転生した俺はスローライフを満喫したかった
濡れたハンカチで叩かれた頬を冷やす。
ひんやりと冷たくて気持ちいい。
昨日酒を飲んだ相手である伯爵家の未亡人がパーティに現れると、俺はいきなり頬を叩かれた。
会場が騒然とする中、侯爵家の使用人にこの部屋へ連れてこられて怪我の治療が終わったところだ。
手当てをしてくれた使用人たちが一人二人と部屋を離れていく。
気がつくと俺の目の前で整った身なりの男が一人残っており、その男は土下座をしていた。
俺は「異世界でも謝罪は土下座なのか」なんて事をぼーっと考える。
「申し訳ないことにございます!!」
「!」
突然大きな声が部屋に鳴り響き、驚いて声をあげそうになった。
バクバクする胸を押さえて、平静を取り繕う。
「……や、気にする必要はないさ。音が大きかったから騒ぎになっただけで、痛くもなんともない」
別に虚勢でもなんでもない。力のない女性に叩かれたくらいなんてことない。あんなに大騒ぎになるようなことではなかったと思うくらいだ。
「あってはならないことです。子爵様の頬に傷跡が残ったりしたらどう責任をお取りすればいいか……」
そう言ってこれ以上ないほど頭を下げ額を床に擦り付ける男の正体を思い出す。
俺を平手打ちした伯爵家の未亡人が経営する貿易事業を行う商会の責任者だ。
パーティーではメインの大広間で商会の経営権を握る貴族たちが歓談する傍ら、商会の責任者たちは他の部屋にこもり商談を繰り広げている。
何度か未亡人がパーティーに連れてきているのを見かけて話をしてみたかった相手だが、初めて話すのがこんなタイミングになるとは思わなかったな。
「頭を上げなよ。本当に気にしてないし、冷やせば痕も残らないって」
それでも男は頭を上げない。
貴族に怪我をさせたっていうのは問題なのかもしれないけれど、たいした怪我になりそうもないし、そもそも叩いたのは身分の高い伯爵家の未亡人だ。商会の責任者なだけで未亡人のした事まで責任取る必要なんてないはずだ。
「そもそもさ、責任っていうのは上の立場の人間がとるものだろ。上の立場の人間が起こした騒ぎを、下の立場の人間がかぶるのは筋違いでしかない。それに今回の騒ぎは、いわゆる、ちょっとした痴情のもつれってやつで、叩かれても仕方ないわけだし、貴方には関係のない話じゃないか」
まぁ、俺にも本当は関係ないんだけどさ。なんて出かかった言葉を飲み込む。
「いえ……関係なくは……」
ようやく男は顔を上げた。何か言いたげな表情だ。
「どういうことだ?」
もしかして美人局とかでこの男が裏で糸を引いていたとか?
俺は訝しむ。
「……昔話をさせていただくことをお許しいただけますか」
「ああ」
なかなか話を切り出さない。
こういう時は変に急かさない方がいい。俺は話し出すのを待つ。
「……今から、十年ほど前のことです。奥様が嫁いでから何年経っても伯爵様との間に子が生まれず、伯爵様の甥御様を養子に迎え入れたのが悲劇の始まりでした──」
男は躊躇いがちにぽつぽつと語りだした。
夫である伯爵が生きていた間は親戚付き合いもそれなりにうまくいっていたものの、亡くなってしまった後はこれまで猫をかぶっていた養子の実父である伯爵の義弟が屋敷に乗り込んできた。
もともと伯爵家の人間である義弟は、使用人たちからの信頼もあつく、あっという間に実権を奪われてしまった。
気が付けば義弟は領地や屋敷の実権だけでなく、裏で手を回し伯爵が未亡人のために残した商会も手に入れようと企んでいる。それに気がついた未亡人は商会だけは守ろうと躍起になっているそうだ。
「──ただ奥様は周りの意見に耳を傾けることもせず、羽振りの良さをアピールするためのパーティを繰り広げるばかりでして……」
男は俺の顔をチラリと見て苦々しげな表情に変わる。
「俺……私に奥様をお支えできるだけの地位があればよかったのです。そうすれば奥様お一人にご苦労おかけすることもなかったのに」
それで、関係なくはないってことね。
苦々しげな表情を見つめ返す。
白くなるほど噛み締めた唇は、口に出せない未亡人への思いを示しているのだろうか。
俺には尋ねる権利はない。
「それで、とにかく商会の後ろ盾になれそうな貴族を求めて、交友関係の中で一番手玉に取りやすいベンジャミンを狙っていたと言うわけか」
だとしても、社交界であまりよく思われていないベンジャミンなんかじゃ後ろ盾になりようもないんじゃないか?
