転生した俺はスローライフを満喫したかった
「疲れた……」
馬車から降りようと踏み出した足がもつれる。
「ベンジャミン様!」
よろけそうなところを、迎えにきていたマシューが駆け寄り支えてくれた。
「マシュー。いつも出迎えありがとう」
「そんな、当たり前のことです。しっかりおつかまりになってください」
「悪いな。すまない」
「ベンジャミン様……今日もまた……いえ、いつも以上にお酒を飲まされたんですね」
肩を貸してもらうほど酔っぱらったのはいつ以来だろう。
仕事で相手先の社長に飲まされても、ここまで酔うことはなかった。下手したら学生の頃か?
「……いや大した量じゃないさ」
見上げる気遣わしげな表情に、俺は心配かけまいとばかりに虚勢を張った。
「お一人で毎日のようにパーティに出られるなんて、無謀です。アイビー様に来るようにとお願いされてはいかがですか? ドレスだって用意しているんですから……」
「いやいや。まだりんごの収穫が残っていて忙しいだろ? それに収穫が終わったら出荷作業も控えてるんだしさ。もう少し落ち着いてからでいいよ」
「収穫するのは農夫達です。出荷にしても最終的な確認に立ち会っていただきますが、基本的には農場長が差配します」
「ほら、農夫達に差し入れも必要だろ?」
「それくらいなら、使用人でもできます」
マシューは納得してくれない。
「……でも、りんご狩りに来てくれたお客様のもてなしは、アイビーでなきゃできないしさ」
「そうですね。でも、そろそろりんごの収穫は終盤です。個別にいらっしゃるお客様はいるかもしれませんが、私どもが運行する馬車便は終わっています」
この二ヶ月ほどの間、何度も繰り返したやり取りだ。
いつも通り「忙しいのを分かってる中、来てとは書けないけど、来れたら来て欲しいって手紙を送ってみるよ」と答えれば終わりだ。
なのにいつもより飲み過ぎてしまった俺は、何度も繰り返されるマシューとのやり取りに、つい苛立ってしまった。
「誘いの手紙を送っても来ないんだから、それがアイビーの答えだろ! 忙しいんだって思わせてくれよ!」
マシューの身体を押し除ける。
よろけて尻餅をついたのが見えたが俺は振り返りもせず寝室に向かう。
「──ってことでよろしいんですか?」
マシューが俺の後ろから何か言っているのも聞かずにドアを閉めた。
「ああっ! なんて様だ!」
そう吐き捨てた後、ベッドに座り込み頭を掻きむしった。
二ヶ月前、社交パーティーでジャムやプラット子爵領の名産品を売り込むために、マシューと王都の屋敷に戻って来た。
いや、売り込みたかったジャムはアイビーに手助け不要と言われてしまったのだけど。
まあ……それは、アイビーの意見も聞かずに先走った俺が悪い。
それでもあのジャムを実際に売り出す時に攻勢をかけられるように社交の場でコネクションを作らねばと意気込んでいた。
なのに……
ため息混じりに吐き出す。
空っぽになった肺の中に空気を取り込むと、甘ったるい香水の匂いが広がった。
まとわりついてきた女の生々しい触感を思い出し、乱暴に服を脱ぎ捨てようとした手を、はたと止める。
嫌味なほどよく似合うベンジャミンの夜会服は、肌触りの良い生地に繊細な刺繍が施されている。
丁寧にボタンを外し、軽く畳んでソファに置いておく。
シャツと下履きだけになった俺はベッドに倒れ込み目を瞑る。
まずこの屋敷に戻ってした事と言えば、ベンジャミンの今までの行いの後始末だった。
ベンジャミンに送られてきた手紙の中身が夜の相手のお誘いばかりだったことを理解したのは、ベンジャミンのフリをして参加した初めての夜会だった。
雷に打たれ領地で静養していたことになっていたベンジャミンが、久しぶりに社交の場に顔を出したからと声をかけてくるのは、お気に入りのおもちゃが戻ってきたのを喜ぶ一部の女性たちだけだった。
男性や多くの女性からは不愉快なのを隠そうともしていない視線を向けられた。
いたたまれない俺の姿を見て、変化に気がついたベンジャミンの後見者である前侯爵夫人が手を差し伸べてくれた。
流石に中身が別人になったとは気がついてはいないようだが、マシューの「雷に打たれて領地で療養中に妻の愛に触れ領主としての自覚に目覚めまるで別人になられた」なんていう作り話を真に受けて、仕事の後ろ盾だけでなく、ベンジャミンと関係のあった女性たちとうまく別れられるように間に入ってくれた。
それでも断りきれない女たちの誘いから逃げるためには、相手が酔い潰れるほど酒を飲むしかなかったのだが。
せっかく酒を飲むならとアイビーのブレンドジャムが今後受け入れられるように、カクテルを広められたのは怪我の功名だった。
今日はベンジャミンにご執心な伯爵家の未亡人が夜会に来ていた。貿易事業をしている相手を無碍には出来ず、いつもよりも酒量が増えてしまった。
だめだ。思考が飛び飛びになる。
