復讐のカウントダウンが始まるその前に
頬に触れる大きな手のひらは、熱を持ったように熱い。
アイビーは隣に座る男を見上げた。
「イツキ」
「アイビー」
見上げた男に名前を呼ばれてアイビーはまぶたを閉じる。
どうしてそうしたかというと、じっと見つめられていたのが恥ずかしかったからなのかもしれないし、この後の行動に期待していたからなのかもしれない。
気配が近づいてアイビーは少しだけ顔を上げて傾けた。
顔が近づく気配がしたまま時間が経っていく。
頬を預けていた大きな手のひらから力が抜けたかと思うと、どさりと太ももに重たいものが落ちてきた。
恐る恐る目を開け、上げた顔を下げる。
短く刈り上げた後ろ頭がアイビーの膝の上に倒れ込んでいた。
(え? もしかして、イツキの魂に何かあったとか?)
突如浮かんだ考えで背中に冷たい汗が流れる。
「……イツキ? 大丈夫?」
知ったばかりの名前を呼ぶ。
もちろん返事はない。
アイビーは決意してそっと顔を近づける。すやすやと規則正しい寝息が聞こえた。
「飲み過ぎただけならいいけど」
アイビーは空になったリキュールの瓶に指を滑らせた。
***
窓から明るい陽射しが入りこむ屋敷内は、午前中で掃除や洗濯を済ませるために使用人たちが忙しく動き回っている。
アイビーは、家令のモリスから「忙しいので」と押し付けられたスープポットを乗せたワゴンを扉の前にとめ、耳を澄ます。扉の向こうは静かだ。深呼吸して扉を叩く。
返事はないが、部屋の中でガタゴトと大きな音がした。
少し時間をおいてもう一度扉を叩いた。
「……はい」
今度は返事が聞こえた。
「……ベンジャミン。開けるわよ」
アイビーは一瞬どう呼ぶか迷って、ベンジャミンの名前を呼び扉を開ける。
開いた扉の向こう側には、寝巻き姿のベンジャミンが所在なさげに佇んでいた。
「ベンジャミンか……そうだよな。やっぱり……俺の夢だったんだな」
「夢? なにが?」
「申し訳ない、昨日はアイビーに迷惑をかけてしまっただろ?」
アイビーの質問に答えたベンジャミンは、頭を下げた。
「どうしたの急に?」
「いや、その、昨夜は飲みすぎてしまったようでずいぶん酔っていたみたいなんだ。それで、その……記憶がないというか……どこまでが現実でどこからが夢かわからなくなってしまったというか……いや、目が覚めたら夜会服から寝巻きに着替えているし、ソファに座っていたはずなのにベッドで寝てるし、その、ア、アイビーもいないし、たぶん夢だとは思うんだ……なんか、それにしては随分はっきりとしてて……もともと俺酔ってても記憶は残るタイプだと自認していたんだが、とはいえこの体自体はベンジャミンの物だから記憶がなくなるのもおかしくないわけで……」
ベンジャミンがいつものように頭をかきむしり、途中から独り言のように呟くのを、アイビーは横目で見ながらワゴンに置いたスープポットから深皿によそう。
料理長が作ってくれた野菜のスープはまだ温かく湯気が立っている。
昨日座ったテーブルに二人分のスープを運び席につく。
「座って食べたら? 野菜のスープなら二日酔いでも飲めるでしょ」
アイビーは、立ったまま独り言を続けているベンジャミンに座るように促した。
「あ、あぁ、そうだな」
ベンジャミンはアイビーの対面に座る。
「それで、どんな夢を見たの?」
「や、なんていうか俺に都合が良すぎる夢というか、うん。だから、アイビーに説明するような内容じゃないから気にしないでくれ。お、スープ美味そうだな」
白々しく話を逸らすベンジャミンをアイビーはじっと見つめる。
馬鹿にしたようにアイビーを見下ろす瞳はない。恥ずかしげに細める優しい瞳と視線が絡む。
「ねぇ。いい雰囲気だったのに寝てしまうのが、あなたにとって都合のいい夢なの?」
「へ? いい雰囲気って……あちっ!」
スプーンを落としたベンジャミンにアイビーは布巾を差し出す。
「あ、ありがとう。アイビー」
「どういたしまして。イツキ」
「へ? え? えぇ!」
「ふっ、ふふっ」
慌てるベンジャミン──イツキを見て、とうとうアイビーは吹き出してしまった。
「ごめんなさいね。あまりに貴方が昨日のことを夢だと信じているものだから」
「え? あ? 名前を言ったのは夢じゃない? あれ、じゃあ目が覚めたら着替えてベッドにいたのは……」
「途中で貴方が酔い潰れてしまったからマシューとモリスに頼んで着替えさせて運んでくれたのよ」
「……そ、そうか。やっぱり夢か。は、はは。マシューたちにお礼を言わないとな」
「そうね」
イツキは決まりが悪そうにしている。
「ねえ、どこまで覚えているの?」
