最終話 色彩の砦
【陽斗視点】
六月の雨は、神戸の街を優しく、そしてしっとりと濡らしていた。
北野の急な坂道を登り詰めた先に佇む、石造りの教会。明治の面影を残すその建築物は、雨上がりの淡い陽光を浴びて、銀色に鈍く光っている。
一年前のあの日、俺は空になったクッキーの缶の中に、一つの約束を封じ込めた。
それから三千百五十三万六千秒。俺と詩織は、一つひとつの手順を、これ以上ないほど丁寧な手つきで踏みしめてきた。
――――
「……浅井さん、そろそろ時間ですよ。顔、怖いっすよ? これからデバッグでもしに行くような顔して」
控室の扉が開き、場違いなほど高級なタキシードに身を包んだ俺に、高橋が軽妙な声をかけてきた。
いつものひょうひょうとした態度ではなく、今日はどこか感極まったような瞳をしている。
「……高橋。仕事はどうした。お前の進捗管理表には、今日の日付に有給という項目はなかったはずだが」
「何言ってるんっすか! 社長が『空港の門番の最後の任務だ、しっかり見届けてこい』って、強制的に休みをねじ込んでくれたんですよ。ほら、社長も専務も特等席で待ってます。行きましょう、浅井さん」
俺は深く息を吐き、タキシードの襟を正した。
重厚なナラ材の扉の前に立つ。その向こう側には、俺の人生における唯一無二の”正解”が待っている。
【詩織視点】
純白のシルクが、私の動きに合わせて微かな衣擦れの音を立てる。
鏡の中にいる自分は、まるで見知らぬ誰かのようだった。パリの美術館で見た、どの宗教画の聖女よりも白くて眩しい。
(……ようやく、この日が来たんだね)
一年前、陽斗さんがクッキーの缶に隠してくれたあの指輪。あの時から、私の時間は今日という日のために流れてきた。
フランスで孤独にキャンバスに向き合っていた夜も、朝の光の中に陽斗さんの背中を思い描いていた。私の色彩を受け止めてくれる、世界でたった一つの額縁。
「先生、準備できましたか……? あ、やばい、もう泣きそう……」
教え子の由紀ちゃんたちが、控室のドアの隙間から顔を出して鼻をすすっている。彼女たちの真っ赤な瞳を見て、私の胸にも熱いものが込み上げてきた。
あの日、北野の坂道で陽斗さんと出会わなければ、私はこんなにも温かな色を知ることはなかっただろう。
パイプオルガンの音が、重厚な旋律となって教会の空気を震わせ始める。
父と腕を組み、ゆっくりと扉が開く。
光の向こう側、祭壇の前に立っているのは、私が愛したあの不器用で、誰よりも真っ直ぐな男性だった。
険しい表情で、まるで重大な任務に挑む軍人のように背筋を伸ばしているけれど、私を見つめるその瞳には、隠しきれない情熱が灯っている。
一歩、また一歩とバージンロードを進むたびに、陽斗さんとの思い出が鮮やかに蘇る。
冷え切っていた彼のマンション、一緒に飲んだ濃すぎる紅茶、そして私を守るために彼が築いてくれた、あの色彩の砦。
ついに彼の目の前に辿り着いたとき、私は堪えきれずに微笑んだ。
「お待たせ、陽斗さん」
【陽斗視点】
石造りの聖堂に、神父の厳かな声が響き渡る。
「汝、浅井陽斗。瀬戸詩織を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、これを愛し、敬い、慈しみ、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
神の御前での問いかけ。儀式を完遂するためにシステムが要求する応答は、たった一言、「はい、誓います」という肯定のフラグだ。
俺は、脳内のメモリに展開していた『完璧な応答手順』を再確認した。内ポケットに忍ばせたメモには、その後の披露宴で述べるべき論理的で格調高いスピーチが、寸分の狂いもなく記されている。
だが、祭壇の前で詩織の瞳と視線がぶつかった瞬間、俺の中のすべての回路が火花を散らしてショートした。
(……「はい、誓います」?)
