転生した俺はスローライフを満喫したかった
酒の勢いを借りようと飲み干したグラスに、再び酒を満たす。
「これからする俺の話は笑って聞き流してもらえないか?」
そう伝えて、俺は勢いよく注いであふれそうになった酒を啜る。
喉が焼けるような感覚だけが鮮明で、身体はどこかふわふわと浮遊したような感覚だった。
「あのさ……えっと……」
切り出そうとしてふと止まる。
ベンジャミンと離縁したいと思ってたアイビーに、ベンジャミンに成り代わりたいと伝えて、どうしようっていうんだ?
アイビーの真っ直ぐな眼差しにとらわれて、俺は唾を飲み込む。
「ベンジャミン?」
「俺は……ベンジャミンじゃない」
しまった。
不意にアイビーに呼ばれて、つい口にしようと思っていた事とは別の言葉がこぼれた。
俺はアイビーのためにベンジャミンに成り代わりたいって話をしようとしたのに。
いきなり否定してどうするってんだ。
「そうね。貴方は『以前のベンジャミンじゃない』って、みんなそう思ってるわ」
パニックになりそうな俺に気がついていないだろうアイビーが頷く。
よし。とりあえずこのまま話をして、切り出すタイミングを計ろう。
商談だって単刀直入すぎてはいけない。雑談だって大切だ。
「モリスたちにベンジャミンと違うことを示すためにも、見通しを立てて、実行して、効果測定し改善事項があればまた計画を見直して向上を心掛けていたからな。ベンジャミンと違うと思ってもらえたなら成功だな」
「そうね。この国の誰も知らない、見たことも聞いたこともないアンズ狩りを初めて開催して成功させたものね。貴方のおかげでアンズ狩りだけじゃなくて、ぶどう狩りもりんご狩りも成功したわ」
「そうか。成功したならよかった」
ぶどう狩りの時期には俺は王都にいた。
一緒に着いてきてくれたマシューが、侍女のスザンナに連絡をとりつつがなく催行されたと聞いていたけれど……
アイビーの口から成功の言葉を直接聞けて俺は胸を撫で下ろす。
「アンズ狩りの時に貴方がしっかりと企画を練ってくれたでしょ? 募集方法に馬車の手配、農園での注意事項に屋敷で休憩いただく時に準備するものやお土産の用意まで。屋敷の使用人たちも農園の農夫たちもやることがわかっているから貴方が留守でも自分たちだけでやり遂げられたのよ」
アイビーは女主人として大変だったろうに、何の苦労もなかったかのように答えた。
「みんな本当に貴方に感謝しているわ。わたしからもお礼を言わせて」
「いや、そんなたいしたことしてないさ。実際にやり遂げたのはアイビー達だ」
「ううん。貴方のおかげよ。今日も前侯爵夫人がベンジャミンの商才を認めていらしたわ。他にもたくさんのご婦人方から新しい商売について聞かれたわ」
アイビーが貴族のご婦人たちに囲まれていたのを思い出す。
ベンジャミンに対してまだ不信感を持っているご婦人方は商売について聞きたくても線を引いてしまう。
でも真面目な印象のアイビーが相手なら、仕事の話をしやすいんだろう。
「そうそう。それにアンズのリキュールと果汁を混ぜるのもきっと流行ると思うわ」
「そうかな」
「ええ。美味しかったし、新しい飲み方で驚いたわ。モリスたちの店でもリキュールの新しい飲み方を提案しましょうよ。あの店にいらっしゃるお客様たちは流行りに敏感だもの」
新しい商売に目を輝かせるアイビーに俺は目を細める。
話がずれてきているのはとっくに気がついていた。いや、本題を切り出すのが怖いんだ。
俺はまたグラスを空にする。思い切り深呼吸をしてアイビーを見つめた。
「アイビー」
「……」
「俺はベンジャミンじゃないけどさ」
アイビーは頷く。
だめだ。やっぱりうまく切り出せない。空になったグラスにまた酒を注ぐ。
「ほら、えっと……前にモリスに異世界から来たって人たちの手記を探し集めてもらって読んだんだけどさ、どうも元の世界には戻れないらしいんだ。しかも元の記憶はどんどん忘れていってしまうらしい。この世界に残るしかないみたいなんだ。それなら、俺は……俺は、ベンジャミンじゃないけれど、ベンジャミンに成り代わってアイビーの後ろ盾になりたいって思ったんだ」
