第二話「なぜ彼は家族を殺したか」
面会室へ案内され、私は鉄パイプの椅子に座り、彼が来るのを待った。
しばらくして、向こう側から一人の男性が現れた。
男は姿勢を崩さず歩いてきた。癖のない黒髪、無駄のない所作。
制服姿ではないのに、身体のどこかに警察官の名残があった。
端正な顔立ちだったが、私の印象に残ったのは顔ではない。その目だった。全てが敵のような目をしていた。彼の境遇を思えば、無理もない。
『初めまして。フリー記者の永井実花と申します。』
名刺を見せる。
『この度は取材を受けていただき、ありがとうございます。
早速ですが、質問してもよろしいでしょうか。』
蕪城は答えない。
ただ、ノートから視線を外さなかった。
読んでいる。考えている。
返答の代わりに、沈黙だけが机の上へ置かれた。
『あなたは誰ですか?』
その問いかけに一瞬だけではあるが、蕪城の目が泳いだ。
『あなたが起こした事件を調べてみました。
いくつか気になる点があるんです。』
取材の際に入手した資料を何枚か見せていく。
『一番気になることは、逮捕後のあなたの言葉です。
実際に手錠をかけた刑事さんから聞きました。
逮捕当時、あなたは呆然とした表情をしていた。
そして、状況を把握すると「俺じゃない!」と必死で叫んだそうですね。』
蕪城は黙ったままだ。
『もちろん、最初は心神耗弱を狙っての証言だと思いました。
精神に何らかの問題が発覚した場合、死刑ではなく無期懲役が適用されるからです。
ですが、警察関係者たちに取材すると、どうも心神耗弱ではないようですね。』
私はこの事件の核心をノートに書く。
『解離性同一性障害だと診断されているとの情報がありました。』
蕪城は目を閉じた。図星のようだ。
『警察学校の入学直前に精神科病院へ通院していたことも分かっています。
そこで、あなたは解離性同一性障害だと診断された。
つまり、あなたの中には何人かの人格が存在するということになります。』
解離性同一性障害。
かつては多重人格障害とも呼ばれていた精神疾患だ。
一つの身体の中に、複数の人格状態が存在するとされている。
二十四人のビリー・ミリガンの話が最も有名だろう。
彼もまた、他の人格が事件を起こしたことで裁判にかけられた。
『あなたは自分が解離性同一性障害であることを認識していた。
現場検証記録によれば、事件発生時、あなたが混乱状態であることが伺えました。』
蕪城は目を開けた。そして、自分の両手を見つめている。
『記憶にないのに、家族を手にかけた感触が残り…
誇りの制服は血だらけで…
手には凶器のサバイバルナイフが握られていた。
状況があなたを犯人だと指していた。
でも、あなたは殺していない。そうですよね?』
蕪城本人に話しかけているつもりはなかった。私が待っているのは、別の誰か、だ。
『すでに弁護士の方とお話しているとは思いますが、あなた側は当然無実を主張するでしょう。
解離性同一性障害であることや心神耗弱を理由に。
ですが、あなたは有罪になる可能性が高いと思います。』
私は一つ深呼吸をした。
『不適切な言葉にはなってしまいますが、裁判は”人格”を裁きません。
行為そのものを裁くからです。法律で定まっている罪を裁くのが裁判です。
それは、警察官だったあなたでもよく分かっていることだと思います。』
蕪城はしばらく動かなかった。まるで私の言葉を、どこか遠くで反芻しているみたいに。
「俺が、有罪ね…」
蕪城は深く椅子に座り込み、足を組んだ。
その仕草に私は小さな違和感を覚えた。先程までの蕪城は、姿勢がまっすぐだった。視線の置き方も違う。
ーーまるで、別人だ。
私は直感した。
この人格こそが本事件の真犯人であり、他の人格を束ねるリーダーであることを。
「弁護士よりも優秀じゃねえか、記者さん」
蕪城ーーいや、別の誰かが、口の端をわずかに上げた。
「…で?」
足を組んだまま、こちらを見る。
「何が知りたい?」
眼差しからは強い憎悪の感情が伝わってきた。
『…あなたのお名前を聞かせてもらえませんか。』
「アキラだ」
アキラ。
私は取材ノートに名前を記録した。
「いいよ。全部話してやる」
その瞬間、私はペンを握り直した。
ようやく、取材が始まるのだ。
「俺は、守っただけだよ」
『守った、とは?』
アキラは鼻で笑った。
「そのままの意味だよ」
アキラは私を試すように見ていた。
「アンタ…家族っていうものに幻想を抱きすぎだぜ」
私は彼の言葉を視る。
「毎日だった。
怒鳴る。
殴る。
蹴る。
否定する。
出来損ないってな」
口元だけがわずかに歪む。
「こいつは、ずっと普通になろうとしていた。
警察官になれば、この地獄が終わると思っていた。
家を出れば、こいつから家族や過去を守ることができると信じていた」
短い笑みがこぼれる。
それは愉快さではなく、諦めに近かった。
「ーーー無理だったけどな」
『あなたは、いつから存在していたんですか?』
アキラは少し考えるように視線を落とした。
「覚えていない。でも、生まれたときから存在していたような気もするな」
そして、肩をすくめる。
「俺は保護人格だ。
こいつが壊れてしまわないように。
こいつが死ななくて済むように。
ーーー守るっていうのは、面倒だし、難しいんだよな」
私は次の問いを書く。
『事件の日、何があったんですか?』
アキラはすぐには答えなかった。
指先が机を二度、軽く叩く。癖なのだろう。先ほどの蕪城にはなかった動きだった。
「…記者さん」
初めて、彼の視線が真正面から私を捉えた。
「本当に聞きたいのか?」
私は頷く。
『知るために来ました。』
アキラはしばらく私を見ていた。
その目には敵意だけではない何かがあった。
探っている。私が信用していい人間かどうか。
真実を話すのにふさわしい人間かどうかを。
アキラは人間そのものを信用していない。そんな風に感じた。
やがて彼は息を吐いた。
「家は、もう限界だった」
その声は静かだった。
「俺たちが何しても変わらねえ。
謝っても、黙ってても、頑張っても!
