第一話 悪女、資産価値を確認する
第一話 悪女、資産価値を確認する
午後三時過ぎの住宅街は、妙に静かだった。
高級住宅地特有の、生活音を消したような静けさ。風が庭木を揺らす音と、遠くで鳴くヒヨドリの声だけが耳に届く。
玲奈は車の窓越しに、義実家を見上げた。
二階建ての日本家屋。白い漆喰の外壁に、重厚な瓦屋根。手入れの行き届いた生垣の向こうには、広い庭が見える。門柱には黒御影石で「高瀬」と刻まれていた。
築年数は古い。だが、古いだけではない。
玄関までのアプローチに敷かれた天然石。雨樋の銅金具。庭木の配置。駐車場の広さ。土地面積。
全部が「金」だった。
玲奈は心の中で素早く計算する。
(駅徒歩十二分。この立地でこの広さ。固定資産税評価額だけでも相当……建物込みなら、軽く一億は超える)
唇の端がわずかに上がった。
(当たりだわ)
隣で運転していた夫の健一が、のんびりした声を出す。
「母さん、朝からすごい張り切ってたよ。“玲奈ちゃん来るからお花買わなきゃ”とか言って」
「そうなんですか」
「うん。あ、あと客間の布団も新しくしたって」
玲奈は小さく微笑む。
「気を遣わせてしまいましたね」
その声音は柔らかい。完璧な嫁の声だった。
だが内心は別だ。
(布団? 花? そんなのどうでもいいのよ)
重要なのは、この家の資産状況。預金。土地。保険。相続割合。親戚関係。
同居は、そのための第一歩だった。
結婚して一年。子どもはいない。共働き。普通ならまだ距離感のある時期だ。
だが玲奈は、自分から同居を提案した。
『お義母様もお一人で心細いでしょうし、私たちで支えられたらって』
もちろん建前だ。
本音は違う。
近くに入り込んで、信頼を得る。家計を握る。財産の流れを把握する。そして最終的には――。
(相続で損をしないようにする)
玲奈はそういう計算が得意だった。
感情より数字。
愛情より契約。
世の中、最後にものを言うのは結局金だと、玲奈は知っている。
車が門の前で止まった。
その瞬間、玄関が勢いよく開く。
「健一ーっ! 玲奈ちゃーん!」
明るい声と共に現れたのは、義母の澄子だった。
上品なベージュのカーディガンに、真珠のピアス。年齢相応の皺はあるが、肌はつややかで、髪も綺麗に整えられている。
だが何より圧がすごかった。
笑顔の圧。
歓迎の圧。
愛情の圧。
澄子は小走りで駆け寄ってくると、車から降りた玲奈の両手をがっしり握った。
「まああ、ほんとに来てくれたのねぇ!」
「お、お義母様」
「嬉しいわぁ! どうしましょう、私、昨日全然眠れなくて!」
「え?」
「だって玲奈ちゃんと暮らせるのよ!? 夢みたい!」
近い。
距離が近い。
玲奈は反射的に半歩引こうとした。だが澄子は逃がさなかった。
ふわり、と高級な香水の匂いがする。白百合みたいな、柔らかい香り。
次の瞬間。
ぎゅうっ。
「!?」
抱き締められた。
玲奈の思考が止まる。
「玲奈ちゃん細い! ちゃんと食べてる!? 大丈夫!? ああもう可愛い!」
「えっ、あの」
「健一、この子ちゃんとご飯食べさせてた!?」
「食べてるよぉ」
「絶対足りてないわ!」
玲奈は固まった。
なんだこれ。
想定外だった。
もっとこう、あると思っていたのだ。
嫁姑の牽制。
探り合い。
上辺だけの笑顔。
そういう、面倒で冷たい空気を。
だが目の前の義母は、初対面の大型犬みたいな勢いで懐いてきている。
しかも全力で。
「さ、入って入って! お茶淹れてあるの! あっ、荷物重いでしょう!? 健一! ぼーっとしてないで持って!」
「はいはい」
玄関に入った瞬間、玲奈はわずかに目を見開いた。
広い。
磨き上げられた廊下は艶があり、障子から差し込む午後の日差しが柔らかい。どこか檜の匂いがする。床の間には季節の花が飾られていた。
(……やっぱり、いい家)
資産価値という言葉が頭に浮かぶ。
玲奈は靴を脱ぎながら、さりげなく柱や建具を見る。
無垢材。
古いが上質。
下手なリフォーム物件よりよほど価値がある。
「玲奈ちゃん?」
「……はい?」
「疲れたでしょう? 今ね、梨剥くから!」
「お気遣いなく」
「遠慮しないの! ここはもう玲奈ちゃんの家なんだから!」
澄子はにこにこしながら台所へ消えていく。
玲奈はその背中を見つめた。
警戒心がない。
驚くほど。
(……やりやすい)
本来ならそう思うべきだった。
なのに。
「はい、玲奈ちゃん麦茶。冷たいわよ」
ガラスのコップを差し出す澄子の手は、少しだけ冷えていた。
きっと急いで準備していたのだろう。
「あとね、客間じゃなくて、ちゃんと二人のお部屋作ったの。カーテンも新しくしたのよ」
「そこまでしていただかなくても」
「だって家族だもの」
その言葉が、不思議なくらい真っ直ぐ胸に入ってきた。
玲奈は麦茶を飲む。
氷がからりと鳴る。
冷たさが喉を落ちていく。
なぜか少しだけ、落ち着かなかった。
(……調子、狂う)
玲奈はそっと視線を逸らす。
庭では風に揺れた白いカサブランカが、静かに香っていた。