そんな、誰にでも使い回せる汎用的なコードで、俺たちの三千百五十三万六千秒を定義できるはずがない。
この一年、俺が孤独な砦で積み上げてきた渇望も、彼女がパリの空の下で研鑽し続けた色彩も、そんな簡素な文字列に押し込めるには、あまりに密度が高すぎた。
俺は、内ポケットのメモを意識の外へと追いやった。事前に構築した論理も、予定された儀式の進行も、今の俺には何の価値も持たない。
「……瀬戸詩織……いや、浅井詩織」
神父の顔が驚きに微かに動くのが見えたが、構わなかった。俺が誓うべき相手は、概念としての神ではなく、今、目の前で涙を堪えて俺を見つめている、この一人の女性なのだから。
震える声を制御しようと努めるのをやめた。俺は、自身の内側から溢れ出す無秩序な感情を、ありのままの言葉に乗せて放つことに決めた。
「俺は、君という存在を知るまで、世界は数字と論理だけで構築されていると信じていた」
この言葉こそが、俺の、俺たちだけの真実の誓いだ。
あの日、クッキーの缶を介して結んだ無言の契約を、今ここで、俺自身の魂から削り出した言葉で上書きしなければならない。
定型通りの「はい」では、俺が彼女にどれほど救われ、彼女の色彩にどれほど焦がれていたかを証明できない。
効率を何より優先してきたこの俺が、人生で最も非効率で、最も熱い言葉を、神父への返答ではなく彼女への告白として捧げること。
それこそが、浅井陽斗という人間が成し得る、最大級の愛の証明だった。
俺は詩織の手を、さらに強く握りしめた。
「……約束する」
儀式としての正解を捨て、俺は人生としての正解を選び取った。
その瞬間、詩織の目から零れ落ちた雫が、俺の決断が正しかったことを、何よりも鮮やかに教えてくれた。
【詩織視点】
陽斗さんの言葉が、私の心の一番深い場所に染み込んでいく。
理屈っぽく論理的で、少し偏屈な彼が、一生懸命に紡いでくれた愛の言葉。それはどんな詩篇よりも美しく、私の魂を震わせた。
「……陽斗さん。私はね、陽斗さんが作ってくれたこの”砦”が、大好きだよ。どんなに外の世界が怖くても、ここに戻れば陽斗さんがいて、私の色を受け止めてくれる。……私の白はね、陽斗さんの隣にいるときに、一番綺麗に輝けるの。……ずっと、そばにいさせて。あなたの人生を、私に全部、描かせて」
誓いの指輪が、お互いの薬指へと通される。
銀色の輝きが、二人の魂を永遠に繋ぎ止める契約の証となった。
誓いのキスを交わした瞬間、教会の窓から強烈な陽光が差し込んだ。
ステンドグラスの極彩色が、真っ白な私のドレスを、世界中のあらゆる色で染め上げていく。
鳴り止まない拍手。生徒たちの泣き声。社長の豪快な笑い声。
私は、この愛すべき世界を、大好きな人の腕の中で噛み締めていた。
【陽斗視点】
石造りの教会に、祝福の鐘が鳴り響く。
北野の丘を吹き抜ける風が、詩織の纏う純白のベールを優しく揺らしていた。フラワーシャワーの鮮やかな花びらが舞い散る中、俺たちはゆっくりと外階段を降りていく。
「陽斗さーん! しおちゃん先生! 本当におめでとうございます!」
「先生、綺麗……っ! 本当に、世界一の『白』ですよ!」
そこには、泣き崩れる美術部の生徒たちの中心で、誰よりも大きなカメラを構えてシャッターを切りまくる高橋の姿があった。
「高橋、さっきも聞いたが、お前……仕事はどうした?」
「何言ってるんっすか、浅井さん! これが俺の今日一番のプロジェクトですよ。見てください、このベストショット! 誓いのキスのシーン。後で全社員に一斉送信しときますからね!」
「……即座にそのデータを消去しろ! さもなければ、明日からの高橋の業務タスクを物理的な限界まで再構築してやる」
「あははー、もう、送っちゃいました!」
「――なっ、う、嘘だろぉ……」
いつもの軽口。不機嫌な言葉とは裏腹に、胸の奥には穏やかな凪のような充足感が広がっていた。俺は『精密機械』と呼ばれていた筈だが、いつの間にかこれほど多くの、予測不能なノイズに囲まれるようになったのだ。
石造りの教会に祝福の鐘が鳴り響き、鳴り止まない拍手の中で幕を閉じた結婚式。
