転生した俺はスローライフを満喫したかった
俺たちの身体はゆっくりとソファに沈む。
握っていた手を解きアイビーの滑らかで柔らかい頬を両手で包む。
驚いたように一瞬目を見開いたアイビーは、慌ててまた目を閉じる。触れている頬は昨日と同じように熱を持ったように熱い。
夢じゃなかったんだ。
顔の角度を変え、何度も唇を合わせるだけのキスをする。
「……んっ」
酸素を求めて軽く開いたアイビーの唇にそっと舌を滑り込ませ小さな舌を絡めとると、耳に甘い声が響く。
脳が焼け切れそうだ。
「っ……んっ……んんっ」
華奢な身体は俺の下で身をよじり、か細い腕が胸元に伸びると握りしめた拳で胸を軽く叩かれた。
「んんんーーーーっっ!」
駄々っ子の様に何度も俺の胸を叩く。
そんなことをされても、アイビーの力じゃ大して痛くない。
って、わぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
「わっ悪い!」
やりすぎだ。俺、いきなり何してんだよ!
慌ててアイビーの身体から飛び退く。
俺は慌てすぎて脛をテーブルにしこたまぶつけ、テーブル上に並んだ食器類がガチャガチャと騒がしい音を立てた。
「大丈夫ですか!」
見張っていたかのようにタイミングよく扉が開き、スザンナとマシュー姉弟が口々に叫びながら飛び込んできた。
やってしまった。明らかに失態だ。
マシューに向かってアイビーをそういう目で見ちゃいけないなんて常々主張していたくせに。
思いが通じて浮かれてしまった。なんていうのは言い訳にならない。
むしろ開き直りも甚だしい。
「アイビー様に無理を強いたのですか!」
俺が頭をかきむしりながらそんなことを考えてる隙に駆け寄ったスザンナがアイビーを抱きしめていた。
「い、いや、その」
しどろもどろになっていると、目じりに涙をためて真っ赤に顔を染め肩で息をするアイビーが、スザンナに抱きしめられた腕の隙間から、何も言うなと言いたげな視線を送ってきた。
「すまない……」
謝った俺はスザンナに追い出され、部屋を後にする。
廊下をトボトボと歩く。
一緒に出てきたマシューの視線が背中に冷たく刺さる。
「扉の隙間から様子を窺っていたのでよく見えなかったのですが、アイビー様を押し倒したのですか?」
「なっ……」
振り返る。覗き見をしていたなんて明かしたくせに、マシューの視線は冷ややかだ。
否定しなくちゃいけないと口を開く。
「押し倒してなんて……」
あれ? 押し倒したか? いや倒れ込んだだけで、押し倒したわけじゃ……
「乱暴な振る舞いは嫌われますよ」
すぐに否定せず黙ってしまった俺は胡乱なまなざしに見つめられる。
いや。ここは断固として否定しなくてはいけない。
「乱暴になんてしてない」
「廊下に響くような音が部屋から聞こえたじゃないですか。貴方はアイビー様より十歳は年上だからそういう目で見ちゃいけないと言い訳ばかりおっしゃっていたくせに、大人の男らしい余裕のある振る舞いはできなかったのですか?」
マシューにそう言ってため息をつかれてはぐうの音も出ない。
別に全く経験がないわけではない。学生時代は彼女だっていた。
でも、仕事が忙しくなるにつれて会う時間が減り自然消滅してしまった。それでもいいと思ってしまう程度の淡白な人間だったはずだ。
なのにあんなにがっついて夢中になってしまうなんて……
もしかして、女遊びばかりしていたベンジャミンの身体だからか?
