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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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閑話 三宮の夜、精密機械の入籍報告に関する緊急対策会議 ~嘆きの女子社員連合視点~

 三宮の喧騒から少し離れた路地裏。赤提灯やモダンなバルが軒を連ねる一角に、その居酒屋はあった。二階の大広間を貸し切り、そこには異様な熱気が渦巻いている。

 集まったのは、社内でも選りすぐりの女子社員たち総勢五十名。普段は総務や経理、営業事務など部署の垣根を超えて協力し合う彼女たちが、今日ばかりは全員、一様に肩を落とし、あるいは虚空を睨みつけていた。


 卓上に所狭しと並んだ生中やカシスオレンジ、山盛りのポテトフライに焼き鳥の盛り合わせは、いつもよりずっと苦く、砂を噛むように味気なく感じられる。


「……ねえ、誰か悪い夢だって言ってよ。今日の定例会議で、あの浅井さんが『入籍します』なんて。天変地異の前触れか何かでしょ?」

 

「残念ながら、全社共通の連絡事項として回ってきたわよ。部長なんて『浅井君もついに年貢の納め時か』って、口元をニヤつかせながら、まるで自分のことのように嬉しそうに報告してたもん」


 一人がジョッキを煽って、叩きつけるように机に置く。その鈍い音を合図に、あちこちから堰を切ったように本音が漏れ出した。



 そんな喧騒のただ中、誰よりも深く、魂を削られるような衝撃を受けていたのは、社長秘書の女性だった。

 彼女は社長のスケジュールを完璧に掌握し、その傍らで常に陽斗の動向を最も近い特等席で見守り続けてきた自負がある。

 銀縁の眼鏡の奥に理知的な瞳を光らせ、背筋をピンと伸ばして働く彼女は、社内でも『非の打ち所がない才女』として知られていた。常に冷静で、感情に流されず、プロフェッショナルの矜持を持って業務をこなす陽斗に、自分と同じ種類の魂を感じ、密かに憧れを抱いていたのだ。


 だが、今の彼女にその面影はない。

 きりっとしたスーツ姿のまま、彼女は狂ったようにジョッキを煽っていた。


「……ありえない! 本当にありえない! 私の完璧なスケジュール管理の中に、こんな『結婚』という名の不測の事態、一文字も入っていないのよ!」


 ゴトッ、と音を立てて空のジョッキを置き、彼女は乱れた前髪を無造作に掻き上げた。普段の彼女からは想像もつかない、荒々しい動作。


「社長から彼を内線で呼び出すよう命じられるたび、その正当な口実を与えられたことに、どれほど内心で社長に感謝し、少女のように胸を高鳴らせていたか……! それを悟られまいと、彼が来た時も、私は鉄の意志で冷静に対処してきた。プロフェッショナルとして、完璧に。……でも、それが間違いだったって言うの?」


 彼女は、ハイボールを半分ほどまで流し込んだあと続ける。

 

「感情を押し殺した私の冷静さが、彼を遠ざける壁になっていただけなの!? 私が規律を死守していた裏で、誰かが彼の人生という設計図に、堂々と名前を書き込んでいたなんて……! 私の捧げた時間は、一体誰のためだったのよっ!」

 

 彼女は眼鏡を乱暴に外し、卓上のハイボールを一気に流し込む。頬は真っ赤に染まり、瞳は潤んでいるが、その奥には行き場のない情熱と絶望が入り混じっている。


「いい? みんな聞いて。私が一番近くで見ていたのよ。彼は、一分一秒の無駄も許さない、鉄の意志の塊だったはずなの。それが、特定の誰かのために一生を捧げる決断を下すなんて……。そんなの、私が信じていた世界が根底から覆るようなもんじゃない!」


 彼女は再びジョッキを掴むと、周囲の女子社員たちが引くほどの勢いで「おかわり!」と叫ぶ。

 きりりとした秘書の仮面は三宮の夜風に吹き飛ばされ、そこにはただ、憧れの人のあまりにも人間臭い幸福に打ちのめされた、一人の恋する女性の姿しかなかった。


「納得いかないわ! 私たち、お互いに抜け駆けはなしって暗黙の了解で同盟を組んでたじゃん。バレンタインのチョコだって我慢してたのに! みんなもそうでしょ! でも、それはあくまで『攻略対象がフリー』であることが前提だったんだよ。難攻不落の城を、誰が最初に落とすかって、みんなで密かに知恵を絞ってたのに……。まさか最初から本丸に別の主が居座ってたなんて!」

 