その後、俺たちは吸い込まれるようにパリへと飛んだ。詩織が研鑽を積んだ地を二人で歩き、彼女の瞳が捉えていた色彩を追体験する旅。エッフェル塔を遠くに望む公園のベンチで、スケッチブックを広げる彼女の隣に座る。俺は分刻みのスケジュールを管理する本来の役目を忘れ、ただ彼女の筆先から生み出される『新しい世界』を眺めていた。三千百五十三万六千秒という、気の遠くなるような待機時間の果てに手に入れた、夢のような空白の時間。
【開発本部の社員たち視点】
式当日。
「今頃、誓いのキスとかしてんのかな」、「浅井さん、ガチガチに緊張して変なメソッド名とか呟いてそうですよね」などと、仕事が手に付かないまま喋っていた、その時だった。
ピコン、と全社員の端末に一斉通知が届いた。
送信元は、式に潜入しているはずの高橋君からだ。
「――っ! 来たぞ、高橋君からだ!」
誰かの叫び声を合図に、エンジニアたちが一斉にモニターに食いついた。
そこに添付されていたのは、一枚の画像。
北野の教会の柔らかな光の中で、純白のドレスを纏った詩織さんと、見たこともないほど穏やかな、それでいて情熱を隠しきれない表情で彼女を抱き寄せる浅井さんの誓いのキスの瞬間だった。
「うおぉぉぉぉぉ!! 浅井さんが、浅井さんが人間になってる!」
「ちょっ、奥さん可愛すぎんだろ! 浅井さん、こんな美人とどこで知り合ったんだよ!」
「反則だ、この透明感……! 浅井さんには勿体なさすぎる!」
「おい、この画像、サーバーの最高優先度ディレクトリに保存しろ!」
男性社員連中は、浅井さんより奥さんに釘付けになってしまったようだ。
「嘘、浅井さんが……!? 信じられない、あの人、コードとコーヒー以外に興味ないと思ってた!」
「ちょっと待って、奥さん綺麗すぎない!? モデルさん? 女優さん? 嘘でしょ、浅井さん、前世でどんな徳を積んだのよ!」
「この詩織さんって人、雰囲気が柔らかくて最高に可愛い……。浅井さんの無機質な生活感、全部塗り替えられちゃったって噂だもんね」
「見て、あの浅井さんの顔! あんな風に人を愛おしそうに見るなんて……ずるい、ちょっと感動しちゃうじゃない」
女子社員は、二人の写真で感動しているようだった。
「「「「「美男、美女の結婚式って……、どんなテレビドラマなんだよぉぉぉー」」」」」
オフィスは、もはや大規模システムがノーバグで稼働した瞬間を上回る狂喜乱舞の渦に飲み込まれた。
普段は仕様書通りにしか動かない社員たちが、モニターの前で絶叫し、詩織さんのあまりの美しさに頭を抱えてキーボードを叩いている。
その直後、高橋君から追加のチャットが届く。
『浅井さんにバレました。明日からの僕のタスクが物理限界まで再構築されるそうです。でも、悔いはありません。全データ、社内共有ストレージにバックアップ完了!』
俺たちは、その勇気ある犠牲と、画面の向こうで真っ赤になっているであろう上司の幸せを祝し、今日ばかりはデバッグの手を止めて、エアシャンパンで乾杯した。
あんな顔をして笑う男が、俺たちのマネージャーだったのだ。
殺風景なオフィスの空気は、あの瞬間に届いた一枚の写真によって、最高にハッピーで、そして少しだけ嫉妬の混じった色彩に書き換えられてしまった。
【社内食堂に集った女子社員連合の視点】
翌週の昼休み。社内食堂の隅に、三宮の夜を共にした女子社員たちが吸い寄せられるように集まっていた。
開発本部の後輩が、秘密の宝物を見せるようにスマートフォンをテーブルの中央に置く。
「……みんな、準備はいい? 高橋さんから回ってきた式の写真よ」
画面には、北野の教会で幸せそうに微笑む奥様と、見たこともないほど優しい眼差しを向ける浅井さんの姿があった。
「嘘……可愛すぎるじゃない。何なの、この透明感」
「雰囲気がふわふわしていて、守ってあげたくなる可憐さよね。浅井さんのあの尖った空気、全部溶かされちゃってる感じ」
女子社員たちの間に、言葉にならない溜息が漏れる。そこへ、背後から画面を覗き込んだ例の年配社員が、わが意を得たりと手を打つ。
「そうそう、この人よ! 私が須磨で見かけたのも、まさにこのお嬢さん。写真で見ると、あの時よりずっと綺麗やわぁ~。浅井君がこんな顔になるのも分かるわ」
その言葉が、噂を真実へと変える決定打となった。
