第九話 悪女の告白
第九話 悪女の告白
その夜、雨が降っていた。
庭の薔薇を叩く細い雨音が、静かな家の中に染み込むように響いている。窓硝子には水滴が流れ、縁側の向こうは淡く滲んで見えた。
玲奈は居間で、一人通帳を閉じた。
数字が並んでいる。
預金。
保険。
固定資産。
相続税対策。
以前の玲奈なら、見ているだけで安心したものだった。
数字は裏切らない。
努力も愛情も曖昧だが、数字だけは正確だ。
そう思っていた。
なのに今は違う。
ページを閉じるたび、胸の奥が重くなる。
(……もう無理)
玲奈は深く息を吐いた。
誤魔化せない。
この家で暮らすほど、自分がどれだけ汚い計算でここへ来たのか思い知らされる。
澄子は今日も、
「玲奈ちゃん、寒くない?」
「この紅茶好きそうだったから買っちゃった」
「お仕事疲れたでしょう?」
そう言って笑っていた。
何も疑わず。
何も求めず。
ただ玲奈を大事にしていた。
苦しい。
罪悪感が、もう限界だった。
「玲奈ちゃん?」
柔らかい声がした。
振り向くと、澄子が廊下に立っていた。
薄い藤色のカーディガン姿。風呂上がりなのか、少しだけ石鹸の香りがする。
「まだ起きてたの?」
「……はい」
「お仕事?」
「違います」
玲奈は通帳を見下ろした。
喉が詰まる。
言わなきゃ。
今ここで。
もう終わりにしなきゃいけない。
「お義母様」
「なぁに?」
「……少し、お話があります」
澄子は不思議そうに瞬きをしたあと、にこりと笑った。
「もちろん」
向かいに座る。
テーブルの上には、まだ湯気の残るほうじ茶。
香ばしい匂いがした。
玲奈は指先を握る。
緊張で爪が食い込む。
「……私」
声が掠れた。
「最初、この家に来た理由……違ったんです」
澄子は黙って聞いている。
急かさない。
それが逆につらい。
「私は……財産目当てでした」
言った瞬間。
雨音だけが静かに響いた。
玲奈は俯く。
終わった、と思った。
軽蔑される。
当然だ。
今まで優しくされてきたこと全部、自分は裏切っていたのだから。
「この家の土地も、預金も、相続も……全部計算してました」
声が震える。
「同居したのも、家計を握りたかったからで……お義母様に取り入れば、有利になると思って」
涙が滲む。
情けない。
こんなふうに泣くつもりじゃなかった。
「最低ですよね」
玲奈は笑おうとした。
だが上手くいかなかった。
「なのに、お義母様はずっと優しくて……」
喉が苦しい。
「私、そんなふうにされる資格ないのに」
ぽたり。
涙が落ちた。
「ごめんなさい……」
俯いたまま、玲奈は唇を噛む。
怖かった。
この沈黙のあと、澄子がどんな顔をするのか。
怒るかもしれない。
失望するかもしれない。
当然だ。
玲奈は覚悟していた。
だが。
「うん」
返ってきた声は、驚くほど穏やかだった。
「知ってたわよ?」
玲奈は固まった。
「……は?」
思わず顔を上げる。
澄子は困ったように笑っていた。
「え」
「だって玲奈ちゃん、最初からすっごく計算してる顔してたもの」
「……」
「この家の柱とか、土地とか、すごく見てたでしょう?」
玲奈の背筋が凍る。
「あと仏壇の金細工も見てた」
「見てました」
「固定資産税の紙、ちらっと見てたわよねぇ」
「……見ました」
「ふふ」
澄子が笑う。
玲奈は完全に硬直した。
全部バレていた。
最初から。
「……なんで」
玲奈は呆然と呟く。
「なんで普通にしてたんですか」
「え?」
「警戒とか、するでしょう普通」
「そうかしら?」
「だって私は」
「でもねぇ」
澄子はゆっくり玲奈の手を取った。
温かい。
昔から知っている人みたいな手だった。
「本当に悪い子はね」
玲奈は息を止める。
「あんなに一生懸命、誰かのために動けないのよ」
涙がまた滲んだ。
「朝早く起きてご飯作ったり」
「お庭泥だらけで手入れしたり」
「私が風邪気味だった時、こっそり栄養表調べてたり」
「……なんで知ってるんですか」
「見てたもの」
澄子は笑う。
「玲奈ちゃん、根がすごく真面目なのよ」
「違います……」
「違わないわ」
優しい声だった。
「打算だけの人は、あんなふうに誰かを大事にできないもの」
玲奈は唇を震わせる。
駄目だ。
もう。
勝てない。
悪意で来たはずなのに。
全部見抜かれて。
それでも愛されて。
許されて。
そんなの、どうすればいい。
「……お義母様」
声がぐしゃぐしゃだった。
「はい」
「なんで……そんなに……」
澄子は少し考えるように首を傾げた。
そして。
「家族になりたかったから、かなぁ」
その瞬間。
玲奈の中で、何かが完全に崩れた。
涙が止まらない。
澄子は慌ててティッシュを持ってくる。
「わっ、ごめんね玲奈ちゃん! 泣かせるつもりじゃ」
「お義母様のせいです……」
「えぇ!?」
「こんなの……反則じゃないですか……」
玲奈は泣きながら笑った。
外では雨が降り続いている。
だけど不思議と、胸の奥は少し温かかった。




