。

「なんだ」

「お前さ、刃物とか……平気だよな」

唐突な問いだった。

加賀は一瞬だけ間を置き、自分の手を見る。オイルの染みが落ちきらない指。力の入れ方を覚えている手。

「嫌いじゃない」

そう答えてから、付け足す。

「好きでもないけどな」

嘘ではなかった。

包丁でも、工具でも、刃の付いたものを持つと、不思議と落ち着く。怖れはない。扱い方を知らない、という感覚もない。

ただ、そういうものだと思っていた。

「変なやつ」

誰かが笑う。

その場はそれで終わった。

だが、加賀の胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。

――昔。

誰の声だったか。

酒の匂い。畳の感触。低い声。

「お前の曽祖父な、

日本軍で五番目に強かった剣士だったんだ」

冗談めかした口調。

本気とも冗談ともつかない話。

そのときは、鼻で笑った。

…そんな時代錯誤な話、信じる理由がなかった。

けれど今、なぜかその言葉が、妙な重さを持って蘇る。

加賀は小さく首を振り、考えを切り捨てた。

「どうした?」

「いや、なんでもない」

視線は、自然とセリカへ戻る。

ボンネットに伸ばした手が、無意識にその表面を撫でる。

冷たい。

だが、確かにそこにある。

その瞬間。

夜の空気が、ほんの一瞬だけ歪んだ。

誰も気づかない。

風も音も変わらない。

だが、加賀だけが、理由もなく背筋を伸ばした。

「……?」

胸の奥が、ざわつく。

危険の予感ではない。懐かしさとも違う。

ただ、呼ばれたような感覚。

加賀は辺りを見回す。

誰も見ていない。セリカも無事だ。

「気のせいか」

そう呟いて、彼は再び日常に戻る。

何も知らない。

何も、まだ起きていない。

だが、この夜はすでに、

人と妖の論理が、同じ地平で交差し始めていた。

加賀練斗は、その中心にいることを――

まだ、知らなかった。


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