「高校の美術の先生なんですって。お名前は、詩織さん。こんなに綺麗で、しかも芸術を教える先生だなんて。殺風景だった浅井さんの日常に、彼女が魔法で色を塗っちゃったのね」
「それに見て、この浅井さんの顔。あんなに隙のない人が、こんなに眉を下げて笑うなんて。まるで宝物を手に入れた子供みたいじゃない」
そんな中、最後尾で誰よりも深く打ちのめされていたのは、社長秘書の彼女だった。
彼女が、まるで極寒の地に立たされているような、掠れた声で語り出した。
「……私、昨日のスケジュール打ち合わせの時に、聞いてしまったの。社長と話している最中に専務と常務が飛び込んできて。私が席を外そうとしたら、『いいから座っていろ。あいつがいかに人間らしいかを聞かせてやる』って、無理やり残されたわ」
女子社員たちが一斉に彼女を振り返る。
「浅井さん、一度は自分の弱さから彼女を突き放したことがあったらしいの。でも、彼女がいない生活が墓場みたいに寒くて耐えられなくなって。それで、三宮から北野坂を一心不乱に走って、彼女の勤める学校の門の前で何時間も待ち続けたっていうのよ。あの浅井さんが、汗と泥にまみれて……」
周囲の若手社員たちが、衝撃に目を見開く。
「彼女がパリに留学していた間も、毎日欠かさずメールを送っていたそうよ。今頃は、その思い出の地で、二人きりの新婚旅行中なんですって。社長たちは『あいつ、仕事中よりマメじゃないか』って、本当に嬉しそうに笑っていたわ」
自分がプロフェッショナルとしての正解を信じて守り抜いてきた距離。それが、彼にとってはただの景色でしかなかったことを、詩織の放つ圧倒的な幸福感が証明していた。
「……ねえ、もう一枚、別の角度のも見せて」
「次はこれ。北野の丘を吹き抜ける風が、詩織さんの纏う純白のベールを優しく揺らしていて、フラワーシャワーの鮮やかな花びらが舞い散る中、お二人がゆっくりと外階段を降りていくところよ。本当に、絵画みたいに綺麗……」
剥き出しになった陽斗の一途な情熱と、それを受け止める詩織の圧倒的な可憐さ。
年配社員を除くその場の全員が、抗いようのない多幸感に当てられ、完膚なきまでにノックダウンされていた。
――――
結婚後、季節が巡り、神戸の街に秋の気配が混じり始めた頃。
会場の入り口には、俺が発注した純白のカサブランカが、彼女の門出を祝うように凛と咲き誇っている。白を愛する彼女に相応しい、気高くも清らかな香り。
壁面に並ぶのは、パリの柔らかな光と神戸の鋭い風、そして俺たちの”砦”で共に紡いできた日々の色彩だ。
来場者たちは皆、彼女の描く圧倒的な『白』の深さに足を止め、息を呑んでいた。その様子を、俺は一歩下がった場所から見守る。
「……ほう。これは、実に見事なものだ」
背後から響いた重厚な声に、俺は背筋を正した。
仲人を務めてくれた我が社の社長だ。普段はビジネスの最前線で鉄の規律を説き、数字を追う巨人が、今日は一人の鑑賞者として、一点の絵画の前に釘付けになっていた。
「社長。本日はお忙しい中、足を運んでいただきありがとうございます」
「いや、浅井君。礼を言うのはこちらの方だ。これを見たまえ」
社長が指し示したのは、個展のメインピース。
タイトルは『朝の砦』。
ポートアイランドのタワーマンションから見える、あの容赦のない朝日に照らされたリビングを描いたものだ。以前の俺にとっては、自分を摩耗させるだけの無機質な檻でしかなかったあの空間が、詩織の筆を通すと、これほどまでに優しく、生命力に満ちた場所に変わるのかと驚かされる。
「私は建築も土木も、数字で測れる強固なものが好きだ。だが、この絵には、どんなトラス構造よりも強固な意志を感じる。優しくて、それでいて何ものにも屈しない強さだ。浅井君、君がこの女性を守りたいと言った理由が、今ようやく、本当の意味で理解できたよ。……よし、この絵は私が個人的に買い取らせてもらおう」
「……待ちなさい、兄さん。それはあまりにも横暴だ」
社長の宣言を遮るように、傍らにいた一人の男が鋭く口を挟んだ。社長の弟であり、専務の正二だ。
普段は沈着冷静な合理主義者として知られる専務が、顔を赤くして社長に詰め寄った。
「いいですか、この作品に込められた熱量は、経営の最前線にこそ必要だ。私の執務室にこそ相応しい。浅井君、君が連れてきたこの素晴らしい才能、正当に評価するのは私の方だ。兄さんには譲れないな」