「そうだよ! 誰にでも平等に厳しいから、まだ自分にも一縷の希望があると思ってた。あのアンドロイドみたいな鉄仮面の下に隠された素顔を、いつか自分だけが引き出せるんじゃないかって……。ここにいる全員が、一度は夜な夜な妄想したはずでしょ! あのかっこいい横顔を独り占めする特等席があるって信じてたのに!」


 広間のあちこちで、ジョッキの氷がカランと虚しく鳴る。普段は「浅井さんに仕様書の不備を詰められた」と半泣きでデスクに戻ってくる若手社員までもが、今日は涙目で枝豆を無心に剥いていた。



「……それがね。今日の朝、私は地獄の門が開く瞬間に立ち会っちゃったのよ。逃げ場のない、トドメの一撃をね」


 絶望に染まった顔で口を開いたのは、陽斗と同じシステム部で、彼のすぐ近くにデスクを構える女子社員。

 一瞬で全員の視線が彼女に突き刺さり、空気がピリリと張り詰める。彼女は震える手で冷めたポテトを口に運び、数時間前に会議室で起きた信じがたい光景、そしてその伏線となっていた『あの日』の出来事を、絞り出すように語り始めた。


「みんな、先月浅井さんが高熱で病欠した日のこと、覚えてる?」


 その言葉に、全員も「ウンウン」と同意する。

 その様子を見ながら話を続けていく。

 

 「あの日、浅井さんのデスクに社長と専務、常務の三人が揃ってやってきたの。それだけでも異常事態なのに、社長が苦笑いしながらスマホを取り出して、浅井さんの『彼女』に電話をかけ始めたのよ。それも、スピーカーにして!」


 女子社員たちの間に、凍りつくような緊張が走る。


「私、隣の席で生きた心地がしなかったわ。スピーカーから聞こえてきたのは、少し困ったような、でも鈴を転がすみたいに澄んだ綺麗な女性の声……瀬戸詩織さん。社長が『浅井の様子はどうだ?』って聞いたら、彼女、溜息混じりにこう言ったの。『……それが、熱があるのに隠れてタブレットを持ち出して、またお仕事をしていたんです。今、取り上げたところなんですけど……。本当に、仕事のことになると聞き分けがなくて、困っちゃいますね』って」


 女子社員たちの間から、短い悲鳴のような声が漏れる。


「あの浅井さんが! 病気で寝込んでいる時までタブレットを離さないなんて、そこまではまだ想像できるわよ! でも、それを『取り上げた』なんて……! あの徹底して効率を求める浅井さんが、一人の女性に物理的に仕事を強制終了させられて、子供みたいに叱られてるのよ!?」


 女子社員は、思い出すのも辛そうに額を押さえた。


「その声を聞いた瞬間の社長たちの顔、見た? 常務が『あの精密機械をここまで狂わせるとは、よほどの天敵だな』って笑って、専務も『いや、彼女こそが浅井君にとって、世界で唯一の理解者なんだろう』って、しみじみ頷いてた。そしたら専務が、さらにニヤリと笑って社長にこう言ったの。

『社長、これは披露宴の祝辞の内容に、彼の不屈の精神、ただし、パートナーの目を盗んで仕事をする場合に限るという一節を書き足さなければなりませんな』って!」


「……披露宴!? 専務の頭の中では、もうそこまで確定事項だったの!?」


「そうなのよ! 会社の上層部が、あの鉄壁の浅井陽斗を陥落させた『天敵』の存在を、面白がりながらも心から祝福して受け入れていたの。あのアンドロイドみたいな浅井さんが、熱にうなされながらも誰かに甘え、そして律せられている。……その生活感の塊みたいな生々しい会話を、スピーカー越しに聞かされた私たちの気持ち、わかる!?」


 後輩社員はジョッキを掴み、中身を一気に流し込んだ。


「その時、確信しちゃったのよ。浅井さんの人生の優先順位の最上位、仕事のさらにその上に、その女性が居座ってるんだって。……でも、心のどこかで『まだ結婚までは』って、微かな希望を捨てきれずにいた。……それなのに、今日の定例会議の最後よ!」


 憤懣やるかたないといった様子で続ける。


「いつも通り、浅井さんが感情を排した硬質な声で報告を締めて、それで解散かと思ったら、部長がニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべて言い放ったわ。『我らが浅井陽斗君が、ついに年貢の納め時を迎えた。近々、入籍するそうだ』って」


「ええっ!? あの仕事以外に興味なさそうな部長が、そんな特大の爆弾を……?」

 

「そうなのよ! 普段は進捗管理のことしか頭になさそうな部長がよ!」

 

