第1話 一本の尾は、人の側に落ちた
狭霧は、夜の境界に立っていた。
人の世と、そうでないものの世。そのどちらにも完全には属さない場所。霧ヶ崎神社の裏手、参道から外れた杉林の奥。昼間であればただの薄暗い林だが、夜になると空気の密度が変わる。湿り気を含んだ冷気が、肺の奥にまで沈み込み、世界の輪郭を鈍らせる。
長すぎる、と狭霧は思った。
外界に降りてから、あまりにも時間が経ちすぎている。
妖にとっての時間は、人とは違う。数十年は瞬きに等しく、百年でようやく「少し長い」と感じる程度だ。だがそれでも、この滞在は長すぎた。
背後で、尾が静かに揺れる。
一本だけの尾。
銀の毛並みは月光を受けて淡く光り、しなやかに空気を撫でる。その動きに力はあるが、誇示はない。九つも十も必要としない代わりに、一本で在り続ける選択をした尾だ。
――力不足の証。
狭霧は、それを否定しない。
一本の尾は、未熟の象徴であり、階梯の低さの証でもある。天の側から見れば、取るに足らぬ存在だろう。
だが同時に。
――人に最も近い存在である、という証でもあった。
名を呼ばれる。
「狭霧」
その呼び方は、かつてはなかった。
妖は名を持たぬ。あるいは、持っていても人には与えない。名を与えることは、縁を結ぶことに等しいからだ。
触れられる。
子どもが無邪気に手を伸ばし、社の前で頭を下げる老人が祈りの気配を投げる。大学生が肝試し気分で境内に入り込み、何も知らぬまま場の力に守られて帰っていく。
居場所がある。
それは、妖にとって最も危ういものだった。
留まる場所。帰る場所。待たれる場所。
狭霧はそれらを、すべて持ってしまった。
だが、それを「失敗」だとは思っていない。
人と関わること。人の営みを見守ること。名を受け取り、役割を引き受けること。それは、禁に触れる行為ではあるが、過ちではないと、狭霧は信じていた。
信じていた――のだ。
空が、変わった。
風が止む。
虫の音が途切れる。
月明かりが、わずかに白みを増す。
世界が、一段だけ上書きされる感覚。
狭霧は視線を上げ、夜空を仰いだ。雲はない。星もある。だが、その配置がどこか歪んで見える。人の目には分からぬだろう。だが、妖には分かる。
――来る。
天の気配だった。
裁定の気配。
均衡を是とし、逸脱を許さぬ側の気配。
狭霧の尾が、微かに緊張を孕む。一本しかない尾が、九本分の沈黙を背負うように、静かに揺れを止めた。
「……そうか」
声は低く、落ち着いていた。恐怖はない。ただ、理解があるだけだ。
自分が、裁かれる側に回ったのだと。
禁を犯した妖は、消される。
それは理であり、感情ではない。
人に寄りすぎた。
名を受け取りすぎた。
居場所を、守りすぎた。
一本の尾は、人の側に落ちた。
それだけのことだ。
狭霧はゆっくりと息を吐き、足元の地を確かめる。ここは、まだ人の世だ。完全な戦場には向かない。だが、逃げる理由もない。
逃げれば、さらに多くを壊す。
――それだけは、したくなかった。
銀の瞳が、静かに細まる。
萌葱の光を宿したその目に、覚悟が宿る。
「来るがよい」
誰に向けた言葉でもない。
天に向けた独白でもない。
ただ、決意の確認だった。
夜は、まだ深い。
だがこの夜は、長くならない。
一本の尾を持つ妖の時間は、今ここで――
確実に、動き始めていた。




