第一話「誰もいなくなった家」
警察は◯月◯日未明、AB市内の住宅で一家四人の遺体を発見した。
死亡していたのは、夫、妻、長男、次男の四名で、いずれも同一の三男の警察官によって殺害されたとみられている。
容疑者は現職の警察官であり、自ら通報したことで身柄を確保された。
供述は、まだ十分には整理されていないという。
私はそんな報道を事務所兼自宅の部屋で見ていた。画面の中の文字は、淡々としていた。かなりショッキングな事件だな、と湯気の立たなくなった珈琲を、最後まで飲み干す。
半年前、私は新聞社を辞めた。
小さな事務所を借り、フリーの記者として名乗るようになった。
部屋には読みかけの資料だけが積み上がっている。
仕事はほとんどない。人脈も、確かな取材先もない。
ただ、空白だけが広がっていた。
そして今、その空白の中にこの事件が落ちてきた。
働いていた新聞社の上司からメールが届いていた。
件名は簡素だった。
「現職の警察官による殺人事件について」
本文は短かった。
【ーー久しぶりだな。どうせ大した仕事もないだろう。
優しい元上司からの依頼だ。ありがたいと思え。
件名にある通り、今かなり話題になっている事件だが、あれを独自に追ってみないか?
もちろん、こっちも動いているが、お前ならではの視点で書ける記事もあるはずだ。
興味があれば、連絡しろ。】
それだけだった。
署名も、いつもの事務的な一行だけ。
私はしばらく、その画面を見ていた。指先は動かないまま、青白い画面の中で、その件名だけが妙に浮いて見えた。
「現職の警察官による殺人事件について」
それは、報道を見るよりも、その件名はずっと重かった。
私は短く返信した。
【詳細を教えてください。】
送信ボタンを押したあとも、しばらく画面は変わらなかった。ただ、その数秒の沈黙の間に、もう引き返せないということだけははっきりと分かった。
私は早速、事件発生現場へと向かった。現場は、想像よりも静かだった。
住宅街の一角。
特別な場所ではない。どこにでもある、ありふれた家だった。
ただ、その前に張られた規制線だけが、そこが“日常ではない場所”であることを主張していた。
警察車両の赤色灯が、ゆっくりと周囲の空気を塗り替えていく。
音は聞こえないはずなのに、視界の中でそれは確かに“うるさかった”。
中に入ることはできなかった。
外から眺めるだけの取材だった。
現場の警察官は簡単な説明を繰り返した。
「通報は本人からです」
「抵抗はありませんでした」
それ以上は、言葉にならなかった。
近くにいた住民の話は、さらに曖昧だった。
「朝、ちょっと騒がしいと思って……」
「でもすぐ静かになって」
家の外観は、壊れていなかった。窓も、壁も、日常のままだった。
それなのに、その家だけが切り離されているように見えた。
私はその光景を見ながら、ひとつだけ確信していた。
ここには、まだ説明されていない何かがある。
住宅街を離れたあとも、私はしばらくあの家のことを考えていた。
規制線。
赤色灯。
静かな外壁。
どれも現実感が薄かった。
人が四人死んだ家とは思えないほど、そこには“生活”が残りすぎていた。
私は近くの公園で足を止め、ノートを開く。
ベンチに腰掛けたまま、先ほど聞いた言葉を書き起こした。
【通報は本人から】
【抵抗なし】
【近隣トラブル確認されず】
どれも簡潔で、感情が削ぎ落とされている。
まるで最初から、“理解”を諦めている文章だった。
私は再び立ち上がり、周辺の聞き込みを始めた。
最初に話を聞けたのは、現場の向かいに住む中年女性だった。
疲れ切った顔をしていた。何度も同じ話を聞かれているのだろう。
「本当に普通のご家族だったんです」
女性は繰り返すように言った。
「お父さんも真面目そうだったし、奥さんも挨拶してくれる人で……」
そこで言葉が止まる。
「でも、三男さんは少し変わっていたかもしれません」
私は視線を上げる。
『変わっていた、とは?』
女性は困ったように眉を寄せた。
「うまく言えないんですけど…感情が見えないというか」
私はその言葉をノートに書き留める。
感情が見えない。
どこかで聞いたような表現だった。
「でも、優しい人でしたよ。町内のお祭りも手伝っていましたし」
“優しい人”。
事件取材では、何度も聞く言葉だった。
そして大抵、その言葉は何の説明にもならない。
次に会った男性は、もっと露骨だった。
「警察なんて、あんなもんだろ」
煙草を咥えたまま吐き捨てる。
「表じゃ立派な顔してても、中身は分からねぇよ」
私は何も答えなかった。
ただ、その言葉も書き留める。
取材を続けるうちに、少しずつ奇妙な違和感が積み上がっていった。
誰もが“普通だった”と言う。
誰もが“異変はなかった”と言う。
それなのに、一家四人が死んだ。
夕方頃、私は警察署へ向かった。古い知人がいるからだ。新聞社時代、何度か情報を回してもらった刑事だった。
取調室の並ぶ廊下は薄暗かった。
蛍光灯の白さだけが、不自然に床へ張り付いている。
刑事は私の顔を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「もうフリーになったって聞いたぞ」
私は軽く肩をすくめる。
『おかげさまで』
「で? 今度は何を嗅ぎ回ってる」
私は単刀直入に聞いた。
『Tについて知りたいんです』
刑事の表情がわずかに変わる。
「……やめとけ。
今回の件は、そんな簡単な事件じゃない」
『それは分かっています』
「いや、お前は分かってない」
刑事は短く息を吐く。
「供述が滅茶苦茶なんだよ。昨日と言ってることが違う。記憶も飛ぶ。急に別人みたいになることもある」
私は黙って聞いていた。
「精神鑑定の話も出てる。だが、それ以上に妙なんだ」
『妙?』
刑事はしばらく迷うように沈黙したあと、小さく呟いた。
「…あいつ、自分が殺したっていう実感が薄いんだよ」
その瞬間、私は無意識にペンを止めていた。
「泣きもしない。取り乱しもしない。だが冷酷って感じでもない」
刑事は眉間を押さえる。
「まるで、“自分じゃない誰かがやったこと”を話してるみたいなんだ」
私はゆっくりノートを閉じた。
その夜。
事務所へ戻った私は、机に突っ伏すように座り込んでいた。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の振動だけが、かすかに床を揺らしている。
私は昼間のメモを読み返す。
【感情が見えない】
【普通の家族】
【記憶が飛ぶ】
【別人みたいになる】
ページの上で、言葉同士がうまく繋がらない。
だが、確かに何かがそこにある。
私はスマートフォンを手に取り、拘置所の面会申請について調べ始めた。
取材許可が下りる保証はない。拒否される可能性の方が高いだろう。
それでも、会わなければならない気がした。
私は申請フォームを開き、被告人名の欄に静かに文字を打ち込む。
“T”
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
数日後。
面会許可の通知が届いた。