 女子社員たちの間に驚愕が走り、ザワザワと波紋が広がる。後輩社員は、力なく首を振って言葉を繋いだ。


「会議室の空気が一瞬で凍りついたわ。エアコンの音しか聞こえない中で、誰かがペンを落とす音が爆音みたいに響いて……。あの時、スピーカー越しに聞いた彼女の穏やかな声が、浅井さんのあの鉄壁の無表情を溶かしてたんだって、全ての点と線が繋がっちゃったの」


 女子社員たちの間に驚愕が走り、ザワザワと波紋が広がる。女子社員は、力なく首を振って言葉を繋いだ。


「極めつけは浅井さん本人の反応よ。いつもは鉄壁のポーカーフェイスを誇るあの人が、耳の付け根まで真っ赤にして、……片手で顔を半分覆いながら『恥ずかしいから、勘弁してくれ』って声を絞り出したのよ。逃げ場を失って視線を彷徨わせる姿は、私たちが今まで一度も見たことがない、生身の血の通った人間の反応だったわ」


「浅井さんが……狼狽して、赤くなった……? そんなの、もう別のプログラムが書き込まれてるとしか思えないよ!」


「そうよ。それに高橋さんなんて、社長から『現場の証人』としての潜入許可まで取り付けて、式の最中に浅井さんがどれだけ震えるかログを取るつもりだって息巻いてるし……。でもね、そうやって揶揄(からかわ)われながらも、浅井さんの口元はわずかに緩んでいて、瞳の奥には今まで見たことのない穏やかな熱が宿っていたの。あれを見せられたら、もう……」



  

 だが、夜の悲劇はこれだけでは終わらない。

 

 参加者の端っこで、おつまみの枝豆をのんびりと頬張っていた年配の女子社員が、ふふっと楽しげに鼻を鳴らした。彼女は既婚者で、今回は純粋に野次馬根性で参加しているのだが、ここで特大の爆薬を投げ入れる。

 

「……そう言えば。私、一度だけ見たことがあるよ。浅井さんが、そのお相手らしき女性と一緒にいるところ」


 ドンッ、と誰かがジョッキを置く音がした。

 瞬間、大広間の空気が凍りつき、次の刹那には全員が彼女の席へと、獲物を狙う猛獣のような勢いで詰め寄った。その場にいた五十人近い視線が、一点に集中する。


「先輩! 今なんて言いました!?」

 

「どこで!? いつですか!? 今まで隠してたんですか!」

 

「ちょっと、そんなに詰め寄らんといて。顔が怖いわよ。……そうやねぇ、いつやったかなぁ、須磨の水族園で見かけた浅井君は、ほんまに別人のようやったわぁ。あの浅井君が、一歩下がるようにして、守るみたいに彼女さんの隣を歩いてるんやもん」

 

「尾行したんですか、先輩!」

 

 一人の詰め寄りに、年配の社員は心外そうに手を振る。

 

「失礼なこと言わんといて! 順路通りに歩いてただけやって。あそこは一本道なんやから。でもね、嫌でも目に入ってまうのよ。あの浅井君が、一歩下がるようにして、守るみたいに彼女さんの隣を歩いてるんやから」

 

 彼女の話によれば、食事スペースでも偶然近くの席になったらしい。だが、陽斗の所属する開発部と彼女の所属する広報部との接点はない。そのため、陽斗は気付かなかったようだった。

 

「それで! 何をお二人で食べていたんですか! まさか、あの浅井さんがフードコートのうどんとか!?」


 詰め寄る彼女たちに、先輩社員は少し遠い目をして答えた。

 

「いいや、どうやら彼女さんの手作りやったわ。うちの子がジュース欲しいって言うから買いに行く途中で横を通ったんやけど、綺麗なお重に詰まっててね。彩りが良くて、ほんまに美味しそうやったわぁ。浅井君、一口食べるごとに、ほんまに幸せそうに頷いて……」


 『手作り』、その単語に、女子社員たちの絶望が一段深くなる。

 

「……お弁当まで。あの精密機械が、愛妻弁当ならぬ愛彼女弁当を、須磨の海を見ながら食べてたってこと!?」

 

「あーんってやってました!? 食べさせ合いっことか! そんなことしてたら私、もう生きていけません!」


 前のめりすぎる問いかけに、先輩社員は苦笑いしながら首を振った。

 

「それはなかったねぇ。でも、浅井君が彼女さんの口元に何かついてるのに気づいて、自分のハンカチでそっと拭いてあげてたんよ。それから、二人で顔を見合わせて笑い合ってたわぁ。それも、声を上げて楽しそうに! あの浅井君がよ?」

 

「……はぁ!? 声を上げて!? 私たちの前じゃ、口角が数ミリ上がるだけでニュースになるあの人が!?」

 