結局、あいつらはこいつを壊す!」
私は無意識にペンを強く握っていた。
「だから俺が出たんだよ」
彼は淡々としている。
まるで昨日の出来事を説明するように。
「あいつらの顔、ひどく滑稽だったぜ。
普段おとなしい息子が突然、暴れ出したんだからな。
俺はナイフを手に取り、これまで凌佑が受けてきた傷全部、刺してやった」
その光景が頭の中に浮かんだ。
パニックになる家族。
血が噴き出す。
助けを求めようと、玄関まで必死に這いつくばるが、かなわず、果てた。
まさに惨劇そのものだった。
『あなたは蕪城さんを守るために、家族を殺したんですね。』
アキラはノートを見つめる。長い沈黙が続く。やがて彼は、静かに答えた。
「そうだ」
アキラの表情に罪悪感はなかった。
後悔とも違う。満足感が伺えるような。そんな表情をしていた。
アキラは保護人格ゆえに、蕪城凌佑を守ることさえできれば十分なのだろう。
それ以外のことなど一切の興味を持たない。そんな印象を受けた。
彼は机に肘をつく。
「俺は間違ったことをしたとは思ってねえ」
面会室の向こうで、時計だけが進んでいた。
『あなたは間違っています。』
怒りに満ちた眼差しを向けられ、一瞬だけたじろぐが、私は続けた。
『アキラさん、まだ気づいていないんですか?』
「あ?」
『裁きを受けるのは、アキラさんではなく、蕪城凌佑さんなんですよ。』
「ーーー!!」
その瞬間、勝ち誇ったような表情をしていたアキラの顔が次第に青ざめていく。
その表情を見た私は話を続けた。
『先ほども言いましたが、裁判は人格を裁きません。
行為そのものを裁きます。
あの後、意識を取り戻した蕪城凌佑さんが、身に覚えのない罪で逮捕され、
厳しい取り調べを受け、裁判を受けるところまで、アキラさんは考えましたか?』
「・・・・・・」
アキラは何も言わない。唇を噛み締めていた。
そこまで想像できなかった自分を悔いているのだろうか。
『蕪城凌佑の中に、アキラとしての人格は存在していますが、
他人からしたらただの”人格”であって、生身の人間ではありません。
裁きを受けるのは、蕪城凌佑さんだけなんです。
それは、果たして、”守った”と言えるのでしょうか?』
アキラは椅子に深く座り、顔を上に仰いだ。沈黙が続く。
彼は考えている。私が言った言葉の意味を。
自分がやったことは、決して蕪城凌佑を守ったことにはならないことを。
「記者さん」
アキラは初めて、少しだけ疲れた顔を見せた。
「記事を書くならちゃんと書けよ」
その視線は鋭かった。
「世間は解離性同一性障害を信じない人が多いだろう。
死刑から逃れるための演技だ、と厳しく糾弾する人もいるだろう。
だが、真実は一つだけだ。
俺達は、蕪城凌佑を守るために生まれた。
ーーーそれだけだ。
アンタに俺達の真実を書けるか?」
悲痛の叫びのようにも感じた。
『私は真実を知りたいだけです。
あなた達を「化け物」だと糾弾するつもりも、哀れむつもりもありません。
私は、見たものと聞いたことを書く。
それしかできませんから。』
時間になり、面会は終了した。
この取材で分かったことがたくさんある。
私はさっそく、記事を書くために駆け足気味で家へと向かった。