「その、パーティーから屋敷に戻って、この部屋でリキュールを飲みながら……アイビーにベンジャミンに成り代わって後ろ盾になりたいって話して……それはその、アイビーがベンジャミンと離縁しようとしていたなんて、知らなかったもんだから、とんでもない独りよがりだったんだけどさ、それで……アイビーが慰めてくれて」
「慰め? わたしが?」
「アイビーが俺の本当の名前を覚えておいてくれるって言っただろ?」
イツキが昨夜のことを確認するかのように尋ねた。
「言ったけど、それが慰めになるの?」
「ああ。これから記憶を失っていく俺のことを憐れんでくれたんだろ?」
「別に憐れんだわけじゃ……」
アイビーは自分の気持ちを伝えたつもりだった。
「いや、アイビーは優しいから大したこと言ったつもりはないのかもしんないけどさ、慰めでも俺の名前を覚えてくれるって言われて嬉しかったよ」
伝わっていない様子の目の前の男をじっと見つめると、恥ずかしげに目を細める。
(はぐらかしてるの? 本当に伝わってないの? どちらにしろ……いつまでも、自分の気持ちをはっきり言わないと前に進まないわ)
アイビーはまどろっこしいのが苦手だ。
「昨夜の質問に答えなくちゃね」
「え?」
「いまもまだベンジャミンと離縁する気なのかって聞いたでしょ?」
「ああ」
アイビーはイツキの隣に座り直す。
隣からは、緊張してるのか姿勢を正す衣擦れに、喉を鳴らす音が聞こえた。
見上げると耳まで真っ赤にしながら、不安気な表情を隠せてない顔と目が合う。
イツキの気持ちが手に取るようにわかった。
目の前の男に「離縁する気はないから、ベンジャミンに成り代わって欲しい」と伝えれば安心はするだろう。
(でも、それじゃダメなんだわ)
アイビーはかぶりを振った。
「イツキ。昔話を……といってもそれほど昔じゃないんだけどね。わたしの話を聞いてもらえる?」
「ああ、もちろん」
イツキは何の迷いもなく頷き、アイビーは説明を続ける。
「ベンジャミンとの結婚は義父が進めたものだったの。結婚する気がなかったベンジャミンは結婚式にもいなくって、しばらくしてから顔を出したと思ったら、病気の義父の世話をわたしに押しつけて置き去りにしたの。ああ、別に世話といっても使用人たちもいたし、わたしは話し相手になったくらいなんだけど──」
アイビーは自分の置かれていた状況を、イツキの様子を確認しながら説明した。
イツキはアイビーの話にアイビー以上に腹を立て「信じられない」「許せない」と呟き、ベンジャミンから離縁を宣告する手紙が届いたことを伝えると「痛い目にあわせないと気が済まねぇ!」と叫んだ。
「だからね。ベンジャミンが期限にしていたあの日、わたしは復讐を決行しようと思ったの。ベンジャミンに離縁されて全てを失う可哀想な女になるんじゃなくて、ベンジャミンから全て奪い去る強かな女になってやるって。でも……」
アイビーはイツキの手の上に自分の手を重ねる。
「復讐のカウントダウンが始まる、その前に貴方が……イツキが現れたの」
「俺が?」
「ええ。最初は振り上げたこぶしを下ろすなんてできないって思ったのよ」
「うん」
「だから、貴方が何を言っても疑っていたの……ううん。信じようとしなかったのよ」
「そりゃ、突然ベンジャミンは死んで異世界から来たサラリーマンの魂が入れ替わったなんて言われても信じらんないさ」
イツキは話を聞いてもアイビーを責めたりしない。
アイビーは重ねた手に力をこめる。
「なのに、貴方はアンズ狩りを始めたり、ベンジャミンと違うことばかりして、認めざるを得なかったわ」
橄欖石みたいな黄緑色の瞳をじっと見つめる。
「ベンジャミンに復讐したい気持ちはもうないの」
「そうか。復讐のカウントダウンが始まる前にアイビーに会えてよかったよ」
見つめ返す瞳は優しい。
「貴方と離縁する気はないわ。でもそれは、ベンジャミンに成り代わって欲しいわけじゃない。わたしは貴方と……イツキと添い遂げたいの」
復讐したかった、美しい左右対称の顔を歪めて笑い、長い髪の毛に細い体躯を翻してアイビーを置いて去って行ったベンジャミンはもうここにはいない。
復讐のカウントダウンが始まるその前に現れた、照れたように笑い、短い髪に鍛えた体躯のアイビーに寄り添ってくれるイツキが目の前にいる。
「アイビー」
「イツキ」
昨夜と同じようにどちらともなく名を呼び合い目を伏せる。
重ねた手のひらが絡み合う。
イツキの空いた腕がアイビーに伸び、大きな手のひらが頬に触れ、耳殻をくすぐり、後頭部に回される。
アイビーは顔を上げ少しだけ傾けた。
柔らかな温もりが一瞬触れる。
初めての口付けだった。
緊張が解け身体の力が抜けるとそのままゆっくりとソファに沈む。
「ずっと俺と一緒にいて欲しい」
熱を持った眼差しにアイビーは頷く。
再び唇が触れ、今度は深く口づけられた。




