第五話 薔薇園と悪女の敗北
第五話 薔薇園と悪女の敗北
朝露を含んだ薔薇は、宝石みたいに光る。
玲奈は縁側から庭を眺めながら、ぼんやりそう思った。
五月の庭は色彩が濃い。深緑の葉、白いカサブランカ、薄桃色の薔薇。風が吹くたび、花の香りがゆっくり流れてくる。
綺麗だ。
綺麗すぎる。
そして――金がかかっている。
玲奈は静かに目を細めた。
庭の手入れというのは、思っている以上に維持費がかかる。肥料、薬剤、剪定、土。趣味としてはかなり金食いだ。
しかも澄子の庭は、本格的だった。
薔薇のアーチ。煉瓦の小道。イングリッシュガーデン風の植栽。
趣味の域を超えている。
(これ、手入れ大変でしょうね)
玲奈はそう思いながら湯呑みを置いた。
そのとき。
「あら玲奈ちゃん、おはよう」
庭の向こうから澄子が現れた。
麦わら帽子にエプロン姿。朝から薔薇の世話をしていたらしい。頬に少し土がついている。
「おはようございます」
「今日はいい天気ねぇ」
「そうですね」
澄子は薔薇の葉を優しく撫でた。
「この子たち、今が一番綺麗なのよ」
その横顔は本当に嬉しそうだった。
玲奈は少し考える。
ここだ。
この庭は澄子の大事なものだ。
つまり、精神的急所。
玲奈は立ち上がった。
「お義母様」
「なぁに?」
「庭の手入れ、私もやりましょうか」
澄子がぱちぱち瞬きをした。
「えっ」
「大変でしょう? 薔薇って手がかかりますし」
「でも玲奈ちゃん、虫とか平気?」
「別に」
「日焼けするわよ?」
「問題ありません」
本当は別の意味で言っていた。
庭なんて、少し剪定を間違えれば簡単に傷む。
水やりのタイミングでも変わる。
精神的ダメージを与えるにはちょうどいい。
そう思った。
思ったのだが。
「じゃあ玲奈ちゃん、この枝見て?」
「はい」
「ここ、外向きの芽の上で切るの」
「……なるほど」
「風通しが悪いと病気になるから」
「はい」
気づけば。
玲奈は真面目に説明を聞いていた。
しかも。
「お義母様、それ鋏貸してください」
「あら、わかるの?」
「この枝混みすぎです」
「まあ!」
ぱちん。
枝を切る音がする。
薔薇特有の青い匂いがふわりと立った。
玲奈は黙々と作業を始める。
やるからにはちゃんとやる。
それが玲奈の悪い癖だった。
気づけば夢中になっていた。
「玲奈ちゃんすごぉい!」
「喋らないでください。集中してます」
「職人みたい!」
「この葉、黒点病出てますね」
「あっほんとだ」
「あと土が少し固いです」
「ええっ」
「腐葉土入れたほうがいいかも」
「玲奈ちゃん園芸の才能あるんじゃない!?」
「ありません」
玲奈は額の汗を腕で拭った。
陽射しが強くなってきている。
土の匂い。
葉擦れの音。
遠くで鳴く鳥。
気づけばスカートの裾も手袋も泥だらけだった。
だが玲奈は止まらない。
やるなら完璧にやりたい。
それが経理でも庭でも同じなのだ。
「玲奈ちゃん、お茶飲む?」
「あと十分」
「偉いわぁ……」
「その枝持ってください」
「はいっ!」
完全に助手だった。
二時間後。
玲奈は薔薇の前でしゃがみ込み、深く息を吐いた。
「……終わりました」
風が吹く。
剪定された薔薇が陽光の中で軽やかに揺れた。
さっきまで混み合っていた枝が整い、空気が通っている。明らかに見栄えが良くなっていた。
澄子はしばらく黙って庭を見つめていた。
そして。
「すごい……」
ぽつりと呟く。
「玲奈ちゃん、すごいわ」
「普通です」
「普通じゃないわよぉ……!」
澄子は感動したように胸元を押さえた。
「薔薇が呼吸してるみたい!」
「大げさです」
「ううん、本当に」
澄子は嬉しそうに薔薇を見回した。
その顔を見た瞬間、玲奈は嫌な気配を感じる。
これはまずい。
また好感度が上がる流れだ。
「玲奈ちゃん!」
「なんですか」
「お昼、玲奈ちゃんの好きな海老グラタンにする!」
「なんでですか」
「頑張ってくれたご褒美!」
「子供じゃないんですから」
「じゃあデザートもつける!」
「増えてる……」
その夜。
風呂場の前に来た玲奈は、足を止めた。
「……何これ」
脱衣所に紙袋が山積みになっている。
しかも全部、高級入浴剤の店のロゴ入り。
嫌な予感しかしない。
「お義母様」
「はぁい!」
澄子が嬉しそうに現れた。
「これ、まさか」
「玲奈ちゃん用!」
「なんでこんな量」
「だって今日いっぱい働いたでしょう!?」
澄子は袋を次々開ける。
「ほらこれ薔薇の香り! あとラベンダー! こっちは温泉成分入り!」
「いや多いです」
「働いた後のお風呂は大事よ!」
「限度があります」
「あとボディクリームも買っちゃった!」
「増えてる……!」
玲奈は頭を抱えた。
本来なら。
薔薇を枯らして困らせる予定だった。
精神的ダメージを与えるつもりだった。
なのに結果はどうだ。
全力で庭を改善し、義母に感動され、高級入浴剤まで与えられている。
完全敗北だった。
「玲奈ちゃん?」
「……なんですか」
「今日はほんとにありがとうね」
澄子が柔らかく笑う。
「私、一人だとあそこまでできなかったから」
その声音は、妙に静かだった。
玲奈は返事に詰まる。
脱衣所には入浴剤の甘い香りが漂っている。薔薇、柑橘、ハーブ。紙袋を開けるたび香りが混ざった。
まるでご褒美みたいだった。
(……調子、狂う)
玲奈はそっと目を逸らす。
風呂場の向こうから、湯の満ちる音が静かに響いていた。