「何を言うか。浅井君をここまで育てたのは私だぞ? 正二、お前には他に相応しいものがあるだろう」
「悪いが、兄貴たち。その議論に、俺も参加するぞ」
低くも張りのある声と共に、三兄弟の末弟である常務の勇三が歩み寄ってきた。
常務は、社長と専務の間に割って入ると、確固たる意志を宿した瞳で『朝の砦』を見つめた。
「この絵に描かれた光は、希望そのものだ。乾杯の音頭を取らせてもらった俺としては、二人の門出を象徴するこの作品を、我が営業本部に飾り、若手たちの道標にしたい。誠一 兄貴、正二兄貴。これは譲れんな」
「何を! 勇三、お前まで私に盾突くのか!」
ビジネス界の重鎮三人が、展示室の真ん中でみっともなく指を指し合っている。周囲の来場者たちは、日本のインフラを支えるトップ同士の『兄弟げんか』に、どう反応していいか分からずハラハラと固まっていた。
だが徐々に、言い合いは変わっていった。
「盾突くんじゃない。正当な要求だ。大体、兄貴は小学校の頃、俺が大事にしていたラジコンの基板を『仕組みを調べる』とか言って勝手にハンダ付けし直したのはどこの誰だ!」
「五十年以上前の話を持ち出すな! あれは接触不良を直してやっただけだろうが!」
「おかげでバックしなくなったのを忘れたとは言わせないぞ!」
「まあまあ、二人とも。勇三も、今は絵の話をしているんだ。……と言いたいところだが、兄さん。僕だって、母さんのいかなごのくぎ煮を兄さんがこっそり二倍食べた前科を忘れたわけじゃないぞ」
「それを言うなら正二! お前こそ高校生の頃、隣の席の女子に送るはずのラブレターを間違えて父さんのカバンに忍ばせて、一週間、我が家に言いようのない重苦しい空気が流れた件はどう説明するんだ!」
「なっ、それは……不可抗力のミスだ! それより勇三! お前こそ成人式の朝、緊張しすぎてネクタイが結べず、泣きながら私の部屋に転がり込んできたのを忘れたか! あの時、結局、私が結んでやったんだろう!」
「兄貴、あれは結び方が特殊だっただけだ! それに兄貴だって、初めてのデートで気合を入れすぎて、香水を瓶半分も浴びてきたじゃないか。あの日の車内は、まさに生き地獄だったぞ!」
「とにかく、この『白』は私の感性に合致しているんだ!」
「兄さんに感性なんてあるのか? この緻密な光の計算を理解できるのは、技術を重んじる私だけだ!」
「いいや、この熱量を現場に伝えるべきは、俺だ!」
あまりに低次元な応酬に、周囲から「ぷっ」と小さな笑い声が漏れ始めた。
困り果てていた詩織も、三人の子供じみた様子に、いつの間にか口元を綻ばせている。
ついに社長が、ふんと鼻を鳴らして、正二と勇三の肩を抱き寄せた。
「……分かった、もういい。二人とも、この絵に惚れ込んだのだな。ならば折衷案だ。これは『会社』として購入し、役員会議室に飾る。それなら毎日三人で拝めるだろう」
「……ふん。兄さんたちと並んで見るのは癪だが、作品を独り占めされるよりはマシか」
「それなら納得するほかないな」
先ほどまでの険悪な空気はどこへやら、三人は「いい買い物をした」と満足げに笑い合っている。その微笑ましい和解の様子に、会場は温かな拍手と笑いに包まれた。
そのまま、三人は並んでじっと『朝の砦』を見つめていた。その横顔には、さっきまでの子供っぽさは消え、数多の巨大プロジェクトを成し遂げてきたプロフェッショナルの厳しい眼差しが戻っていた。
静かな納得が彼らの間に流れるのを見届け、俺がそっとその場を離れようとした時だ。
「浅井君」
社長が低く、重みのある声で俺を呼び止めた。
振り返ると、三人が揃ってこちらを見ている。彼らの視線は、再び絵に向けられた。
「改めてこの光を見ると、言葉を失うな。……浅井君、正二、勇三」
社長が二人を招き寄せる
「浅井君、君という男の強固な殻を破ったのは、この光だったのだな。……我々も初心に帰らねばならんぞ。計算や理論の先にある、この熱量を忘れては、良いシステムなどできんからな」
社長の言葉に、専務も少し照れくさそうに眼鏡を拭い、常務もまた、深く頷いた。
――――
三人の重鎮が満足げに立ち去るのと入れ替わるように、展示室の入り口に、見慣れた小柄な姿を見つけた。
