ありがとう。さようなら
ヴォルターが教えてくれた通りにアルメリアは右手を空へ差し出した。
どんな小さな思い出でもいい。
零れ落ちた記憶のかけらを掬うように、空を優しく握りしめ胸に当てる。
なんでもいい、といって思い出したのは父がかなりの甘党だったということ。
研究の合間や間食には生クリームのたっぷり入ったシフォンケーキを食べていたし、食後には必ず砂糖を入れたカフェオレを飲んだ。余りに糖分を摂取するものだから、自分が食事の途中で皿やカップを取り上げることが何度もあった。
それでも、自分が作ったケーキやコーヒーを、あまりに美味しそうに食べ飲みするものだから、甘やかして何度も出してしまっていたんだけども。
——そういえば、【奇跡の燃料】の研究で家を出ていく前、自分の作ったケーキを食べたいと言っていたから作ってあげたっけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「うーん、やっぱりアルのケーキとコーヒーは最高だなあ」
セフィロト大陸出発前夜。アルメリアの作ったごちそうを平らげた後で、デザートにシフォンケーキを要求された。
医者からは控えるようには言われてるが、次いつ帰れるかは未定らしい。
要求されることは分かっていたので、あらかじめホールで用意してほいたのを、たらふく食べきって、ミルクたっぷりのコーヒーを飲みながらご満悦といった様子だった。
「あっちで糖分取りすぎないでよね。お医者さんの目がなくなるからってさ」
「あっちに美味しいお菓子があったらわからないなあ……」
「こら」
「ハハハ。冗談冗談」
目じりを釣り上げて叱ると、アルメリアの父――ハイマー・クロウリーは可笑しそうに笑ってから、優しい声になってつづけた。
「アルのケーキ以上に美味しいお菓子はないよ」
ハイマーは子煩悩な父だった。妻が早くに他界したこともあって、妻の分までアルメリアに愛情を注いでいた。
ハイマーもアルメリアと同じように、生き物の感情を読み取る力に長けていた。
アルメリアがその体質のせいで人付き合いが億劫になっていた時、ハイマーはアルメリアを励ましながら、人との向き合い方を一緒に探してあげた。最初はふさぎ込んでいたアルメリアも、ハイマーが悩みを共感してあげると次第に明るくなり始め、他人の前でも不足ないコミュニケーションをとれるようになっていた。
アルメリア根元にある明るい性格を形作ってくれたのはハイマーのおかげだ。
そんなハイマーのことがアルメリアも大好きだった。親ばか子ばかとはこのことか。
「僕がいない間も、元気に過ごすんだよ」
ハイマーがなんとなしに投げかけた言葉に、洗い物をする手が一瞬止まった。
直径30cmのシフォンケーキを平らげ、満足そうにミルクコーヒーを飲む背中に、洗い物をしながら話しかけた。
「早く帰ってきてね。一人は寂しいからさ」
少し曇った声色に、ハイマーが反応した。
楽しげな雰囲気からほんの一瞬空気が詰まり、しまった、とアルメリアが顔をひきつらせた。
だが、後悔と同時に、暫くの間会えなくなる父に胸の内を聞いてほしかったのも事実。
皿を洗う手がぎこちなくなったアルメリアに、ハイマーは何かを察したように、笑みを浮かべながらも少しだけ真剣な表情になって問いかけた。
「一人、なのかい?」
かけられた言葉に、少しだけ息を詰まらせてから「うん」と小さく返した。
「大学に入学したとき、同じ学部の生徒と仲良くしている写真見せてくれたけど」
「最初のうちはね。最近はそうでもない」
心が読める。感情の動きが分かる。
だけど、嘘はいつまでも苦手だった。取り繕った言葉はすぐに見破られる。
小さい頃は、無神経に相手の心の動きを言い当ててしまい、気味悪がられて距離を取られた。そのことを反省し、人付き合いの仕方を覚え、人を不快にさせないよう振舞うようになった。
「私と話してると距離感感じるって陰口叩かれてる」
気味悪がられることはなくなったが、心が読めてしまうが故に、相手の心を先回りした振る舞いをしてしまうことがある。
人の心の動きを見て、発言や態度を変えてしまう。他の人みたいに素直な気持ちでコミュニケーションができない。それを悟られないよう上手く振舞えればよかったのだが、どうも自分にはその才能はなかったらしい。
ハイマーも同じ能力を持っているが、人付き合いに悩んでいる様子はない。人当たりの良い父だ。むしろ動物心理学者として、人として多くの者に慕われている。
つまり、この悩みはアルメリア自身が原因だと、彼女はそう考えていた。