「もう、完全に別の感情回路が組み込まれてるわ!」


 女子社員たちの間に、驚愕と絶望が入り混じった激震が走る。

 

「そうやろ? 彼女の話を、ほんまに愛おしそうに聞き入っててね。あんな顔、社内じゃ絶対に見せへんわ。それにね、移動する時も凄かったんよ。もう、こっちが見てるだけで恥ずかしなるくらい」


「な、何がですか……? これ以上まだ何かあるんですか……。もう、勘弁してぇ~」

 

「浅井君の方から手を伸ばしてね、指をしっかりと絡める恋人繋ぎで、彼女さんとぴったり寄り添って歩いてたんよ。人混みで彼女が逸れんように、片時も離さへんって感じでね。彼女さんも、彼の腕に少し甘えるように寄り添って……。それだけやないわよ。歩きながら、彼女さんが浅井君の肩にコテンって頭を乗せてね、浅井君もそれを当然みたいに受け入れて、二人の歩調を合わせてたんよ。もう、完全に二人の世界やったわ。入り込める隙なんて一ミクロンもなかったわねぇ」


 その光景を具体的に想像した瞬間、数人の女子社員がバタリと机に突っ伏した。

 

「……恋人繋ぎ。あの、キーボードを叩くための完璧な指先が、誰かの体温を求めて絡まってるなんて」

 

「肩に頭を乗せて歩くとか……。あの隙のない浅井さんが、自分の肩を誰かの居場所として開放してるなんて……もうダメ、キャパオーバーよ」

 

「完璧に撃沈だわ。一分一秒を惜しむあの人が、須磨でゆっくり手を繋いで歩くなんて……」


「……その、彼女さんって、どんな人だったんですか? やっぱり、私たちとは住む世界が違うような、隙のないバリバリのキャリアウーマンとか……?」

 

 震える声での問いかけに、先輩社員は記憶を辿るように天井を見上げた。


「うーん、そうやねぇ……。雰囲気は、こう、ふわふわした感じで、ほんまに優しそうな印象やったわ。でもね、大きな水槽の青い光に照らされて魚を眺めてた時の横顔は、ハッとするくらい綺麗な美人さんやったわ。えーっと、ほら、あのテレビによく出てる……あー、なんて名前やったかいね。最近ドラマやCMでよう見る、あの……」


「思い出して! お願い、今すぐ思い出してください! そのイメージが、私たちの明日の生存確認にかかってるんです!」

 

「えーっと、誰やったかなぁ。ほら、目がパッチリしてて、透明感があって、笑うとすごく可愛い……ああっ、ごめんねぇ、喉まで出かかってるんやけど! とにかく、芸能人みたいにキラキラしてたことだけは確かやわ!」


 結局、具体的な名前までは出てこなかった。しかし、彼女たちの脳内では、その情報は瞬く間に変換され、最上級のイメージとして増幅されていく。

 

「ふわふわしてて、でも水槽の光の中で美人に見える……?」

 

「それって、もう普通の人間じゃ太刀打ちできないレベルってことでしょ……」

 

「あの精密機械を完全に骨抜きにするくらいの女性なんだから……」


 女子社員たちの間に、勝手に作り上げられた”浅井陽斗の奥さん像”は、今や手が届かないほどの高嶺の花として神格化され始めていた。

 

 今日、あの鉄の規律を誇る男が、入籍の報告という形でその愛の深さを証明した。その事実が、何よりも饒舌に彼女の存在の大きさを物語っていた。


「……負けた。完敗すぎるわ」

 

「結婚なんて言葉、浅井さんの辞書には無いと思ってたのに」

 

「もう、ヤケ酒よ! 今日は朝まで飲むわよ! 三宮中の酒を持ってきなさい!」


 三宮の夜はまだ深い。

 主役のいない大広間では、憧れの人の『人間宣言』と、入り込む余地のないほど完成された愛の形に完全に打ちひしがれた彼女たちの、あまりにも騒がしく、そして切ない鎮魂歌が深夜まで響き渡っていた。



――――

 翌朝、オフィスには目を腫らし、二日酔いの激しい頭痛に耐えながらゾンビのように彷徨う女子社員たちの姿があった。

 中でも一番悲惨だったのは社長秘書である。

 普段の知的な面影は霧散し、真っ青な顔でデスクにしがみついたまま、今この瞬間に役所や式への準備で愛を語らっているであろう陽斗への絶望を、重い吐き気と共に飲み込み続けていた。


 その異様なまでの負のオーラに、他の男子社員たちはもちろん、社長ですら、誰一人として声をかけることができなかった。

 彼女たちの怒りと悲しみの矛先がどこに向いているか、その理由は全員が痛いほど理解していたからである。

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