ろくでもないベンジャミンしか頼れないんじゃ、伯爵家の未亡人は、随分と世間知らずな人物なのだろう。
他に頼れる相手はいないのか?
俺は思案を巡らす。
そういえば……
「今日のパーティを主催する前侯爵夫人は、夫を亡くした際に苦労された事をよく話題にされる」
「侯爵閣下は厳しいお方で周りを信用されずにご自身で決定されることが多いと噂されておりましたから、残された奥様のご苦労は想像に難くありません」
俺の話に男はうなずく。
「ああ。夫人は実子が成人していたから相続トラブルがなかっただけで、似たような境遇で苦労を強いられている未亡人に同情するはずだ」
「そうでしょうか。ご存知だと思いますが、奥様は侯爵家のご夫人に張り合ってばかりであまり心証はよくないかと存じます」
男は首を横にふる。
「虚勢を張って羽振りの良さをアピールするよりも、同情心を煽り夫人にうまく取り次げば、庇護してもらえるんじゃないか?」
「たとえ同情で引き立てていただけたとしても、相手にも商売があるのです。何度も同じ手は使えませんよ」
「あまりいいやり方ではないかもしれないが、一度引き立ててもらった後は誠実に仕事をして信頼を得ればいいことだ。そこはあなたの腕の見せ所だろう」
「俺の腕の見せ所……」
男の瞳は炎が灯ったように輝いた。
「それにしても、貴族女性にとって夫を亡くすというのは、人生を百八十度変えてしまうものなのだな」
あれ? 待てよ?
そこまで言って俺はふと思い至る。
あの日、ベンジャミンは雷に打たれて死んだ。
つまり、あの日突然アイビーの後ろ盾はなくなったって事だ。
いくらアイビー達を蔑ろにしていたからって言っても、ベンジャミンのやつはしがないサラリーマンの俺と違って、れっきとした由緒正しき貴族で、こうやって後ろ盾になってもらおうとする人がいるくらいの立場の人間だ。
急に異世界に来て、ベンジャミンになってしまった自分ばかり不安に思っていたが、アイビーだって急に後ろ盾がなくなって不安だったんじゃないか?
そういえば……
俺は元の世界に戻れるのか、ベンジャミンの魂がこの身体に戻ることがあるのか、この世界に転生してきた人の手記を集めて調べたけれど、その結果はアイビーにきちんと伝えていなかった。
俺が勝手にこの世界で生きていく決意をしていただけで、アイビーの不安を取り除くことはしていない。
アイビーはもしかしたら後ろ盾を失う不安をいまだ抱えているのかもしれない。
俺は元の世界で死んで、雷に打たれて死んだベンジャミンの身体に魂がはいりこんでしまった。
もう俺が元の世界に戻ることも、死んでしまったベンジャミンの魂が再びこの身体に戻ることもできない。
俺はベンジャミンじゃない。
でも、アイビーの後ろ盾になれるなら、ベンジャミンに成り代わりたい。
それでアイビーの不安が払えるのなら……
「もういいかな? 大切な用事を思い出したんだ。失礼するよ」
居ても立っても居られなくなった俺は、商会の責任者の男にそれだけ伝えて部屋を出た。
***
広間に戻りアイビーを探す。
どこだ?
広い会場にたくさんの招待客が詰めかけており、アイビーを探してもなかなか見つからない。話しかけてくるご婦人方の間を愛想笑いですり抜ける。
「アイビー!」
「ベンジャミン……」
やっと見つけた。
広間の続き部屋でアイビーと夫人が話をしている。
アイビーに近づくと、真っ青な顔をしていた。
大丈夫だろうか。
目の前に跪きアイビーを見上げる。俺を見る瞳は不安げに揺れていた。
「体調でも悪いのか? 忙しい中、俺が無理に呼んだりしたから……」
手を伸ばし、額に手を当てる。
熱はなさそうだ。
「違うのよ」
アイビーは首を横にふる。
「違うの……」
そう言ったアイビーの瞳から一粒涙が溢れた。
慌てて額に伸ばした手を離し、ハンカチを渡す。
「ありがとう」
「いや……」
アイビーは受け取ったハンカチで顔を覆った。
優しくアイビーの背中を撫でていた前侯爵夫人から騒ぎはなんとかするから二人とももう帰るようにと告げられる。
俺は前侯爵夫人に礼を言い、アイビーと共にパーティ会場を後にした。
第二章はここまでです。
お読みいただきありがとうございます。
第三章は話ごとに二人の視点が変わります。
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