「心なんて読めなければ————」
思わずこぼした言葉に、慌てて言葉をひっこめた。
意図せずとはいえ、そういう体に産んだのは両親だ。口にすれば傷つける。
途中で言葉を切ったとはいえ、真意は伝わったようで、一瞬だけ悲しそうに歪んだ目元が、アルメリアの胸を締め付けた。
「……行く前に、少しだけ話をしようか」
逃げるように目を背けたアルメリアに、対面の椅子を優しく引いて座るよう促した。
少し遠慮気味に席に座ってから、ハイマーが穏やかな声色で切り出した。
「——苦労を、背負わせてしまってごめんね」
背負わせた、という言葉に胸が痛んだ。
言わせてしまった。
理解してほしかっただけで、責任を感じさせたかったわけじゃない。
暗い顔で目を伏せた私を真っすぐ見つめながら、父は「でもね」と続けた。
「自分にしかない苦労を、不幸だなんて思わないで欲しいんだ。十中八九、僕の遺伝だからね。だからこれは僕のわがままかもしれない。だけど、その人にしかない苦労なんて、誰もが何かしら持っていて、アルのそれは人よりも珍しいってだけ。特殊ではあるけど、特別じゃないんだよ」
ハイマーの言葉に、アルメリアは伏せていた顔を無意識のうちに上げていた。
言葉に感嘆したわけじゃなくて、罪悪感が混ざりながらも、自分の幸せを願うまっすぐな心を、ひしひしと感じることができたからだ。
「周りと自分は違う人間だ……。——なんて言って、線を引かないで。嫌な心も沢山感じちゃうかもしれないけど、アルにしか気づけない、キレイで優しい心に出会える日も必ず来るはずだ。……苦労は他人とを隔てる壁じゃなくて、自分だけの幸せへの目印なんだと思う。真っすぐで優しい心のアルなら超えられる。その先の幸せにたどりつけるよ」
差し出された小指に、小指を差し出して固く結んだ。
嬉しさと同時に、どうしようもない不安や寂しさが押し寄せてきた。気持ちを伝えたからこそ、父は暫く遠く離れたところに行ってしまう。
今アルメリアの国は深刻なエネルギー問題に直面している。
燃料の研究にどうして動物心理学者である父の力が必要なのかはわからなかったが、ハイマーは助けを求められれば二つ返事で引き受ける人だ。
人と関わることを苦しく思いながらも、明るく、まっすぐな心に育ったのは、ハイマーのおかげだった。
「だから、アル。約束だ」
娘の幸せを願う小さな不安、未来を信じるような大きな信頼。
不安を理解したからこそ、置いて出てしまうことへの罪悪感。
温かくも許しを請うように抱きしめられて、アルメリアもその体を強く抱きしめ返した。
誰かの悲しみに手を差し出し、誰かの喜びに足を延ばす。
暫く会えなくなるのは寂しいけれども、結局は人の為に動くハイマーのことが大好きだった。
「ありのままの君を生きて、自分にしか見えない幸せに気付いてね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「なんで……今、更……」
ゆっくりと思い出した父との思い出が、加速度的に脳内を駆け巡って、気づけば体を震わせて大粒の涙があふれ出していた。
「泣く資格なんて、ないのに……! 泣いたってもう、意味なんて……」
「資格って何」
爆発しそうになる悲しみに、自分で冷や水をかけようとするアルメリアを、ヴォルターが遮った。
「意味があるから泣くの?」
「……! っ、ああ……、あ“あ”あ“……!」
不愛想な振りをしてかけられた言葉で、完全に堰が切れてしまった
「う“あああああああああ!」
その場で膝を追って、天を仰いで大声で泣きだした。
涙で滲んだ星空に見えるのは、鮮明に思い出せる父との思い出の数々だ。
「……デカい声で泣くなよ。うるせえな」
目の前で号泣するアルメリアを見て、ヴォルターは小さく安堵の息を吐いてから、ハイマーの骨壺に向かい直り、祈りの所作を行った。
「う“あああああ、あ”あああああああああ‼」
濁った声が心を震わせた。
失った悲しみが。支えにしていた存在を失った喪失感が。堰を切ったようにあふれ出してきて。
そして、ちゃんと悲しませてくれた男の心が、思い切り泣かせてくれる優しさがあまりに温かくて。
ありがとう。今まで。
そして、さようなら。
悲しみに負けない大きな安堵に包まれながら、アルメリアは心のままに、思うままに泣き叫び続けた。
「貰えたか、心」
優しい星明りに照らされながら、アルメリアは泣きながら、小さく、力強く頷いた。
自分に寄り添ってくれる優しさが。
胸に残した父の心と、隣で冷たいふりをする暖かな心が、いつまでもいつまでも胸に残り続けた。