いや、それは責任転嫁がすぎる。
「わかった。大人の男として紳士的に振る舞うよ」
俺は反省して、アイビーから信頼を取り戻すことを心に誓う。
しばらくの間俺はカクテルとジャムの販路拡大に汗を流すことにした。
「もう十日も経っているわよ」
夕飯を終えて廊下を歩いていると俺はアイビーに腕を引っ張られ夫婦の寝室に連れ込まれる。
あの日から避けていた部屋だ。
アイビーのものだろうか。部屋の中は鏡台や箪笥など女性らしい家具がいくつか増えていた。
って、あまりジロジロ見たらいけない。
「……そうだな。十日である程度数字も出てきたからモーガン達の店で出したカクテルとジャムの売り上げ報告をしようと思ってたんだ」
あの後アイビーと共に王都の屋敷に引き続き留まり、カクテルとジャムを売り出すためにまずは美食家の集まるモーガンたちの店で取り扱いを始めた。
いまやモーガンたちの店はプラット子爵領の特産品ばかり扱う、いわゆるアンテナショップに併設されたレストランみたいな状態になっていて、特産品の販売と合わせて食べ方の提案などをしている。
店に訪れる流行り物に敏感な美食家たちの間で、カクテルもジャムもかなり評判になっている。
「……そうね。それも聞きたいところだけど」
ため息をつきアイビーに俺の腕をさらに引っ張られて体勢を崩す。
「アイビー?」
「わたし、ベンジャミンに三年間も放っておかれたから我慢強い方だと思ってたのよね」
「そうだな」
「なのに十日で限界になるなんて思わなかったわ」
「え?」
「わたしまどろっこしいの苦手なのよ」
「え? あ、うん」
「どうして手を出してこないの?」
「えっ? ええっ?」
アイビーは青みがかった瞳でまっすぐ俺を見つめる。
「……あの時スザンナに助けを求めてただろ? だから、アイビーに無理強いして嫌われたかと思ったんだ」
素直に白状した。
「別に嫌った訳じゃないわ。ただ、あの時は、うまく息ができなくて苦しかったのに、イツキがちっともやめてくれなかったから……」
アイビーはそう言って頬を膨らませ、そっぽを向いた。
優しくて思いやりがあって、真面目で責任感が強い。アイビーが周りに見せるのはそんな姿ばかりだ。
年相応の振る舞いをするアイビーの姿を見たことがある奴はどれくらいいるんだろう。
絶対にベンジャミンのやつは見たことないに違いない。
「聞いているの?」
「ごめん」
「次から気をつけてね」
「ああ。今から気をつけるよ」
「なっ」
俺は真っ赤になったアイビーを抱き寄せた。
***
それから、季節は過ぎ、あの嵐の日、俺の魂が雷に打たれて死んだベンジャミンの体に俺──赤穂樹の魂が乗り移ってから、十ヶ月近く経とうとしていた。
「花見? 花を見るだけ?」
領地に戻る馬車の中でアイビーに花見の経験があるか尋ねる。
「ああ。俺の故郷では、春になると桜の下で宴会……パーティをするんだ」
「サクラってサクランボの花? プラット子爵領では育ててないわよ」
もちろんそれは帳簿で見てるから把握している。
アンズと収穫時期が被るサクランボを育てられるほど大きな領地ではない。
「アンズもりんごも桜も同じバラ科だから似たようなもんさ」
屋敷に戻らず、馬車は農園に止まる。
俺はアイビーの手を取り馬車を降りる。
アンズの木はピンクの花が咲き誇り、木の下にはピクニックシーツが広げられて、食事や飲み物が用意されていた。
先に戻ったマシューたちに用意を依頼していたものだ。
「キレイね」
ピンク色の小さな花々はソメイヨシノとはさすがに違うけれど、それでも懐かしい春の景色が目の前に広がっている。
「懐かしいな」
俺はまだ、この景色を懐かしいと思えるけれど、そのうち何も思わなくなるんだろうか。
しんみりしているとアイビーが俺の手をぎゅっと握りしめた。
「毎年来ればいいわ。わたしが貴方の故郷の景色だって覚えていてあげるから」
「ありがとうアイビー」
アイビーが座りましょうと俺を誘い、二人でピクニックシーツに座る。
見上げると青とピンクが一面に広がった。
「せっかくだし食べましょう?」
早速、食事の入ったバスケットを広げる。コリンが作ってくれたバゲットにクラッカー。チーズや干しぶどう、アイビーのジャムも用意されている。飲み物は白ワインとぶどうジュースだ。
どれも美味い。
特にアイビーがチーズとジャムを乗せてくれたクラッカーは白ワインが進む。
「花見はよくしてたの?」
食事があらかた終わり、アイビーはぶどうジュースのおかわりを注ぎながら俺に尋ねた。
「そうだな。仕事で忙しくなってからはなかなか花見をする機会がなかったけど、子供の頃は毎年楽しみにしていたよ」
「そうなのね」
「仕事は好きだったけどさ、本当はこうしてのんびり過ごしたかったんだよな。そういや、こっちにきてすぐスローライフできるかも? なんて考えていたことがあったけど、結局のんびりできるまでこんなに時間かかっちゃったな」
「ベンジャミンの尻拭いで大変だったものね」
「違いない」
俺は笑ってピクニックシーツに寝転ぶ。地面が近くなって土と草の匂いが鼻腔を満たした。
「まあ、俺はずっとのんびり暮らすより、忙しく働いている方が性に合う。たまにこうやってのんびりするだけで幸せだ。来年も一緒にのんびり花見をしような」
アイビーを見上げると眉毛を寄せている。
「来年は……花見には来れても、のんびりするのは難しいかもしれないわ」
「え?」
俺は慌てて身体を起こす。
「だって、来年の今頃は赤ちゃんが生まれてるから、お世話で大忙しよ」
アイビーは微笑んでお腹をさすった。
「えっ? ええっ⁈」
「お医者様が妊娠してるだろうって」
お腹に手を伸ばす。触れたいけれど壊れてしまいそうで心配になる。びびっているのが見透かされたのか「触っても平気だけど、まだ動いたりしないわよ」とアイビーは笑う。
ようやく触れたお腹はもちろん動くこともないけれど、なんだかあったかく感じた。
「じゃあ、子どもが大きくなるまでのんびりするのは難しそうだな」
「大丈夫? のんびり過ごしたかったんでしょう?」
俺は首を横に振る。
異世界に転生した俺は、スローライフを満喫したかったけど……しばらくはお預けだ。
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