垂水の実家から駆けつけてくれた、俺の母親だ。
母は、いつになく余所行きの装いで、詩織を見つけると、その顔にぱっと花が咲いたような笑みを浮かべた。
「お義母さん! 来てくれたんですね」
「しおちゃん。おめでとう。……本当に、素晴らしいわ」
駆け寄った詩織の手を、母は愛おしそうに両手で包み込んだ。
展示されている絵を一枚ずつ、食い入るように眺める母。その瞳が、先ほどの『朝の砦』の前で止まった。父が他界してから一人で家を守り、偏屈なエンジニアに育った息子を案じ続けてきた母にとって、その絵に描かれた光は、俺が手に入れた新しい安息の証に見えたのだろう。
「陽斗、良かったわね。……この光が、これからのあんたたちの道標になるのよ」
母は、俺にしか聞こえない小さな声でそう呟き、目元を少しだけ潤ませた。
以前、初めて詩織を実家に連れ帰った日、玄関で強張っていた母の笑顔は、今や家族としての深い慈しみに満ちている。
詩織と頻繁に連絡を取り合い、新しいレシピを教わり、元町へ連れ立つ二人。俺の預かり知らぬ場所で構築された温かな絆が、このギャラリーをさらに優しく包み込んでいるようだった。
――――
ふと視線を転じれば、会場の隅で、高橋が誰かと親密そうに手を繋いで作品を眺めていた。
相手は、詩織の同僚であり、かつて俺を検分すると息巻いていた松本紗代だ。
「浅井さん。この絵の白、なんだか震えるっすね。俺たちの仕事も、いつか誰かをこんな風に感動させられるんすかね」
普段の軽薄さを脱ぎ捨てた彼の問いに、俺は短く「あぁ」とだけ答えた。
その隣で、紗代が俺を一瞥し、どこか誇らしげに、けれど相変わらずの勢いで口を開く。
「当然でしょ! 浅井さん、うちの詩織をこんなに輝かせてくれたことだけは認めてあげるわ。でも、こっちの一成も、なかなか『計算通り』にいかない面白い素材なんだから。期待してなさいよ!」
嵐のような二人組が、今や自分たちの新しい色彩を見つけ、互いの手を離さずに歩んでいる。その光景は、このギャラリーのどの作品よりも、生命力に満ちた複雑な色を放っていた。
――――
さらにその奥には、以前詩織が教鞭を執っていた学校の生徒たちの姿もあった。
「先生、個展開催おめでとうございます!」
「パリの絵、すごく綺麗……! 本当に見に来れてよかったです!」
教え子たちに囲まれ、少し照れくさそうに、慈しむような眼差しで応える詩織の姿。彼女の帰国を誰よりも待ちわびていたのは、俺だけではなかったのだと思い知らされる。
そんな賑やかな喧騒の向こう側で、詩織と視線がぶつかる。
彼女は誇らしげに微笑み、小さく手を振った。
俺はそれに応えるように、わずかに口角を上げる。
彼女の筆は、俺の人生という無機質な背景を、取り返しのつかないほど鮮やかに塗り替えてしまった。その暴力的なまでの美しさに、俺の理性は心地よい敗北を認めざるを得ない。
(……理屈など、もはやどこにも存在しない)
独りきりで孤独を飼い慣らしていた俺の砦は、今や多くの人々が集い、それぞれの感情を分かち合う場所へと変容した。
世界を構成するのは、数字でも論理でもない。
このキャンバスの上に重なる光と、隣にいる君の体温。
それこそが、俺が一生をかけて解析し続けたい、唯一無二の幸福なのだから。
振り返れば、あの日。婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった。
止まったままの時計を抱え、もう誰かを深く想うことなどないのだと、互いに決めつけていたはずなのに。
不器用に重なり合った心の色彩が、いつしか魔法のように鮮やかな景色を織りなしている。
個展が終わり、人影のまばらになったギャラリーの窓から、神戸の夜景が見える。
海を渡ってくる風は、どこまでも澄み渡り、俺たちの新しい門出を祝福している。
隣に並んだ詩織の柔らかな手の温もりを感じながら、俺は確信していた。
明日から始まる日々も、彼女が描く白のように、果てしなく深く、誠実な光に満ちているのだと。
――完――
最後まで、お読み頂きましてありがとうございました。
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