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第三話 通帳と印鑑、全部渡されました

第三話 通帳と印鑑、全部渡されました


 その家には、不思議な匂いがある。


 朝は出汁と白檀。


 昼は庭土と花。


 夜は柔軟剤と、どこか古い木の匂い。


 玲奈は最近、その匂いに少しずつ慣れ始めていた。


 縁側に座り、湯呑みを口に運ぶ。ほうじ茶の香ばしさが鼻に抜けた。五月の風は柔らかく、庭のカサブランカが白く揺れている。


 平和すぎる。


 玲奈は湯呑みを置きながら、内心でため息をついた。


(このままじゃ駄目)


 同居開始から二週間。


 澄子は相変わらず玲奈を溺愛し続けていた。


「玲奈ちゃん、寒くない?」

「玲奈ちゃん、おやつ食べる?」

「玲奈ちゃん、この薔薇あなたに似合う色なの」


 朝から晩までその調子だ。


 しかも困ることに、嫌味が一切ない。


 百パーセント善意。


 悪意ゼロ。


 だからやりにくい。


 玲奈は本来、腹芸が得意なタイプだった。探り合い、牽制、遠回しな圧力。そういう空気には慣れている。


 だが澄子は違った。


 真正面から全力で愛情を投げてくる。


 それも笑顔で。


 胃が痛い。


「玲奈ちゃん?」


 澄子が廊下の向こうから顔を出した。


 淡いグリーンの割烹着姿だ。今日もやたら機嫌がいい。


「どうしたの? 難しい顔して」


「いえ、ちょっと考え事を」


「お仕事?」


「……家計のことです」


 玲奈はそこで言葉を止めた。


 そしてさりげない調子を装って続ける。


「同居するなら、生活費とか整理したほうがいいと思いまして」


「まあ!」


 澄子の顔がぱっと明るくなる。


「玲奈ちゃん、そんなことまで考えてくれてるの!?」


「普通です」


「普通じゃないわよぉ!」


 また始まった。


 玲奈は胸の内で小さくうめく。


「お義母様、お金の管理ってどうされてます?」


「んー?」


「家計簿とか、通帳とか」


「ああ、適当!」


「……はい?」


「だって面倒なんだもの」


 玲奈は固まった。


 今、資産家の奥様がとんでもないことを言わなかったか。


「適当、ですか」


「うん! 昔は頑張ってたんだけどねぇ。最近はもう、“だいたい大丈夫!”って感じ!」


 駄目だこの人。


 玲奈は頭を抱えたくなった。


 資産管理が杜撰な金持ちほど危険なものはない。詐欺、無駄遣い、親戚トラブル。狙われる要素が揃っている。


(……だからこそ、やりやすいんだけど)


 本来なら喜ぶ場面だ。


 なのに妙な不安があった。


「もし良ければ、私がお手伝いしましょうか」


 玲奈は慎重に言った。


「家計簿とか、支出管理とか。税金関係も整理できますし」


 澄子は目を丸くした。


「えっ、やってくれるの!?」


「はい」


「嬉しいぃぃ!」


 ばんっ、と澄子が玲奈の両手を握る。


 温かい。


 柔らかい。


「助かるわぁ! もう最近、通帳どこ置いたかも怪しくて!」


「それはかなり危険です」


「えへへ」


「笑い事じゃありません」


 すると澄子は、突然立ち上がった。


「待ってて!」


 ぱたぱたと廊下を走っていく。


 玲奈はその背中を見送りながら、静かに息を吐く。


(これでやっと見られる)


 預金額。


 資産。


 保険。


 名義。


 相続の流れ。


 全部把握する。


 それが目的だった。


 玲奈は元経理だ。数字を読むのは得意だった。帳簿を見れば、その家の弱点も癖もわかる。


 数分後。


「はいっ!」


 澄子が戻ってきた。


 大きな缶を抱えて。


「……何ですか、それ」


「宝箱!」


 嫌な予感がした。


 澄子はテーブルに缶を置く。


 開いた。


 玲奈は絶句した。


「…………」


 通帳。


 印鑑。


 保険証券。


 株の書類。


 不動産関係の封筒。


 全部、無造作に入っていた。


「ちょっと待ってください」


「うん?」


「これ全部ここに?」


「そう!」


「一緒に!?」


「まとめたほうがわかりやすいかなって!」


「危機管理能力!!」


 玲奈は思わず立ち上がった。


 胃が痛い。


 本格的に痛い。


「お義母様、これ泥棒入ったら終わりですよ」


「でも今まで大丈夫だったし」


「今までが奇跡なんです!」


「玲奈ちゃん怖い顔してる」


「しますよ!」


 玲奈は頭痛を堪えながら書類を確認する。


 本物だ。


 全部。


 しかも残高が想像以上だった。


(うそでしょ……)


 桁を見た瞬間、玲奈の心臓が変な音を立てた。


 かなりある。


 土地込みなら、本当に相当な資産だ。


 普通なら隠す。


 警戒する。


 嫁に全部見せたりしない。


 なのに。


「はい、これ印鑑」


 ころん、と澄子が渡してきた。


 黒水牛の印鑑。


「あと通帳も全部お願いね」


「……は?」


「玲奈ちゃんが管理してくれるなら安心だもの」


 玲奈は固まった。


 警戒が、ない。


 一ミリも。


 まるで昔から家族だったみたいに、当たり前に信じている。


「……私が持ち逃げしたらどうするんですか」


 思わず口から出た。


 澄子はきょとんとする。


「玲奈ちゃんが?」


「例えば、です」


「しないでしょう?」


 即答だった。


「……なんでそう言い切れるんですか」


「だって玲奈ちゃん真面目だもの」


「……」


「朝ご飯もちゃんと作るし、洗濯物も綺麗に畳むし、お庭の花にも“今日元気ですね”って話しかけてたし」


「見てたんですか」


「うん!」


 にこにこしている。


 玲奈は言葉を失った。


 違う。


 そうじゃない。


 私は。


 そんな善人じゃない。


 本当は、計算してここへ来たのに。


「玲奈ちゃん?」


 澄子が少し心配そうに覗き込む。


「顔色悪いわよ?」


「……胃が」


「えっ!? 大丈夫!?」


「お義母様のせいです」


「ええっ!?」


 慌てる澄子に、玲奈は深く息を吐いた。


 窓の外では風に揺れた薔薇が、陽射しを受けて淡く光っている。


 平和だ。


 平和すぎる。


 本来なら今ごろ、自分はもっと冷静に資産計算をしているはずだった。


 なのに現実はどうだ。


 通帳と一緒に信頼まで丸投げされている。


 重い。


 数字よりそっちのほうが、ずっと重かった。



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