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第八話 冷たくしたいのにできません

第八話 冷たくしたいのにできません


 最近、玲奈は自覚していた。


 まずい。


 かなりまずい。


 朝、澄子の声が聞こえると安心してしまう。


 庭の薔薇が咲くと、先に澄子へ報告したくなる。


 スーパーで好みの紅茶を見つけると、


(お義母様好きそう)


 などと考えてしまう。


 重症だった。


 玲奈は洗面所で顔を洗いながら、小さく舌打ちする。


(水に流されるな)


 最初の目的を忘れるな。


 情に呑まれるな。


 玲奈は鏡の中の自分を睨む。


 風邪を引いた夜から、明らかにおかしくなっていた。


 澄子の優しさが、妙に胸に残る。


 思い出すだけで苦しくなる。


 だから玲奈は決めた。


 距離を取る。


 少し冷たくする。


 それくらいでちょうどいい。


 そう思っていた。


 その日の夕方までは。


「玲奈ちゃーん!」


 台所から澄子の明るい声が響く。


「今日ね、新しいカレー作ったの!」


 玲奈は嫌な予感を覚えながら居間へ向かった。


 食卓には大皿が並んでいた。


 湯気。


 スパイスの香り。


 ココナッツミルクの甘い匂い。


 鶏肉。


 じゃがいも。


 ピーナッツ。


「……なんですかこれ」


「マッサマンカレー!」


 澄子が胸を張る。


「テレビで見てねぇ、“玲奈ちゃん好きそう!”って思ったの!」


「なぜですか」


「なんとなく!」


 理由がふわっとしている。


 だが香りはかなり本格的だった。


 玲奈は少し警戒する。


 ここで美味しいと言ったら終わる。


 確実に澄子が喜ぶ。


 そしてまた距離が縮まる。


 駄目だ。


 ここは冷静に。


「はい玲奈ちゃん!」


 皿が置かれる。


 黄金色のルーから湯気が立ち上る。クローブとシナモンの香りが鼻をくすぐった。


 玲奈はスプーンを持つ。


 一口。


 ……美味しい。


 かなり美味しい。


 鶏肉は柔らかく煮込まれていて、スパイスの刺激も程よい。甘さと辛さのバランスが絶妙だった。


 だが。


 玲奈は表情を変えなかった。


「……普通ですね」


 静寂。


 健一が「えっ」という顔をした。


 澄子は目をぱちぱちさせる。


 玲奈は胸の奥が少し痛んだ。


 だがここで甘くなってはいけない。


「普通、ですか」


「はい」


「そっかぁ……」


 澄子が少ししゅんとする。


 玲奈の胃がきりっと痛んだ。


(うっ)


 罪悪感。


 だが耐える。


 ここで優しくしたら意味がない。


「もっとスパイス効いててもいいかもですね」


「なるほど!」


 突然、澄子の目が光った。


「じゃあもっと美味しくする!」


「……はい?」


「研究するわ!」


 玲奈は嫌な予感しかしなかった。


 三日後。


「玲奈ちゃん見て!」


 澄子が巨大な箱を抱えて帰宅した。


「なんですかそれ」


「圧力鍋!」


「……」


「お肉もっと柔らかくできるって!」


 目が輝いている。


「あとスパイスも追加で買ったの!」


 袋から大量の香辛料が出てくる。


 カルダモン。


 クミン。


 シナモン。


 ローリエ。


「お義母様」


「なぁに?」


「なんでそんなに本気なんですか」


「玲奈ちゃんに“美味しい”って言ってほしいから!」


 即答だった。


 玲奈は頭を抱えたくなる。


 なんでそこまで。


 普通、嫁に料理を否定されたら落ち込むだろう。


 距離を置くだろう。


 なのにこの義母は、


『改善してもっと喜ばせよう』


 になる。


 思考回路が強すぎる。


 そして翌週。


「玲奈ちゃん! 今日は試食会です!」


 帰宅した玲奈は玄関で固まった。


 食卓。


 並ぶ鍋。


 三つ。


「……何ですかこれ」


「研究成果!」


 澄子が満面の笑みを浮かべる。


「第一試作! ココナッツ強め!」


「第二試作! 辛口!」


「第三試作! 圧力鍋でお肉ほろほろ版!」


「なんで増えてるんですか」


「どれが好きか選んでほしくて!」


 地獄だった。


 しかも全部いい匂いがする。


 玲奈は椅子に座りながら軽く目眩を覚える。


「はい玲奈ちゃん!」


 次々よそわれる。


「まず一番!」


「……いただきます」


 一口。


 美味しい。


 悔しい。


「どう!?」


「……普通です」


 玲奈は頑張った。


 だが。


「じゃあ二番!」


 逃げられない。


「これ辛味増やしたの!」


「……美味」


「えっ!?」


「……くないです」


「今“美味”って言った!」


「言ってません」


 健一が吹き出した。


「玲奈わかりやす」


「黙ってください」


 三番目。


 肉が口の中で崩れた。


 完全敗北だった。


「……」


「玲奈ちゃん?」


 澄子が不安そうに覗き込む。


「ど、どうかしら」


 その顔を見た瞬間。


 玲奈は限界だった。


 なんでそんな期待した顔をする。


 なんでそんな嬉しそうなんだ。


 胸が痛い。


 罪悪感で。


「……美味しいです」


 小さく呟いた。


 一瞬。


 空気が止まる。


 そして。


「やったぁぁぁ!!」


 澄子が立ち上がった。


「健一聞いた!? 玲奈ちゃんが美味しいって!」


「聞こえてたよ」


「メモしなきゃ!」


「そこまで」


「次もっと改良する!」


「もういいです!」


 玲奈は思わず叫んだ。


 澄子がきょとんとする。


「十分ですから!」


 その声に、自分で驚く。


 十分。


 そう思ってしまった。


 これ以上優しくされたら困る。


 本当に。


 玲奈は俯く。


 スパイスの香りが湯気と一緒に立ち上っていた。


 温かい。


 苦しい。


 なのに、嫌じゃない。


 それが一番問題だった。



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