第2話 九つの尾の分際
天は、静かであった。
雲海の上。
風も音もない場所。
そこでは感情は不要で、判断だけが価値を持つ。
瑞穂は、その場に膝をついていた。
畏まっているわけではない。
恐れているわけでもない。
ただ、そうするのが「形式」だからだ。
「――して、裁定は下ったのじゃな?」
赤紫の瞳が、正面を見据える。
普段であれば人をからかうように細められるその目は、今は一切の遊びを削ぎ落とし、まっすぐだった。
応えは、声ではなく圧で返ってくる。
否定も肯定も含まない、冷たい決定。
処理せよ。
「……やれやれ、相変わらず無粋よのう」
瑞穂は小さく肩をすくめた。
口調こそ軽いが、九本の尾がその背後でわずかに揺れる。しなやかで、美しく、そして圧倒的な存在感。一本一本が、妖としての階梯を誇示している。
「禁句を複数犯した個体……一本尾の、あやつか」
名は告げられない。
だが、分かる。
銀の毛。
萌葱の瞳。
人界に長く留まりすぎた、あの狐。
瑞穂の胸の奥で、微かな引っかかりが生じる。
それは懐かしさに似ていたが、決して情と呼べるほど温かいものではない。
「昔は……いや、よそう」
過去を語るのは無意味だ。
裁定は裁定。妖にとって、それ以上の理由は不要。
「任は、確かに受けたのじゃ。一本尾であろうが、旧知であろうが……禁を犯した以上、同じよ」
立ち上がると、和装の裾が静かに揺れる。
水色の振り袖に、深い色の袴。綺羅びやかで、どこか人形めいた姿だが、その内側に宿る力は本物だった。
次の瞬間、世界が反転する。
天の座標が崩れ、人の世の夜が流れ込む。
冷たい空気。湿った土の匂い。人の気配。
瑞穂は地に足をつけ、ふうと一息ついた。
「……相変わらず、人界は息苦しいのじゃ」
耳がぴくりと動く。
人の足音。遠くの笑い声。車の走行音。
無防備だ。
あまりにも。
「これほど脆い世界で、よくもまあ……妖と縁を結ぶ気になるものよのう」
歩きながら、瑞穂は舌打ちに近い音を鳴らす。
苛立ちではない。呆れだ。
狭霧は、ここにいる。
人の名を受け取り、人の世に溶け込み、人の理に肩入れした。
「一本尾の分際で、随分と欲張ったものじゃ」
そう言いながらも、歩調は自然と慎重になる。
油断ではない。準備だ。
戦うことになる。
それは確定事項。
「……妾も甘くなったのう」
自嘲気味に笑い、瑞穂は自分の胸に手を当てる。
かつてであれば、感情など微塵も抱かなかった。裁定は刃のように振るうものだった。
だが今は。
「躊躇など、せぬ。せぬが……」
言葉の続きを、口にしなかった。
言語化した瞬間、それは弱さになる。
九本の尾が、ゆっくりと広がる。
夜の中で、異様な影を落とす。
「狭霧」
名を呼ぶ。
それは挑発でもあり、確認でもあった。
「聞いておるじゃろう。妾が来た理由」
返事はない。
だが、気配はある。
だから瑞穂は、はっきりと言った。
「――禁を犯した妖は、消えるのじゃ」
声は幼く、口調は軽い。
だが、その言葉には揺るぎがない。
「情があろうが、過去があろうが……妾は、役目を果たすだけじゃ。」
軽い口調の奥に、冷たい覚悟が沈んでいる。
この夜は、すでに始まっていた。
九尾の刺客が、一本の尾を刈り取るために――
人界の境界へ、足を踏み入れたのだから。




