リンネ・ヴェルブライトとの記憶
「父さん。家の本はもう全部読んだ。新しいの持ってない?」
その子は1歳になったばかりにも関わらず、言葉を不自由なく話すことができ、文字も並大抵の大人以上に読むことができた。
文字の少ない絵本は「早く読み終わるからつまらない」と、そっぽを向き、家にある活字ばかりの本を読み漁る、人並み外れた不思議な子。
それがヴォルター・ヴェルブライト。アニマグラム1の生物学者であるリンネ・ヴェルブライトの子どもだ。
「うーん困った。我が子ながら可愛げがない。いや、凄く可愛いのだが」
肩にかかる野放図に伸びた銀髪をくしゃっと掻き上げながら、小さな掌を広げて本を要求する息子に、リンネは困ったような笑みを浮かべる。
「父さんとしては、血を血で洗う連続殺人の謎を解くサスペンスよりも、他の同世代の子が読むような、文字と暴力が少ない優しい物語を楽しんでほしいのだけど」
「知ったこっちゃない。可愛いキャラがパンを食うだけの話よりも、犯人の動機や密室殺人の謎を追い求めるマーダーミステリーの方が断然面白い」
「僕の教育が良すぎたか……?」
「……それに、他の子なんて会ったこと無いし」
軽口でごまかそうとした矢先、愚痴のように零れたヴォルターの本音に、リンネは少しだけ悲しそうにヴォルターを見つめた。
リンネは少し考えた後、何かをひらめいたのか、ポンと手を叩いて、何かを取りに自室へ向かい、すぐさま戻ってきた。
「……今日はいつもと違った話を教えてあげよう」
「ミステリー?」
「ああ。……だけど、今日教えるのは、世界の不思議」
リンネはディスクを再生機にセットして、モニターの電源を入れてから、ヴォルターを膝の上に座らせる。
そこに映し出されたのは、青い空の下に広がる、緑の草木が生い茂る草原で、黙々と草を食べるハツデンシロコブウシの姿だった。
「生き物の話をしてあげよう。父さんが調べている、生き物という名のミステリーの」
時にのんびり食事をし、群れと共に川を渡り、メスをめぐって角を付き合い、放電を行って天敵を追い払う、生き物の日常。
リンネが書いた論文を読みながら、生き物について知っていくことが面白くなったヴォルターは、以降、本をねだることはなくなり、その代わりに研究の話をねだるようになった。
自分と同じ分野に興味を持ってくれたことが嬉しかったのか、リンネは家にいる間はずっとヴォルターに生き物についての話をした。
生物に興味を持てば、必然と外の世界に興味は湧く。
だが、ヴォルターは一人で外に出ることは禁じられていた。
リンネ曰く、外には悪い大人がいて、ある程度大きくなるまでは留守番をしていなければならないということだった。
ヴォルターは不服に思いながらも言いつけを守った。留守番のご褒美として、偶に試験稼働中の、ハツデンシロコブウシの飼育施設に連れて行ってもらえることがあったからだ。
でも、それ以上、ヴォルターは外の世界を自分で見たことはない。
いつか一人で外の世界を見て、父が調べている多くが謎に包まれた森――未開の中央の研究を一緒にしたいとは思っていた。
ある日、リンネが飼育施設に仕事へ向かったとき、研究で使っている資料を忘れていった。
バックアップがノートPCにあることは知っていた。置いて行っても支障はないわけだが、仕事場へ向かう口実を得た形だ。
仕事場まで約50㎞。走れば一時間で着く。余裕だ。
ヴォルターは資料をファイルに入れてから鞄に詰めて、しっかりと戸締りをした後に、笑顔を浮かべながら走り出した。
今日はどんな話をしてくれるのかな。牛さんに触ったりできるのかな。
跳ねる足取りで走り続けて、飼育施設との間にある、農業地区に辿り着いた。
ちょうど収穫の時期らしく、黄金の穂が生った小麦を、トラクターを使って刈り取っていく光景がみられる。
「……」
小麦畑の光景が美しかったのもあるが、思わず足を止めてしまったのは、父親以外の人間を初めて見たからだった。
もちろん、父以外の人間がいるというのは、ビデオや本の世界で知っているのだが、面と向かうのは初めてだ。
ヴォルターに気が付いた一人の男が、作業を止め、怪訝そうに眉をしかめてから、ゆっくりと歩み寄ってきた。
こういうとき、挨拶するのがマナーなんだっけ。
姿勢を正し、傍に歩み寄ろうとしたところで、
「――っ⁈」
自分の頬をかすめた大きな石に、ヴォルターは思わず息を詰まらせた。
反射で避けたが、顔を動かさなければ当たっていた。
いったい何の冗談か。男の方に振り返ると、すかさず2撃目の石が飛んでくる。
「何外歩いてんだ化け物‼ 人がいる場所に来るんじゃねえ‼」
「おい、何やってんだお前‼」
険しい顔で睨んでくる男。それを抑えようと、周囲の者が集まってきた。
わけがわからず、立ち尽くすヴォルターをよそに、周囲の者が叫ぶように怒鳴った。
「石なんか投げて怪我させてみろ! 辺り一帯あの病院みたいになっちまうだろうが!」
まるで、怪我させなければどう傷つけてもいいというような言葉に、ヴォルターは再び、脳を殴られた気分になった。
俺を庇ってくれたんじゃないの? 病院って、何?
困惑するヴォルターの顔面に、乾いた土がぶつけられた。
口に入ってしまい、ヴォルターが気持ち悪そうに唾と一緒に吐き出していると、四方八方から土の塊が飛んでくる。
「何突っ立ってんだ! さっさと消えろ! 【炎の悪魔】が‼」
「存在が迷惑なんだよ! 友達の親御さんを返せよ!」
土と共に浴びせられる罵声。
呼吸を粗くしながら、ヴォルターは顔を両手に埋めながら、必死にその場を走り去った。
外には悪い大人がいるから、留守番しなきゃいけない。
今のが悪い大人なのだろうか。
だが、彼らの言動を思い返すに、土をぶつけられた原因は自分にあるらしい。
彼らが悪い大人なのではなく、自分が悪い子どもなのか?
真っ白になった頭を、先ほどの出来事と、自分の中に渦巻く疑問が何度も埋め尽くした。
逃げるように辿り着いた父の職場で、
「……父さん。……【炎の悪魔】って、何?」
消えそうな声で、俯きながら父に尋ねた。
いつも明るいリンネが、目に見えて動揺して目を見開いてから、土に塗れたヴォルターを優しく、力強く抱きしめた。
その日リンネは早め仕事を切り上げてヴォルターを連れて帰り、家の中で、ヴォルターが生まれたときに起きた、大火災について語り出すのだった。




