最終話 世界一幸せな悪女
最終話 世界一幸せな悪女
秋の風は、少しだけ甘い。
庭の金木犀が香る季節になると、高瀬家の朝は窓を開けるところから始まる。
玲奈はダイニングテーブルにノートパソコンを開き、淡々と数字を打ち込んでいた。
「……だから、この契約内容だと手数料率がおかしいんです」
低い声で言う。
画面の向こうでは、不動産会社の営業が冷や汗を流していた。
『い、いえ、その』
「説明できます?」
『……』
「あとこちらの修繕見積もり、相場の一・八倍ですね。どこの業者から紹介されました?」
『…………』
「ちなみに顧問弁護士にも確認済みです」
沈黙。
そして営業は、乾いた声で笑った。
『……再検討いたします』
「お願いします」
通話を切る。
玲奈は深く息を吐いた。
「終わったぁ……」
その瞬間。
「玲奈ちゃんすごぉぉい!!」
ぱちぱちぱち!!
背後から拍手。
玲奈は振り返る。
「お義母様、いつからいたんですか」
「最初から!」
澄子が満面の笑みで立っていた。
エプロン姿のまま、目をきらきらさせている。
「もうほんと頼もしいぃ! 悪い人全部追い返してくれるんだもの!」
「普通です」
「普通じゃないわよぉ!」
数年経っても変わらない。
玲奈は軽く目を閉じた。
あれから、高瀬家の資産管理はほぼ玲奈が担うようになっていた。
親戚絡みの相続相談。
怪しい投資話。
リフォーム詐欺。
保険の見直し。
全部、玲奈が片っ端から整理した。
今では親戚の間で、
『高瀬家には最強の嫁がいる』
と言われているらしい。
実際その通りだった。
以前の玲奈なら、こういう能力は“奪う側”に使っていた。
だが今は違う。
守るために使っている。
この家を。
この人を。
そして――この居場所を。
「玲奈ちゃん、お茶淹れたわよぉ」
「ありがとうございます」
「栗羊羹もある!」
「また買ったんですか」
「玲奈ちゃん好きでしょう?」
当然みたいに言う。
玲奈は苦笑した。
相変わらず甘やかしが激しい。
数年経っても、全然落ち着かない。
そのとき。
「玲奈ちゃ〜ん!!」
玄関のほうから澄子の弾んだ声が響いた。
嫌な予感がした。
数秒後。
紙袋を抱えた澄子が、勢いよく居間へ飛び込んでくる。
「見て見て見て!」
「なんですか」
「お揃いのパジャマ買ったわよ〜!」
玲奈は固まった。
「……は?」
「ふわふわ素材!」
袋から取り出されたのは、淡いクリーム色のパジャマだった。
しかも二着。
完全一致。
「なんでお揃いなんですか」
「可愛かったから!」
「理由になってません」
「ほら玲奈ちゃん絶対似合う!」
「私は三十過ぎた大人です」
「大人だってお揃いするの!」
暴論だった。
健一が新聞を読みながら笑う。
「また増えた」
「健一のはないわよ」
「なんで!?」
「玲奈ちゃん用だから」
「理不尽!」
いつもの光景だった。
玲奈は額を押さえる。
だが。
「今日着ましょうねぇ」
澄子が本当に嬉しそうに笑うので、強く拒否できない。
「……一回だけですよ」
「やったぁ!」
夜。
風呂上がり。
玲奈は脱衣所の鏡の前で立ち尽くしていた。
「……」
着てしまった。
お揃いパジャマ。
ふわふわで、やたら着心地がいい。
悔しい。
「玲奈ちゃーん!」
居間へ行くと、澄子が既に同じ格好で待機していた。
「お揃いぃ!」
「うるさいです」
「可愛いぃ!」
「騒がないでください」
だが澄子は上機嫌だった。
まるで子供みたいに嬉しそうに笑っている。
その笑顔を見ていると、玲奈はどうしても弱い。
結局。
二人並んでソファに座り、テレビを見ながらお茶を飲むことになった。
窓の外では虫の声がしている。
庭の金木犀の香りが、夜風に乗って流れてきた。
穏やかだった。
静かで。
温かい。
「玲奈ちゃん」
「なんですか」
「この前ね、静江さんが言ってたの」
「また何か言ってました?」
「“あんた最近幸せそうね”って」
「……」
「私、すごく幸せよぉ」
澄子は笑った。
その横顔には、柔らかな皺が増えている。
でもその分、表情は前よりもっと穏やかだった。
玲奈は湯呑みを見つめる。
数年前の自分なら、こんな未来は想像しなかった。
財産目当てで来た。
計算だった。
打算だった。
なのに今、自分はこの家を守りたいと思っている。
お金そのものじゃなく。
ここで笑う時間を。
この人を。
守りたいと思っている。
「玲奈ちゃん」
「はい」
「お金ってね」
澄子が静かに言った。
「誰と笑うかのためにあるのよ」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
ほんとうに。
最後まで。
この人は。
「……ほんと」
玲奈は苦笑した。
「調子狂うんですよ、お義母様」
澄子が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、玲奈も少しだけ笑った。
かつて“財産目当ての悪女”だった女は、今日も義母に甘やかされながら、この家で幸せに暮らしている。
たぶんこれからも、ずっと。




