エピローグ 世界一ずるい退職金
エピローグ 世界一ずるい退職金
十二月の空気は、少しだけ透明だ。
高瀬家の庭では、冬薔薇が静かに咲いていた。葉の縁には朝露が残り、薄い陽射しを受けてきらきら光っている。
玲奈はダイニングテーブルに資料を広げ、電卓を叩いていた。
ぱち、ぱち、と規則正しい音が静かな部屋に響く。
「……今年分、これで大丈夫ですね」
玲奈は書類を揃えながら呟いた。
年末の資産整理。
高瀬家では毎年この時期、玲奈が税金や投資の確認をしている。
預金。
配当。
固定資産。
保険。
贈与。
数字を見ると落ち着くのは、昔から変わらなかった。
だが昔と違うのは、その数字の意味だ。
以前の玲奈は、“奪うため”に数字を見ていた。
今は、“守るため”に見ている。
それが不思議で、少しだけ可笑しい。
「玲奈ちゃーん」
居間の向こうから、澄子がひょこっと顔を出した。
今日は淡いワインレッドのセーターを着ている。しかも玲奈と色違いだった。
もちろん澄子が勝手に買った。
「お茶淹れたわよぉ」
「ありがとうございます」
「あと蜜柑!」
「また箱買いしたんですか」
「冬はいっぱい食べたほうがいいもの」
相変わらずだった。
玲奈は苦笑しながら資料をまとめる。
「お義母様」
「なぁに?」
「今年の贈与分ですけど、非課税枠内で整理終わってます」
「あらぁ、ありがとう」
「年間百十万円以内なら申告不要なので」
「ほんと玲奈ちゃん頼もしいわぁ」
澄子はにこにこしている。
玲奈はパソコン画面を閉じた。
インデックス投資の一覧。
NISA。
積立状況。
全部綺麗に整理されている。
玲奈は昔から、長期積立型の投資が好きだった。
派手な勝負はしない。
堅実に増やす。
それが性格に合っている。
「はい玲奈ちゃん」
湯呑みが置かれる。
ほうじ茶の香ばしい匂いがふわっと広がった。
「ありがとうございます」
「ふふ」
澄子は玲奈の隣に座る。
そのときだった。
「そうだ、玲奈ちゃん」
「はい?」
「これ渡そうと思ってたの」
封筒が差し出された。
厚みがある。
玲奈は少し眉を寄せた。
「なんですか」
「開けてみて?」
嫌な予感がした。
玲奈は慎重に封を開く。
中に入っていたのは――証券口座の書類だった。
「……え」
玲奈は目を見開く。
名義欄。
そこには。
高瀬玲奈。
自分の名前。
「お義母様、これ」
「インデックス投資よぉ」
澄子は嬉しそうに笑った。
「玲奈ちゃん好きでしょう? 堅実なの」
「いや、待ってください」
玲奈は慌てて書類を確認する。
積立設定。
銘柄。
運用方針。
全部きっちりしている。
しかも。
「……百十万」
ぴたり。
年間贈与税非課税枠ぎりぎりだった。
玲奈は硬直する。
「お義母様」
「なぁに?」
「これ、いつから」
「毎年こっそり積み立ててたの」
「……は?」
「玲奈ちゃん名義で」
玲奈は言葉を失った。
澄子は照れたように笑う。
「これはね、玲奈ちゃんの退職金なの」
静かな声だった。
「退職金……?」
「うん」
澄子は湯呑みを包むように持ちながら続ける。
「玲奈ちゃん、ずーっと頑張ってるでしょう?」
「……」
「この家守ってくれて、私守ってくれて、色んなこと我慢して」
「我慢なんて」
「だからね、“もし将来疲れたら、これで少し楽してね”って思って」
玲奈は息を止めた。
冬の日差しが障子越しに柔らかく差し込んでいる。
金木犀の季節は終わったが、庭には冬薔薇が咲いていた。
静かな午後だった。
「……なんで」
玲奈は小さく呟く。
「なんでここまでするんですか」
「だって家族だもの」
また、それだった。
玲奈は思わず額を押さえる。
駄目だ。
本当に。
この人には勝てない。
最初、自分は何を考えていた?
財産目当て。
遺産狙い。
有利な立場。
そんな計算ばかりしていた。
なのに今。
目の前の義母は、玲奈の老後資金を心配している。
しかも税制まで完璧に考慮して。
怖い。
愛情が重すぎる。
「お義母様」
「なぁに?」
「これ、完全に囲い込みですよ」
「えへへ」
「笑って誤魔化さないでください」
「だって玲奈ちゃん、もう逃げないでしょう?」
玲奈は返事に詰まった。
逃げない。
たぶん、もう。
どこにも。
「玲奈ちゃ〜ん」
「はい」
「来年はパジャマも新調しましょうねぇ」
「またお揃いですか」
「もちろん!」
「ほんと好きですね……」
「だって可愛いんだもの」
澄子は幸せそうに笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなる。
悔しいくらいに。
玲奈は書類を胸元へ引き寄せた。
数字は、今でも好きだ。
だが。
昔みたいに冷たくは見られない。
この百十万円の意味を、玲奈は知ってしまったから。
それは単なる節税じゃない。
信頼で。
愛情で。
未来だった。
玲奈は深く息を吐き、少しだけ笑う。
「……完敗です」
「ふふっ」
「ほんと、お義母様には勝てません」
窓の外で、冬の風が薔薇を揺らしていた。
“財産目当ての悪女”は今日もまた、世界一幸せに甘やかされている。