もう一度深く息を吐き出し、新鮮な空気を肺に運ぶ。香水の匂いは薄くなり呼吸がしやすくなる。
どうして俺は、隠喩が分からなかったとはいえ、あの日アイビーに手紙を見せてしまったのだろう。
アイビーだって知りたくなかったはずだ。
俺の失態を責めることなく、アイビーは「ベンジャミンへの個人的なエスコート依頼だから、一緒に参加したら顰蹙を買う」と内容を匂わせたうえで「元の世界でしていた仕事」に話題を変えてくれた。
なのに俺はアイビーの気遣いに気が付かず、しつこくパーティーに参加したいと言ってしまった。
自分の無神経さにゾッとする。
不愉快に思われて当然だ。
それなのにあいに一緒にパーティーに参加して欲しいと手紙を出すなんて図々しいにも程がある。
むしろベンジャミンの女性トラブルに巻き込まずに済むのだから、来れない方が安心するくらいだ。
そう思うのに……
アイビーが来てくれるんじゃないかと淡い期待を抱き、来ないことに勝手にショックを受けている自分に腹が立つ。
アイビーはあくまでもベンジャミンの妻であって、俺の妻じゃない。もちろん恋人でもない。強いて言えばビジネスパートナーだろうが、ビジネスパートナーとして求められてもいない。
年齢だって十歳は離れていて、そういう目で見てはいけない相手だ。
わかっているのに……
痛む頭を傾け室内を見渡す。
通いの使用人に最低限の手入れだけをお願いしていた屋敷は、無駄に高級で悪趣味な装飾品は埃を被り、掃除の手が行き届いていなかった。
マシューとモリスに相談して、ベンジャミンが手に入れた不必要な装飾品は全部売り払った。
ものが減った室内は掃除もしやすくなったのか、埃もなくすっきりと片付いている。
いや、ベンジャミンの不要品を処分しただけで、夫婦の寝室なのに物がほとんどない状態なのは不自然だ。
この部屋でアイビーが暮らしていなかった証明に他ならない。
夜な夜な女遊びに耽り妻を蔑ろにしていたベンジャミンに、腹立たしさを感じる傍ら、アイビーがベンジャミンとこの部屋で暮らしていなかったという事実に、安心する己の浅ましさに反吐が出る。
いくら律しても、アイビーの存在は自分の中で大きくなる一方だった。
これ以上考えてはいけない。
俺は目を瞑り、重たい身体が泥の中に沈むように眠りの淵に沈んでいった。
***
「……さま……旦那様」
聞き慣れた声よりも幾分か低い声。
俺はゆっくりと目を開ける。
「マシュー?」
にしては、皺が多い。
「っモリス!」
「はい。モリスにございます」
見回すと、いつも起こしにくるマシューの姿は見えなかった。
モリスは通いで屋敷に来てくれるようにはなったが、朝早い時間はマシューが屋敷で采配を振っている。
マシューがおらず、モリスがいるということは……
「もう昼なのか?」
「いいえ。いつものお目覚めの時間でいらっしゃいますよ」
置き時計の針は朝の時刻を指していた。
マシューがいない、もう一つの可能性に思い至り、背筋に冷や汗が流れる。
「モリス。マシューは」
「旦那様。朝餉の支度はできておりますので食堂でお待ちしております」
感情の読み取れない表情のままモリスは部屋から出ていってしまった。
痛む頭で思い出す。昨夜は心配をしてくれているマシューを怒鳴りつけた挙句、何か訴えかけようとしてくれていたのを無視して部屋にこもっていた。
愛想を尽かして屋敷を出ていってしまったのだろうか。
慌てて俺は着替えて、食堂に向かう。
「モリス。マシューは? 屋敷を出ていったのか?」
「はい。明け方、私の元に屋敷の差配を願いに訪れたのち、そのままプラット子爵領に向かいました」
モリスは、食堂のドアを開けてすぐに尋ねた俺を椅子に座らせると、何事もないようにそう答えた。
「領地に」
やっぱり領地に帰ってしまったのか……
「はい。ですので本日息子が戻るまで、私が屋敷を取り仕切らせていただきます」
「え? 本日戻るまで? 戻ってきてくれるのか」
「はい。夕方には戻るでしょう」
「夕方? 早いな」
愛想を尽かして出ていったのかと思ったが、違うようだ。
「ええ、とはいえアイビー様次第ですが」
「ア……アイビー次第って?」
身体が跳ねるのを自覚する。見上げると、したり顔のモリスと目が合った。
咳払いをして視線を外す。
「アイビー様に手紙を送っても色好い返事をいただけないからと旦那様が不貞腐れているので、お迎えにあがるそうです」
「ふ、不貞腐れて……違う、昨夜は酒が入っていて、つい声を荒げてしまっただけで、アイビーは忙しいんだから、来れないことくらい俺は理解している」
「という上辺を取り繕えないほど酔われて、とうとう息子に本心を見せてしまわれたのでしょう?」
片頬をあげて微笑むモリスに俺は何も言い返すことはできない。
のそのそと味のしない朝食を口に運び、生温い視線を感じながら夜会に参加するため部屋に戻る。
アイビーと揃いの夜会服がいつの間にか用意されていた。




