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第二話 完璧な朝食、義母を落とすはずが

第二話 完璧な朝食、義母を落とすはずが


 玲奈が目を覚ましたのは、朝の五時前だった。


 障子越しの空はまだ薄暗く、庭木の輪郭もぼんやりしている。遠くで新聞配達のバイクの音がした。静かな家だ、と玲奈は思う。


 隣では健一が呑気に眠っていた。


「……ふぁ」


 間抜けな寝息を聞きながら、玲奈は静かに布団を抜け出す。


 足音を立てないように廊下を歩くと、木の床がかすかに軋んだ。まだ誰も起きていない。今なら台所を完全に掌握できる。


 玲奈は口元をわずかに上げた。


(まずは家事の主導権)


 同居で重要なのは、生活の中心を誰が握るかだ。


 金の流れは、日々の家事から始まる。


 冷蔵庫の中身を知る者が、家庭を制する。


 玲奈は冷蔵庫を開けた。


 整然としていた。


 野菜は新聞紙に包まれ、味噌は琺瑯容器に移されている。作り置きのお浸し。丁寧に下処理された魚。


(……ちゃんとしてる)


 少しだけ感心しつつ、玲奈はエプロンを締めた。


 まず昆布を水から火にかける。


 弱火。


 沸騰寸前で引き上げ、鰹節を入れる。


 ふわりと広がる出汁の香り。


 鼻の奥がじんわり熱くなるような、優しい匂いだった。


 玲奈は手を止めない。


 焼き鮭。


 だし巻き卵。


 ほうれん草のお浸し。


 豆腐と三つ葉の味噌汁。


 旅館みたいな朝食だ、と自分でも思う。


 だがそれでいい。


 “完璧な嫁”を演じるのが目的なのだから。


 義母に、


『この子がいないと困る』


 と思わせる。


 依存させる。


 家庭を掌握する。


 それが玲奈の計画だった。


 鮭の焼ける音がじゅうっと台所に響く。脂の匂いが立ち上る。


 そのとき。


「あら……」


 後ろから、ぽかんとした声がした。


 振り向くと、澄子が立っていた。


 淡い藤色の寝間着姿で、髪はまだ軽く乱れている。


 だが目だけはぱっちりしていた。


「れ、玲奈ちゃん……?」


「おはようございます、お義母様。勝手に台所を使ってしまってすみません」


「えっ、あっ、いえ、そんな……」


 澄子は数歩近づいてくる。


 そして味噌汁の鍋を覗き込み、目を見開いた。


「……お出汁から?」


「はい」


「昆布と鰹?」


「そうですけど」


 沈黙。


 玲奈は内心ほくそ笑む。


(よし)


 ここで圧倒する。


 料理スキルで存在感を示す。


 そう思った次の瞬間だった。


「すごぉぉぉぉい!!」


「!?」


 澄子が両手で口を押さえた。


「えっ、なにこれ、旅館!? 料亭!? 玲奈ちゃん天才!?」


「……は?」


「だって今どき朝からお出汁取る子いる!? しかも卵焼き綺麗! 見てこの巻き! プロ!?」


 ぐいぐい距離を詰めてくる。


 玲奈はわずかにのけぞった。


「いや、普通です」


「普通じゃないわよぉ!」


 澄子は感極まったように胸元を押さえる。


「どうしましょう……私……嬉しくて……」


 その声が震えていた。


 玲奈は眉をひそめる。


「お義母様?」


「だってぇ……」


 ぽろっ。


「え」


 涙が落ちた。


 玲奈の思考が止まる。


「ちょ、え、なんで泣くんですか」


「だってこんなの……こんなの、お嫁さんが作ってくれる朝ご飯じゃないものぉ……!」


「いや意味がわからないんですが」


「健一なんか食パンくわえて生きてきたのよ!?」


「母さんその言い方やめて!?」


 いつの間にか起きてきた健一が抗議する。


 だが澄子は止まらなかった。


「玲奈ちゃんすごい……偉い……可愛い……お料理上手……完璧……」


「そんな連呼しなくても」


「写真撮る!!」


「は?」


 パシャッ。


 スマホのシャッター音。


 玲奈は硬直した。


 さらに。


「待って、これ光足りない!」


「いや別に撮らなくて」


「健一どいて!」


「はいはい」


 澄子は朝食をあらゆる角度から撮影し始めた。


 味噌汁。


 焼き鮭。


 玲奈。


 なぜか玲奈。


「ちょっと待ってください、なんで私まで」


「記念だから!」


「何の」


「宝物の!」


 意味がわからない。


 玲奈が呆然としている間にも、澄子は猛烈な勢いでスマホを操作していた。


「よし、送信!」


「……何をですか」


「親戚のグループ!」


 玲奈の背筋が凍る。


「は?」


「“見て見てー! うちのお嫁さん天才なのー!”って!」


「やめてください!!」


「もう送った!」


「早い!!」


 健一が笑いを堪えて肩を震わせている。


「玲奈、顔真っ赤」


「うるさいです」


 すると澄子のスマホが震えた。


「あっ返信きた!」


「見なくていいです」


「“えっ料亭?”だって!」


「やめてください!」


「“玲奈さん素敵なお嫁さんね”だって!」


「公開処刑……!」


 玲奈は頭を抱えた。


 本来なら、ここで義母が焦るはずだったのだ。


 家事能力の高さに危機感を抱き、


『この嫁、出来すぎて怖い』


 となる予定だった。


 なのに現実はどうだ。


 義母が感涙しながら親戚に自慢している。


 意味がわからない。


 完全にペースが狂っていた。


「玲奈ちゃん」


 不意に澄子が、しみじみした声を出した。


「はい……」


「来てくれて本当に良かった」


 その声音は静かだった。


 さっきまでの大騒ぎとは違う。


 心の底から嬉しそうな声。


 朝日が障子越しに差し込み、食卓を柔らかく照らしていた。湯気の立つ味噌汁から、鰹出汁の香りが漂う。


 玲奈は一瞬だけ、返事に詰まる。


 そんなふうに言われると思っていなかった。


 利用する側だったはずなのに。


 なのに澄子は、玲奈がここにいるだけで幸せそうだった。


「……冷めますよ」


 玲奈は視線を逸らして椅子を引いた。


「食べましょう」


「うん!」


 澄子は満面の笑みで頷く。


 その顔を見た瞬間、玲奈はなぜだか少しだけ疲れた。


(……やりづらい)


 悪意には慣れている。


 打算にも慣れている。


 でも。


 こんなふうに真っ直ぐ好かれることには、どう反応していいのかわからなかった。



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