「え?」
アイビーが目を丸くして俺を見つめる。
「いや、アイビーがベンジャミンと別れたがってたなんて知らなかったもんだからさ、勝手な思い込みもいいところだよな。笑ってくれ」
「ちょっと待って?」
「え?」
「貴方はベンジャミンじゃないことを証明するためにアンズ狩りを始めたんじゃないの? ベンジャミンに成り代わってわたしの後ろ盾になるためにアンズ狩りを始めたの?」
「え……? アンズ狩りを?」
あれ? 俺はいつからアイビーの後ろ盾になろうとしてたんだっけ……
「ちょっと頭の中を整理していいか?」
「どうぞ」
酒が入った頭を懸命に働かせる。
「えっと……アイビーのためにベンジャミンに成り代わって後ろ盾になりたい……って思ったのはさっきの夜会だったはずじゃ……あれ、アンズ狩りを始めようと企画したときからだったか? いや、あの時は純粋に将来の見通しを立てようと思った……んだっけ? そう。そうだよ、あの時はアイビーのことをないがしろにするベンジャミンなんかと一緒にされたくないって、俺はベンジャミンとは別の人間だってアイビーにわかってほしいって思ってただろ。じゃぁもっと後か? モリスに異世界転生でこの世界に来た人の手記を集めてもらって調べたときに、どんどん過去の記憶が消えて行ってしまうことが分かったけど、その時だって、このままどんどん転生前の記憶が薄くなっていって思い出せなくなっていくなら、記憶がなくなる前に少しでもアイビーの役に立ちたいとは思ったけど、ベンジャミンに成り代わろうだなんて思っていなかったはずだよな……」
「そうなの?」
「そうだよ……って、いま、俺、考えていること口に出して……た?」
「えぇ」
わぁあぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁ!
あまりの恥ずかしさに俺は酒をあおる。
「ずっと……わたしのために」
アイビーは席を立ち、俺の隣に座り直す。
グラスを握る手にアイビーの手が添えられる。
小さな手はヒヤリと冷たい。俺はグラスを置いた。
「貴方はなんて名前なの?」
突然話題が変わって俺は戸惑う。名前を言うだけなのに言葉が出ない。
「貴方が以前いた世界での記憶はどんどんなくなってしまうんでしょう?」
アイビーは、黙る俺に不快な顔一つ見せず質問を重ねた。
「ああ」
俺は相槌を打つしかできない。
「だから、貴方が名前を忘れないように、わたしが覚えて貴方の名前を呼ぶわ」
「アイビーが?」
「ええ。記憶力には自信があるのよ。おばあちゃんになっても忘れないわ」
アイビーは真剣な顔だ。
「それは……でも、急にベンジャミンじゃなくて、俺の名前を呼んだらみんな混乱するだろ?」
「だったら、いまみたいに二人きりの時に呼べばいいだけよ」
──二人きりの時に。
頭の中でその言葉が何度もリフレインする。
身体ごと隣に座るアイビーの方を向ける。
今、俺が考えていることは自惚れだろうか。
「俺は赤穂樹だ」
「アコウ・イツキ? アコウと言うのが貴方の名前ね?」
アイビーが俺を見つめている。
「えっと、赤穂は家名でイツキが名前だ」
「イツキね」
「ああ」
ブルーがかった瞳を見つめ返す。
「アイビー」
「イツキ」
名前を呼び合う。伸ばした指は頬に触れる。柔らかい。
ふふっと鼻から漏れたような笑い声が耳をくすぐる。
「そんなに恐る恐る触られたら……くすぐったいわ」
アイビーはそう言って俺の手のひらに頬を預けた。
押し付けられた頬はしっとりとした肌触りだ。肌と肌の境目は熱を持ったように熱い。
「イツキ」
「アイビー」
また名前を呼ぶ。
どちらともなく目を伏せ、少し顔を傾ける。
目の前が暗くなる。
そして、気がつくと夜が明けていた──。




